余
真円を描く銀月が冴え冴えと輝く晩。
道端で呻く身重の女を挟んで二人の男女は対峙する。彼らは二人とも人外の存在だった。
その時彼が見た光景はにわかには信じがたいものだった。しかし、その驚きは一瞬のことで、すぐにその目は好奇の色とすり替わっていた。
『それは俺の獲物なんだがなぁ』
そう言う男だったが、すでに狙いは足元にうずくまる身重の女からは外され、中空にふわふわと浮かぶ月精の様な神秘的な雰囲気を漂わせる女に注がれていた。眷属ではないのは顔を合わせた瞬間にすでに除外していた。眷属以外の存在が、彼にとって、どのような位置づけにあるかは知っていて、彼は好奇心の赴くままにしているのだった。
『それともお前の方が先に狙いを付けていたのか?』
身重の女は、食人の嗜好のない彼であっても、それなりの気をそそられるほどに、なかなか美味そうな気配を放っていたが、生憎と彼にはその肉は用がなかった。その腹の中にいるものには興味がそそられたのだ。
この甚だ謎な女も、それが目的なのだろうか。
身重の女の腹に何やらこちらにとって嫌な気を放つ、何かがそこには宿っている。それが何かを確かめるために、彼はここに現れたのである。
彼の中で目標物が自分に与える害というものはまったく考えていなかった。嫌であれば、避けるなり無視するなりするのが相場だが、男の場合はあえて確認しに行かねば気が済まない性分だったことが大きい。
危険など端からものの数にしないほど、彼は自身の力の故にそれから遠ざけられた存在だった。
『駄目……食べちゃ、駄目なの』
女は――女と言い切るには、仕草に子供っぽいものが多く見受けられる女は、首を何度も横に振って、それは駄目だと男に言葉少なに告げる。
それを好都合と取った男は交換条件を女に示した。
『それじゃあ、お前が代わりになれよ。それなら俺はこの女を獲物にするのはやめる』
自分可愛さにそれを拒絶するか、それとも愚かな自己犠牲意識に駆られ、その身を投げ出すか。女がそれを選ぶこと自体も、実に良い見物のような気がして、彼は期待に胸を膨らませながらその答えを待った。
けれど彼女が出した答えは、予想外の行動に好みを示す彼には限りなくありがたく、そしてそんな彼であっても、不覚ながらも、またしても呆気に取られるものだったのである。
『食べてもいいけど……まだ食べられないよ?』
何を言っているのか、さっぱりわからなかった。補食する権利は、捕食者側にあるのではないのかと男は軽く頭痛に襲われる。
『どうして?』
とりあえず問いかけるだけはしてみる。
少し視線を泳がせて女はやっと口を開いた。
『彼が生まれないと、わたしも生まれないの。彼はこの人のお腹の中。もしも貴方に食べられたら、わたしは生まれないから食べられない』
『……待て。良くわからん。もう一度、説明しろ』
『だからね、彼が生まれないと、わたしも生まれないの』
まるで謎かけのような言葉を繋ぎ合わせ、彼はようやく一つの結論に行き当たった。
突き詰めれば自分の狙いは、初めからこの女だったのだ。
『だったら問題ない。俺が欲しいのはその女の腹の中にいる奴だ。多分、それはお前の父親にあたる奴のことだろう。俺の獲物なら大人しく俺のものになれよ』
手を伸ばし、空中にいるために自分よりも高い位置にいる女の頬に触れた。生身の体を持たないために肉感はないが、そこには何故か温もりが感じられた気がした。
よくわからない理由を掲げられた女だったが、元々熟考しない向こう見ずな性格なのか、それとも場の危急を思って考えることすら放棄したのか、とにかく即答に近い返事をした。
『この人を助けてくれるなら』
『わかった。――商談成立だな』
ぐいっと引き寄せる。
相手の様子を考えればありえないことであったが、女の方も想像のみの感覚に意識が引きずられるように、まるで生身の体があるかのように引き寄せられる。
それが可能だったことに気をよくして、男は女の唇に自らの唇を重ねた。
確かな、感触が唇を介して伝わる。ただし、熱感はやはりと言うべきか、感じられなかった。冷たいとすら感じられない。だが、柔らかな感触はある。
驚いたような気配があったが、暴れる様子がなかったのでそれは続けられた。
どれくらい甘やかな時が流れたか、輪郭を虚ろにし始めた女を名残惜しむように男は再会の確認を求めた。
『俺はどれだけ待てばいい?』
『……時の感覚は、わからないの。ただ、彼が生まれれば、わたしも生まれるから』
身重の女の庇護を求める女の願いを聞き届け、その身にかかる負荷を幾らか取り除いてやったために、身重の女は今は安らかな寝息をたてて草陰に横たわっている。
その腹の膨れ具合を見れば、臨月が近いことは容易に手に取れた。となれば中空に浮かぶこの女が彼の前に現れることも遠くない先である。
『お願い。この人を助けてあげて。わたしはまだ生まれていないし、体もないから守ることができないの。……だから』
そんなことは再度言われるまでもない。自分はことに今回に関しては、忠実に交わした言葉を守るつもりだった。
ふと二人の関係が気になってそれを尋ねた。けれど首を振るばかりで詳しい答えは返ってこなかった。
たった一言、辛いことがあったのだと。それだけだった。
大方、ろくでもない男に引っかかった良い育ちの出だったのだろう。そう結論付け、彼はその泥だらけの服にも構わず抱き上げた。普通の女の二倍あろうかという身重の体をいとも簡単に持ち上げ、歩き出す。
力を使っても運んでも良かったが、これ以上の力の行使は腹の中にその悪影響がどんな形で現れるかがわからなかったので、仕方なく控えるしかなかった。
ここでこの女が死んでしまっては、自分の望む獲物が手に入らなくなってしまう。それでは元も子もない。
『ひとまず近場の街で休ませるが、それでいいだろう?頃合いを見て、家を探して……』
身重の女を心配して、中空に留まりながらも歩く彼の側についていたはずの女はいつの間にか、その姿を消していた。
頭の問いかけには『ありがとう』、と礼まで言っていたのに、こちらがその返事に安心しているうちに消えてしまったとでも言うのか。
その素っ気なさにつまらなく、そして寂しげに思いながら男は小さく呟いた。
『挨拶ぐらい、していくくらいの礼儀も無しか』
ひどく馬鹿らしいことだとわかっていても、その言葉は知らずに口をついて出ていたのである。
ぽとん。
いきなり、見事に研磨された小粒の水晶玉が降ってきた。降ってきたそれは、彼が抱き上げている女の、腹部辺りに着地した。
小さく円やかな姿とは対照的に、鋭利で鮮烈な威圧感を放つ水晶玉に、彼の顔がわずかに強張る。
不意に、耳を掠める微かな風にも似た、囁き声が聞こえた。
『――……約束の、証』
落ちてきた水晶を凝視するために下ろしていた視線を上げる。鋭い視線と、研ぎ澄ました意識を何度も周囲に放ったが、彼が求める者の姿は終ぞ認められなかった。
声だけ。
否。約束の証、なるものを残してくれた。
それは再会を約束するものなのだろう。……けれど。
力が削がれる感覚。それは湖面に伝う波紋のように、徐々に、確実に広がっていく。それが約束の元に、残された水晶玉によってもたらされていた。
禍々しい気配を放つ石。
それが何と呼ばれるか、彼は良く知っていた。
『……まったく、予想がつかないな』
吐き出した言葉は忌々しさを含んでいたが、それは一概に不快を示すものではなかった。
空に浮かぶ銀色の月。
丸い、丸い銀の望月。
それが彼と女が結んだ約束の立会人。
まさに月下氷人と言ったかも知れない――。




