第2話
このあたりでは珍しく、死に際に当人が望んだために火葬されることになった遺骸を前にして、銀花は最後の別れを告げるために、自分の家に一人にさせてもらった。あれだけつめかけた村人達も、兄である青年も締め出し、白い服に着替えさせられ眠るように横たわるその人を静かに見つめる。
彼は佐茅といった。
夫との不和が原因で娘連れで嫁ぎ先を出てきた母親を追って来たその人は、銀花の父親の弟と名乗り、自分の兄には内緒で何かと手を回してくれた人だった。そしていつの間にか、居まで移してきた人だ。
鷹揚な反面、神経質さも見え隠れする心配癖を持つ彼は、自分が万が一に死んだときを考えて、早い頃から自分の兄と手紙で何かと接触を図っていたらしい。それが危惧で済まなかったのは、いかんともしがたい悲しい現実だが、それを嘆いて彼が戻ってくるわけではない。
悲しさと寂しさを否定することはできないが、他方で容易く彼の死を受け止める薄情な自分がいることも知っていた。
間違っても、引き取られ先が見つかったからと言う打算的なものはないが、彼の死はそれまでなのだと割り切ることができてしまったのだ。
「こんどはお兄ちゃんだってさ」
落胆を隠せない声音で告げ、座った姿勢で膝を抱えこむ。
「またあの顔だよ?どうしていつも、いつも」
血の繋がった人なのだろう。決して結ばれない相手なのだろう。
彼も好きだった。その前にいた男も好きだった記憶がある。庇護者としてではなく、一人の異性として。
そんなものは幻想なのだ、結ばれるはずがないと、指を指されて言われたことがある。あまりに嫌な記憶で、どんな状況で誰に言われたのか覚えていない。思い出したくない。
見上げる程の身長差は、唇に残るあの瞬間、その時だけ縮まった。
それは知らない男との最後に交わした記憶。その日の夕刻には滝壺に落ちていたから、正真正銘、最後の記憶だった。
不貞不貞しさが目に付く、気紛れな猫みたいな男だった。そして母親である人の恋人だった男だった。
叔父だった佐茅は、その男が居なくなる少し前から姿を現す。
何故かあの男と、叔父は似ている気がした。だから叔父の佐茅が現れたとき、一も二もなく彼についていったのだ。
あの男は母親の物。だったら彼は自分の物に違いない。そんなことを喜んで。
「――あの男……」
あやふやな記憶が胸を掻き乱す。
似ている。
叔父にも兄である青年にも。あの男も、血族だったのかも知れない。
銀花は自分を強くかき抱いた。傾く思考を振り払うために必死にそこから目を逸らしたが、一旦灯ってしまった下火は徐々に火勢を上げるように広がっていた。
父方の顔の類似ならば、彼は間違いなく身内の一人。
そうだ。あの男も『さぼう』だ。
父の元を去った母。父の元を去った理由は聞かずじまいで終わっている。叔父も兄である父とは疎遠だったようで、詳しい話はしてくれなかった。
もしかしたら母の方が父を裏切って?『さぼう』と言った男と共に、父の元を去ってきたのかも知れない。
いや、そもそも。父親は本当に父親だったのだろうか?
母の物だと思っていたそれでも、自分とは赤の他人だと思っていたから、まだこの想いはそこにあることを許されていのだと信じていられた。
カチン、カチン。
その一粒を口元に運び、躊躇いなく嚥下する。ごくりと喉が鳴った。
胸の奥に言いようのないざわめきが生まれた時、それを鎮める為の、もしくは紛らわす為に。何時からか、繰り返すようになったそれは、確かに効き目を持って跳ね返る。
災い除けの呪いを施された小さな玉は、心と体の不穏にもそれなりに効力を齎すらしかった。
ようやく自分が落ち着きだしたことに胸を撫で下ろした銀花の様子を見計らったように、
来訪者は玄関戸を叩いた。
「あれ?さぼう……お兄ちゃん、どうしたの?」
つい癖で呼び捨てにしてしまい、咄嗟に取って付けた呼称を続けて見るも、端から聞いていてもその不格好な聞こえ方を隠すまでにはいかなかった。
律儀にもこちらが玄関戸を開けるまで待つ姿勢を取った人物をみとめ、彼女は首を傾げた。戸を開け放ち、家に上がらせる。
「呼び捨てでいいさ。今更、兄と連呼されても実感はないからな」
素っ気ないまでの言い方が気にならなくもなかったが、実にありがたい申し出には違いなかった。
さすがに故人と同じ部屋にいさせるわけもいかず、二間しかない部屋に仕切戸を動かして
仕切ってしまおうとするが、それも止められてしまう。
「銀を今まで面倒見てくれた奴だからな。挨拶と礼をしに来た」
気怠げな仕草が今一つ理解しきれず、言われたままに戸を閉める動作を止めた。
「何だ?」
自分を見上げる少女の戸惑いを隠せない目に気付き、尋ねる。
「……思ってたのと違ったから」
兄と言うから、もう少し、大人っぽい人だと想像していた。
「何がどう違うって?」
口端を笑みの形につり上げて見下ろしてくる姿は何故か怖くて、一歩また一歩と後じさってしまう。
「――っと、おいっ!」
「え……っ。きゃあっ」
いつの間にか土間の近くまで移動していた銀花は、急に足場がなくなったために後方に体勢を崩した。土間と室内は銀花の膝ほどの段差がある。その段差は大きな石を置くことでやっと上れる高さで、そこから足を踏み外したとなればかなりの衝撃が予想された。
思わず目を瞑り、訪れるだろう衝撃に体を強張らせた。しかしそれはいつまで経ってもやってくる気配はなく、その代わりに微妙に硬くて柔らかい何かが体を包んでいた。
そして頭から降ってくる怒声。
土間に転落する寸前で抱きとめられていた。
「この馬鹿っ。人間ってのは打ち所悪ければそれだけで簡単に死ぬんだぞっ!?」
胸が早鐘を打っている。顔が見る間に真っ赤になるのがわかって、顔が合わせられなかった。意識がぼんやりとし始める。
どうしよう。まただ。またあの病気が始まった。
「聞いてるのか、銀っ」
心に深く浸透する声。
銀花は激しく首を縦に振ることで、やっと返事をした。




