寂しさとむなしさ
「やっぱりお前が悪いよ」
それが理不尽なやつあたりだとはわかっていた。
「また僕のせいですか?」
「そうだ。あんまりしょんぼりお前が廊下に立っているから。先生に叱られた小学生かよ。調子狂うんだよ。お前たち兄弟は」
「そうですか?」
クラウスは納得いかなげに首を傾げる。
「そうだよ!」
俺は強引に話の決着をつける。
「そして俺は相当の物好きだ」
自分でも何をやってるんだとあきれ果てる。
「ですよねぇ」
よほどの変わり者を目にしたように、クラウスは深々とうなずく。
お前が同意するなよとむっとしてクラウスをにらむと、彼はおかしそうに口元をほころばした。
「でも」
彼は一瞬言葉を切り、
「嫌いじゃありません。そういうの」
優しい目で俺に笑いかける。
相変わらずバスは、がたがたと走り続けている。
空はどんよりと曇っていたが、ところどころ帯のように明るい光が伸びていた。
「ヴァルター」
クラウスが体ごと、俺の方に向き直った。
「また、兄さんの見舞いに一緒に来てもらえませんか?」
不安な気持ちを必死に押さえつけながら、真っ直ぐ俺を見あげてくる。
「僕に手を貸して欲しいんです。今日みたいに。僕に勇気をください。くじけないように。そして、僕が思いつきもしない方法で、この状況を動かして欲しいんです。以前あなたにお前の話はまるで筋が通っていない。何をさせたいんだって言われました。あの時僕は、そう言われても仕方がなかった。どうしたらいいかなんて、はじめから何もわかっていなかったのだから。どうにかしなきゃ。どうにか出来るというありもしない自信しか持っていなかった。何の覚悟もないのに。自分自身の気持ちさえもてあましているのに、兄の気持ちを動かすことなんて、あなたに全てを許してもらおうなんて、出来るわけがなかった。僕は世間知らずで思い上がっていた。今は、あなたを安易に巻きこんでしまって申し訳なかったと思っています。もっと慎重に考えるべきだった。自分の心を押さえつけることだけではなく、あなたの立場に立って。でも無理やりにあなたを巻きこんで、よかったとも思っています。そうでなければこうやって、あなたとこんな話をすることもできなかった。不安な気持ちをぶつけられる相手がいる僕は、なんて幸せなのだろう。おかげで僕は、押しつぶされることなく立っていられている」
クラウスは、素直な人間だ。
しみじみ俺は思った。
今まで俺がどれほどひどいことをしてきたのか、忘れはてたとでもいうのか?
強姦までした男と一緒にいて、幸せだというのかと。
俺はそれができないから、フリードリッヒに会うたび動揺させられるのだろう。
いっそ全てを許してしまえばいい。キレイさっぱりと。
きっとそれが、俺が持っている唯一の武器だ。
でも、俺にはできない。
あいつは、自分がやったことの報いを受けるべきなんだから。
「クラウス。一緒に病院へ行ってやってもいい。ただし、お前自身がそうして欲しいと思っているのならばだ。フリードリッヒのためなら、俺は二度と行くつもりはない」
「もちろん、僕のためです」
クラウスは反射的に答えた。
「ヴァルター。僕に力をください。お願いします」
クラウスは膝に額がつくほど深々と頭をさげた。
わかったと俺は黙ってうなずく。
「でも、兄さんを今日みたいに情け容赦なく追いつめるのはなしです。そうする権利があなたにあったとしても」
クラウスはきっぱりとした口調でそう言った。
「これ以上苦しむ兄さんを見たくないし、また兄さんを興奮させて、看護婦さんに出入り禁止にされたら困りますから」
「出来るだけ善処する」
フリードリッヒのことはともかく、ああいう口うるさい看護婦は苦手だ。
しばらくいた孤児院の寮母にそっくりで。
規則づくめで嫌な所だった。
あの時一緒に暮らしていた子供たちは、どうしているのだろう。俺はまるで知らない。
父と暮らしていた頃の知り合いも。
親戚についても。
誰ひとり。
十年後俺は、今付き合っている人のことをどれだけ知っているだろう。全ての人と縁が切れて、噂さえ聞こえてこず、たった一人、ただその時を生きている。
人はいつか別れ別れになり、ばらばらになっていくものだから。
たとえ再会することがあったとしても、また別の場所に向かって別れていく。
フリードリッヒとも。
今、目の前にいるクラウスとも。
俺は、別れるんだ。
どんなに大切な人とも。
嵐に襲われるような最低な気分になったとしても、ほんのしばらく耐えればいい。
時がたてば忘れていく。
時々ふっと思い出して、かすかに胸が痛む程度に。
自分がたいした人間でないことはわかっている。
でも改めてそのことを再確認すると、自分が何故ここにいるのかわからなくなる。
なんだかむなしい。気が滅入って仕方がない。
「ヴァルター」
クラウスの穏やかな声が、俺の名を呼ぶ。
「どうかしましたか?」
心配そうに俺の顔を覗きこんでくる。
「いや」
首を横に振って、窓の外に視線を向けた。
口を開いたら妙なことを口走ってしまいそうで、俺はバスを降りるまで口を閉ざしていたまま、クラウスから顔をそむけていた。
クラウスとはバス停で別れた。
フリードリッヒがいる病院に戻るらしく、逆行きのバスの発車時間を調べている。あの後フリードリッヒがどうなったのか、確かめに行くのだろう。
出勤時間にはまだ間があったので、時間つぶしに近くの公園に向かった。
屋根裏にある自宅まで階段を上って行くのが億劫に思えた。
ベンチに腰かけ、煙草を取り出して火をつける。
煙を吸いこみ吐き出した途端、雨がぽつぽつ降ってきた。
クラウスはもう、バスに乗っただろうか。
気になってバス停が見える辺りまで戻ってみた。
クラウスが両手のひらを上に向けて雨粒を受けながら、これ以上ひどい振りにならなければいいがと空を見あげて立っていた。
俺は自宅に戻って傘の柄を掴むと、地上までの長い階段をおりて、バス停に向かった。
クラウスの姿は、もうそこにはなかった。
強姦男と一緒にいて幸せだというのか? と直接クラウスに言ったら、そういえばそうでした……と、とぼけた返事が返ってきそうです。
あの一瞬は絶対忘れ果てていたはずだ。
繊細そうで、結構どんぶりなクラウス。
はっきりいって、勘定はできません。こいつは。
最後の方で傘が出てくる場面が出てきますが、登場人物がドイツ人だってことをすっかり忘れ果てていました(笑)
傘、さすのかな……。
ヴァルターに傘さしだされても、じゃまになるのになぁと、クラウスは思ったかもしれません。
実はヴァルター、ものすごい心配性なのかもしれない。
謎な人だ(自分で書いているのにこの反応です)




