第3話
死者を弔う最後の夜。明日の朝には永久の別れになってしまう故人と過ごす最後の夜。
家族や恋人達に残された一夜は彼らだけの立席でのみ執り行われる決まりになっていた。
死者と語らうために彼らは夜を明かして、故人を囲むように座り、話しかけるのである。
と言っても銀花の場合は、これと言って語りかける話も浮かばず、故人の側で座り続けてその姿を目に焼き付ける動作をするばかりだった。
その傍らにはさぼうが胡座をかいている。彼も場の雰囲気を読んで口を固く閉ざし、何も喋らなかった。
「……銀。眠たいなら隣で寝てろ」
にわかに船をこぎ始めた少女にそう声をかけたが、「眠くないもん」と若干くぐもった声が返ってきた。目はとろんとしていて、今にも瞼が閉じてしまいそうな雰囲気である。
溜息をつき、ぐいっと小さな体を引き寄せると、腕をまわして頭を抱えこむ。下手に放置して、昼間のようにどこかに衝突寸前にまでいかれては困ると思ったからだった。
やがて腕の中から寝息が漏れ出した。
さぼうは再び溜息をつく。
意地を張っても疲れを誤魔化せるほど大人ではない。まだまだ小さな子供だ。
そっと抱き上げ、隣に用意してあった寝床に運ぶ。本来それは、死者との対話のために夜を明かすつもりの銀花が、このあたりの風習に不慣れで、途中で潰れるだろう彼を見越して用意した物だった。
どちらにしろこの家に寝具は二組しかなく、片方を故人が使っている以上、共寝でもしなければ無理な話だった。けれどそんなことは、いくら身内が突然現れる現象に場数を踏んでいる銀花でも、初めて顔を合わせたその日の内にそうなってしまうには抵抗を残していた。
上掛けをはぐった敷き布団の上に注意を払って横たえると、静かに上掛けを掛け直す。銀花は掛布の柔らかさに満足したのか、寝たくないと駄々を捏ねることなく、微睡みの中に誘われたようだった。
それを見て一安心をした彼は、元の部屋に戻るとそっと仕切戸に手をかけ、二間を区切ってしまう。
故人との対話のために灯された灯りが彼女の眠りの邪魔にならないように思ったこともあったが、それよりも彼女には見られてはならないことを彼はするつもりだった。
遺骸の側まで歩み寄ると、枕元に片膝をついた。手を伸ばし、首にかけられた水晶玉の下がった麻紐を掴むと乱暴に引っ張る。草臥れた麻紐は、容易くに切れてしまった。
彼はそれを手にすると、水晶を吊す釣り鐘型の銀製の穴から紐を抜き、懐から出した新しい紐と取り替えた。そして自分の首に服の襟から見えないようにかける。
懐から奪った水晶によく似せた細工のものを古い紐に通して、故人の元に返してやると、彼のすべきことはなくなった。
翌日、佐茅と言う名の青年の遺骸は火にかけられることになるが、その首にある飾りがすり替えられていたことは誰一人気付く者はなかったのである。
周囲にさざめく気配を感じとり、さぼうは笑みを上らせた。その笑みは銀子を怯えさせたものよりも更に怖気を誘う綺麗な微笑だった。
心を凍り付け、奪い取っていくような壮絶な微笑み。人ならざる何かを感じさせるものだった。
仕切戸をわずかばかり横に動かし、その隙間から床で無邪気に眠りを貪る少女の様子を確認してから、戸を閉め直す。土間に降りると軋む玄関戸をなるべく音が立たないように開け、後ろ手に閉める。
村から少しはずれたあたりにあるこの家は、当然如く人気はない。
「出て来い。あの娘の庇護者だった男は死んだぞ」
決して大きな声ではなかった。けれどよく通る声は周囲に溶けこむように滑り、あたりに集まっていた異形の者達を呼び寄せる契機になった。
側にいるだけで息苦しさを覚える障気が一気に収束する。幾つも塊が生まれ、個々の形を取り始める。
それは障魔と呼ばれる人に害する者であった。ただ、この場に集まっている者達はやっと形が取れる程度の、魔素と呼ばれる最も下等な類の者達だけだった。自己の形を取ることもままならず、その外見はまさしく化け物に称するに相応しいおぞましいものばかりである。
障魔の大部分はこれら魔素が大半を占めている。どこにでもいる。けれど、ここまでの集団になることは滅多にないことだった。
ずり……っ、ずり……っと質量を伴った何かが地面を這う音や、叫びにも似た耳障りな高音があたりを支配する。
集まった魔素の狙いは知れていた。
より美味な餌を求め、彷徨い出てきたのだ。それもついこの間までその餌は、こちらの存在などまるで知らずに目の前を平気でぶらついていながら、食すことができなかった。邪魔者がいたのだ。だがその邪魔者もとうとう死んでしまった。
あの近寄りがたく忌まわしい力の波動は綺麗に消え去ってしまったのだ。それこそ魔素達が狙っていた好機だった。
狙いを定めた餌があまりに美味そうなので他の餌には目が行かず、ずっと見張っていたのだ。凄まじい飢餓にも耐え、隙あらば食してやろうと。それがとうとう訪れたのだ。
美味そうで、しかもそれは血肉になりそうなほど力溢れた餌だった。
指一本でどれだけ飢えを満たし、力増すことが望めるだろうか、腕一本ならばどうだろうか。
想像するだけで酔いしれ、心地よい震えが体を走る。
魔素の一つが喜びの唸り声を上げた。
「出てきたか」
個体数を数え、それが自身の予測した数と見事に合致した。笑みの上った口端に、更に深い笑みを刻み込むと、彼は一言言い放った。
「魔素如きが、いらぬ手間を増やしやがって」
言葉が音としてなると同時に、男の感情が発露する。明確な憤りが爆風のように四方に放たれる。弱い個体の幾つかが、それによって姿を消した。――屠られたのである。
ぐしゃっ。
足元に飛んできた肉片を忌々しげに踏みつぶし、一歩踏み出した。それとは逆に、魔素が後退する。顔の判別が不可能なのでどんな顔をしているかわからないが、魔素は明らかに恐怖に慄いていた。
これまでは一方的な狩人側であったはずの自分達が、たかだか人間一人の怒気に怯えていると信じたくなかったが、体は素直に逃げを打つ。
危険だ。この男はとてつもなく危険。恐ろしい。
「悪いなぁ。あの女は俺のものなんだよ。―あいつが生まれたときからな」
手を出してきたお前達が悪い。
手を掲げると、ゆっくりとそれを眼前に下ろした。
ぼくっ、ぐしょっ。
不気味な音が深夜の静寂に吸いこまれる。
数瞬の後に、彼の前には魔素の骸でできた野原が生まれていた。魔素の肉片が放つ、鼻が曲がりそうな悪臭に眉をひそめつつ、妹の眠る家に戻ろうとして踵を返した。その先には魔素の集団の中で最も力があった者の無惨な姿が転がっていた。
生存能力が意地汚いほど高い代わりに、知能に欠点のある魔素でも言語能力がある程度まで発達した個体だった。力を蓄え、長じればそれなりに力ある障魔になる可能性があったかもしれない。
言葉遣いにたどたどしさを残しながら、末期の言葉を彼に向けた。
「――ヲ使ウ、人ゲ、ン、聞イタコト……ナイ」
頭の部分は聞き取りにくかったが、言いたいことを大方理解した彼は肉片と化したそれを見下ろしながら呟いた。
「方法はあるんだよ。まぁ、貴様等なんぞに教えてやる気はないがな」
声音に含まれる面白がる様子は、人よりも彼らに近い場所にあった。
このあたりに集まった魔素がすべて消滅したのを用心深く何度も確認し、ようやく張り詰めていた緊張を解いた。服の合わせ目に隠した水晶玉を服の上から押さえて、伝わる波動に苦々しく独白する。
「まだ足りない……」
いらぬ介入さえなければこの地にもう少し留まる予定だった。けれど彼の予想に反してことはうまく進まず、明日にはここを発たねばならない。次に留まる地をどこにするかも、それまでは候補にすらならなかったを候補に上げなければ選べない有様でようやく見つけたほど、状況は逼迫していた。
けれど確実に時は流れ、約束の日を目指して動き続けている。
このままいけばあと十年ぐらいだろうか。今回のように不要な合いの手があっても、それよりほんの少し長く待つだけでそれは確実に訪れる。
気が長い性格ではなかったが、ことにそれに関しては例外だった。今では目前になりつつある先に迷いすら覚えている。
何故か。
自問しても答えは出ない。自問し続ける日々がどれだけ長かったか。
満願の日は近い。
その日に自分が選ぶものは、果たしてあの日と同じものなのか。
彼は一人、らしくもない自問をしながら家に向かって歩き出した。その家にこそ、彼が自問を抱かずにはいられない最大の原因がいる。
ふとあることに思い至り、歩きながら空に手をかざした。
それをすいっと振り下ろすと魔素だったものの欠片はそこから綺麗に消える。臭いは自然に消えることはわかっていたので、そこまで手をかけることはなかった。




