ヤドリギの契約者Ⅱ
彼女の心は、泣きながら森の中をさ迷い続けていた。幾日も幾日も。
そうして歩き続けるうちに。
帰り道もとうに失くした。
「どうして?私どうしたらいいの、お姉さん」
最初に占ったカ-ドの意味。
今ようやく解けた気がした。
醜い哀れなザリガニの姿。
ブリーディングハートの女。
あれが私だと。
知らなければよかった、未来など。
いっそここで朽ち果ててしまおう。誰にも看取られず。醜い秘密の殻に隠れた。自分の心と共に。
『月が満ちれば変わるはず』
何処かで誰かの声がした。底知れぬ深さと、優しさを湛えた女の声。
『時がくれば世界は変わる…その日は来る…その日来れば…月は満ちる』
振り向いたが誰もいない。辺りに人の気配も。
「探したよ、ノ-ラ」
目の前に現れたカンテラの眩しい光。目が眩む。
「お姉さん!」
懐かしい声を聞いた。
ノ-ラの目から涙が溢れた。
「森の中を随分探したんだよ、ノ-ラ」
カンテラの下にはいつもと同じ。ぶっきらぼうな声と、優しい笑顔が覗いた。
「ごめんなさい、お姉さん!私、お姉さんの家まで伺ったのですが、その…お客様がいらっしゃるようで…遠慮を」
俯いたノ-ラの爪先が地面を掘った。
「遠方から兄が訪ねて来てね、なんだ、遠慮せずに入って来れば。あんたを紹介も出来たのに」
「ごめんなさい、お姉さん。お兄さんはまだ家に?それでしたら私が作った食べ物を」
「兄はもう帰ったよ」
「そうですか、それは残念な事をしました。私には、兄弟も姉妹もおりませんので、とても仲の良い兄妹なのですね」
「そうかな、どうして、そう思う?」
「はい、お兄さんにあんな風に甘えるお姉さん…初めて見ました」
「見たのか?」
「はい、しっかりとこの目で!」
「忘れてくれ」
「はい、構いませんよ…但しです」
息が届く位まで、ノ-ラは彼女に近づいて言った。
「私にも同じ事をして下さいませ」
ノ-ラは目を閉じた。そのノ-ラの頬を彼女は摘んだ。
「お前は…顔を合わす毎に私をからかうようになる。さては味をしめたな」
「痛い!痛いです!」
ノ-ラは手足をばたつかせて抗議した。
程無く、ノ-ラの頬を詰まんでいた指は離れ。気がつけば、彼女の腕の中抱き巣組められていた。
「お姉さん、何を!…何をされるのですか…」
「止めて下さい」
蚊の鳴くような声で言った。
「こうして欲しいと言ったのは、お前自身だぞ、ノ-ラ・オブライエン」
彼女のコ-トの中は、きっと魔法で使う色んなハ-ブの香りがするはず。
そう空想した事はあった。微かに鼻先を擽るのはあざみの香り。けれど目にした事はあっても。
その花を手に取って、花弁の薫りを嗅いだ事は一度もない。
しなやかな弓の弦ような指の先が、彼女の頬を一撫でしたかと思えば。
そのまま、痩せて尖った顎の先に添えられ。上向かせる。
「お姉さん…何を…」
「クリスマスの約束事さ、知らないのかい?」
カンテラの灯りを掲げるまでもなく。夜空を覆っていた雲の間から、月が顔を覗かせた。
月灯りに照らされた森。指差した木立の間をノ-ラは見て言った。
蜘蛛の巣に似た黒い植物の影。
「ヤドリギですね」
「クリスマスに、ヤドリギの下で出会った者同士は」
必ずキスをしなくてはならない。
この国では昔からそういう習わしだった。
「だから、お前をこの木の下で呼び止めたんだ」
「でも、お姉さん、私たちは…」
「男でも女でも老人でも子供でも、そういう習わしだろ?」
「はい」
「古い習わしには従わなくては」
「従います」
2人はオ-クの森のヤドリギの下で口づけを交わした。
上気したノ-ラの頬。
彼女の掌が包み込む。
「ノ-ラ、私の手は温かいか?」
「はい、初めて手を繋いで頂いた時から、とても温かいです」
「私の唇は?」
「…そんな事は、言えません」
彼女はノ-ラの見ている目の前で、コ-トを肩先まで下ろした。
彼女は、コ-トの下に何も身に着けていなかった。
左の鎖骨から白い胸元の辺りまで。赤い十字の傷痕。夜目にもはっきり浮かび上がって見えた。
「私の胸は温かいぞ、ノ-ラ」
「お姉さん…風邪をひいてしまいます」
「では、こちらに来て私を温めてくれ」
躊躇うノ-ラの体を、彼女のコ-トが包み込んだ。
ノ-ラは目を閉じて。
彼女の胸に顔を埋めた。
「私の傷痕」
耳元で囁く声がする。
「お前にだけ見て欲しい」
「お前にだけ触れて欲しい」
「私はお前を傷つける」
「構いません」
「お前が傷つくと、私はそれ以上に傷つく」
「嬉しいです」
自然に閉じた瞼から涙が溢れた。
「そうして2人で生きて行こう」
鎖の鳴る音がする。ノ-ラの目の前に金の鎖が差しだされた。
「アルカナの恋人の絵札を覚えているか?」
「はい、金の鎖に繋がれた男女の姿が描かれている…」
「手を出して」
言われるままに差しだした。
右手に鎖が巻かれる。
「クリスマスの贈り物だ」
彼女は自分の右の手首に。
自ら鎖を巻き付けた。
「魔女でも切れぬ金の鎖」
再び強い力で抱きすくめられた。
「私とお前の未来を占う、絵札に恋人はあったか?」
ノ-ラは哀しげに首を振る。
「そんなものは、テムズ川にでも投げ捨ててしまえばいい!」
「そんな!?せっかく、お姉さんが下さったのに!」
「アルカナは、お前に幸せな未来を見せてくれたか?」
「いいえ」
「お前が絵札の先に見ていたものは?」
「貴女です」
「ならば、もうそれは必要ないんだよ、ノ-ラ。私は、未来永劫お前とこうして一緒にいるのだから」
たとえ未来を占う絵札が手元にあったとしても。それが自分の望む未来を呈示してくれるとは限らない。
夢見ていた未来が現実となり「それを捨てよ」と言うのなら。「拒む理由など何もない」ノ-ラは思った。
「お姉さんがそうおっしゃるのなら、捨てます」
ノ-ラは彼女にそう言った。
「いい娘だ、ノ-ラ」
金の鎖の擦れ合う微かな音。
ノ-ラを心地よくさせた。
心の何処かで「これは現実ではなく夢なのだ」という思いがして。
寂しくなる。
夢かアルカナが見せる。これは幻に過ぎない。だから覚めてしまえば。
それで終わり。
「でも、アルカナが無ければ…お姉さんに会えない」
「絵札など無くても、同じように此処にはこれる」
「本当に!いつでも此処にこれるのですか?」
「阿片やアブサンを使えば、いつでも好きな時に…そうだ!道に迷わぬように、お前にまじないをしてやろう」
掴んだノ-ラの二の腕に力が込められる。
爪の先が皮膚に食い込み。
一筋の血が流れた。
「印があれば、いつでもお前は私に会える、さあノ-ラ、今から私の家に向かおう、クリスマスの続きを2人で…」
答える代わりに、ノ-ラは金の鎖を鳴らして、差しだされた彼女の手につかまる。
そうして2人は森の中へと消えた。
「マレフィキウム」
彼女の口にした言葉。
男には全く耳に馴染みがなかった。
「植物の学名か…種痘に関係した言葉にも聞こえますが」
そのどちらでもないと。
彼女は否定した上で。
「どちらかと言えば、今あんたが言った植物よりも、後者の方が近いかね」
「病原菌ですか?」
「病原菌ではないが、人に無尽蔵の災厄をもたらすという意味では…似ているかも知れないね。ノ-ラ・オブライエンの魂に巣食うマレキフィムは…」
「マレキフィウムとは、一体何ですか」
彼女は、少し上を向いて考える仕草をした後、呟くように言った。
「魔法そのものと言っていいだろう。マレキフィウムとは、魔法の根源となるものと解釈していい。そして厄介な事にね」
「厄介な事に、何ですか」
「ノ-ラの魂に寄生したそいつは【女】という性別を持ってる。大古の昔からずっとそうなんだ」
ヤドリギの秘術は、ケルトから派生し。ドルイド、キリスト教にまで伝播したと伝えられている。
多くの賢人や知識人、時の権力者や魔法使いに至るまで、清濁合わせた人間の塊が追い求めた…永遠にして不滅の魂。自らの意思で、あらゆる時代に輪廻転生を繰り返す秘術…
「それがヤドリギの魔法さ、もっとも、人間でそれに成功したやつは未だいないがね」
「それは…まるで神の所業ではありませんか!」
「魔法とは、自然界の法則や、天の摂理と呼ばれるものと変わらない、人が、神や悪魔や魔女を創造する以前から、それはそこに存在した」
その中でも取り分け破壊的。
そして残忍な攻撃魔法。
「ノ-ラは生まれながらにして、まるで赤子を守るようにして、その魂を抱いて生まれて来た」
「何かの間違いではないですか?」
あまりの事に思考が追いつかない。
「間違い?」
彼女の方眉がつり上がる。
「生まれて来た事が?」
「いえ、そうではなく、貴女の友人がそんな恐ろしい存在だなんて…」
「間違いか…」
鼻を鳴らす。彼女の声はどこか自嘲を含んでいた。
「私を欺く事は出来ても、この剣はけして欺けない」
彼女が翳した刀身は不安気な男と、虚ろな死者の群れを映していた。
「師からの授かり物であるこの剣は、昔やつに蹂躙された同胞や、血族の魂が込められている。もし私たちの宿敵が近くにいれば。怒りと熱でそれを知らせる。それは、釜戸の中で鍛え上げられた鉄のような熱さだ!間違うはずなどない!」
彼女はそう断言する。
「かつてノ-ラに初めて出会った時。この剣は、灼熱の熱さで私の体を焼いた…それは、私の終生消える事のない傷痕となった。彼女がマレキフィムの魂を抱く者であると。忘れぬよう、私は傷痕を消さなかった」
「しかし、貴女は一度たりとも彼女の前で剣を抜かなかった」
「剣の呼びかけに背いたのだ」
「たとえ、その身が焼かれ続けても、ですか」
「私は半端者の魔女だからな」
「最初に伺うべきでした」
「何をだ」
「貴女や、貴女の師は、そもそも何なのですか」
「私たちはアゲインスト」
「向かい風…とは一体」
「向かい風の魔女さ」
彼女は男にそう言った。




