Nightingale&Chatelaine Ⅱ
大人の御婦人の体は驚くほどに柔らかく。
眩むほどによい香りがするものだ。
大蛇はぬらぬらとして気持ちが悪い。
蛇は身の丈より高く跳躍する。
そのことをモートは身を持って知った。
モートの両足を、しなやかな両腕で抱えた貴婦人は、そのまま身をくねらせながら這い上がって来た。
揺り篭の我が子を慈しむような。
頬笑み。
彼女の指先が頬を撫でた。
息を飲む間もなく、彼女は天井に向かって跳躍した。
ラウンドガウンの裾から競りだした、ぬらめく蛇の肌触り。
ぞろりと大蛇の尾が、最後にモートの顔をひと舐めした。
冷たい舌が顔面を這う。
感触が残る。
忽ちに背筋に悪寒の電撃が走る。
「ひいいいい!?ししし師匠!!!!」
モートが叫ぶよりも早く、師匠の右手が婦人の体を掠めていた。
しかしそれよりも早く、彼女の体は天井のシャンデリアに絡みついていた。
すぐその姿は照明の裏に消えた。
「ひー師匠ではない!せめて、スクリーム師匠と呼びなさい!」
モートは、スタチューのように固まったままだった。
「まったく!目に見えぬものは恐れませぬとは…よくぞ言ったものだ」
師匠は呆れた口調で天井を見た。
風もないのに、ラインストーンで贅沢に飾られたシャンデリアが揺れている。
「取り逃がしたか」
師匠は、握りしめていた右手の拳を、モートの目の前で開いて見せた。
開いた掌の上に、金の鎖が乗っているのをモートは見た。先ほどまで師匠の手には、そんな鎖はなかった。
「師匠その鎖は」
呪縛から解けたモートが訊ねた。
以前似た物が、師匠の部屋の壁に掛かっているのを見たことがある。
それは、奇妙な文字が中央に書かれた、円と三角の幾何模様が並べられた、タペストリーだった。
あの時の図柄に似ていなくもない。
モートは以前、師匠に教えられたその名前を口にした。
「セフィロト?」
師匠はモートの言葉に首を振る。
「これはシャテレインだ」
「シャテレイン?」
モートには、まったく聞覚えのない単語だった。
師匠が鎖の先を摘まんで、目の前に挿頭して見せた。
それはただの鎖ではなく、緻密に編み込まれた装飾品だった。
以前見たセフィロトは樹木に似ていた。
これは明らかに、それとは違う。
貴婦人の姿を模して作られたものだ。
「師匠これは…何に使うものですか?」
鎖の中央には、紫を基調にした見事な陶器のブローチ。
色合いの紫は夜…それとも持主の好みの色だろうか。
中央に描かれたのは、仲睦まじく羽ばたく2羽の鳥。
空に向かって囀る姿にも見えた。
周囲には、緑の葉と樹木の梢が縁模様として描かれている。
鎖の一番下には、クリスタルの小瓶。
香水用の小瓶だろうか。
小瓶の中身は空っぽだった。
モートには誰が、何の目的で使用する物なのか、まったく分からなかった。
「子供のお前が知らぬのも無理はない」
シャテレインとは元々はフランス語で、この国の言葉ではなかった。
「シャテレインは…中世のフランスの貴族や、上流階級の御婦人の間で流行した。謂わば懐中時計につける鎖のことだ」
魔術や魔法的な意味あいはまったくない代物だと、師匠はモートに説明した。
時計につける鎖。
確かにそう言われてみれば、懐中時計の鎖に丁度いい細さだ。
施された細工があまりに緻密で、とてもそうは見えなかった。
機能的という言葉とは真逆の美術品。
モートにはそう思えた。
「左様、この鎖のついた懐中時計は、懐に忍ばせて携帯する物ではなく、むしろ人に見せる目的で作られた物だ」
18世紀フランス貴族や、貴婦人達の間で流行したシャテレイン。
それは貴婦人たちが時計を携帯する時の大切な小道具であった。
ウエスト部分から、豪華に装飾された鎖、もしくは紐を垂らし。その先端に時計を付けることが、当時のステイタスであった。
王妃マリーアントワネットが、プチ トリアノンの外で子供たちと過ごす姿が描かれた時にも。シャテレインを身に着けた肖像画として残されている。
その習慣は瞬く間に海を渡り、英国の王族や貴族社会にも定着した。
懐中時計と鎖は、ドレスの腰に着け。あえて仕舞わずに歩く。
それが貴婦人の嗜みとされた。
細工や装飾は贅を凝され、優美であるほど高い身分の証であり、上流階級の女性の憧れの的とされ、注目を集めた。
「しかし師匠…この鎖には、肝心の時計がついていません」
モートの言葉に師匠は頷いた。
「おそらくは、あの御婦人が亡くなった時に失われた。遺品として残ったものを、一族の誰かが何処かに持ち去ったのであろう」
時計は失われ、鎖だけが残った。
あの貴婦人が未だにそれを持っていた。
そこに何か深い意味でもあるのか。
モートは考えたが、答えは出なかった。
「おそらく…このシャテレインの先端にあった懐中時計は…ブレゲであろう」
「プレゲ?」
「このシャテレインの見事な細工!それに見合う時計は…まず他にはあるまい」
アブラアン ルイ ブレゲは、当時スイスで世界最高と謳われた、天才時計職人だった。
「我が英国にも、今も昔も名だたる名工は多く存在する。しかしプレゲの作る時計は…その中でも取り分け別格なのだ」
「師匠は、この鎖を見ただけで…そこにあった時計まで分かるんですね!」
モートは、師匠の見識の深さを目の当たりにして、改めて胸を打たれた。
「時は失われた」
師匠は自分の懐から自分の懐中時計を出して。シャレテインに重ねた。
「この屋敷の時間も止まったままだ」
「もしかして…師匠の時計もプレゲ?」
「私の時計はプルダだ」
師匠はそう言って胸を張り、時計の中央に書かれた文字を指差した。
부르다とある。
どうやらプルダと読むらしい。
「韓国の職人が作ったプルダだ」
「プルダ」
それ…ぱちもんじゃないか。
モートは思った。
ロンドンの骨董市で手に入れたという、師匠の時計。文字盤のハングル文字が気にいって買ったらしい。
「プルダとはハングル語で、叫ぶ !歌う !」
「そんな意味らしいぞ。なんとも、実に私らしい名前ではないか!」
激辛で叫ぶ。
モートは思った。
「おなかいっぱい!幸せ!という意味もあるらしいぞ!」
やっぱり。こんな高価な御屋敷を、ぽんと買ってしまう財力。
骨董品や美術品にも造詣が深い。
師匠こそが真の貴族。
博学広才にして美意識の固まり…危うくそう思いそうになった。
しかし、大枚叩いたにも関わらず、ここはとんだお化け屋敷…師匠はだめな人だ。
「あの…師匠…このブローチの鳥は、何か意味があるのですか?」
「ふむ!良いところに気づいたな。おそらくは…あの御婦人の好きな鳥だろうな」
「綺麗な鳥ですね」
なんの鳥かまでは、モートには分からなかった。
「つまり…この品は既製品ではなく、完全無欠のオーダメイドだ。世界に一つしかない品ということになるな」
「世界に1つ…ではこの小瓶は…」
そう言いかけた時、師匠は舌打ちして、自分の懐中時計を手の中で乱暴に振った。
「また針が止まった!このっ!このっ!この安物めが!」
弟子のじっと凝視する視線に、師匠はしばらくしてから気がついた。
「まあよかろう…私のような魔法使いには、人と同じ時間の流れなど無意味なものだ」
何か…かっこいい言葉で誤魔化そうとしている。そうモートは思った。
ひとつ咳払いした後で、師匠は言った。
「お前には、この御婦人の持ち物から何かが見えるかな?」
モートの目の前に提げられた鎖は、無言のままで彼に何も語らない。
失われた時間、鳥のブローチ、香水の小瓶…それらを繋いでいるのは金の鎖。
「謎はすべて解けたよ!ダーリング!」
師匠が名探偵のような事を言い始めた。
「本当にですか?」
モートは疑わし気な瞳で師匠を見た。




