落水
開闢歴二五九三年一月一日 スホーテン海峡付近ディスカバリー艦上
突然ダウナーから解任を宣告されたカイル。そのためカイルは一瞬怯んでしまった。
だが、ダウナーを押し退けるべく再び駆け出した。
しかし、一瞬立ち止まった時点で既に手遅れだった。
突然風向きが変わり、帆の向きが変わろうとする。その時甲板に散らばっていたロープも引っ張られる。
ダウナーが踏んでいたロープも例外ではなく、引っ張られたロープがダウナーの足に絡みつく。
「!」
ロープの勢いは止まらず、そのままダウナーの足を、次いで身体を引っ張り上げ、ダウナーを宙に吊す。慌ててダウナーは外そうとするが、それがいけなかった。
ダウナーからロープが外れたが、宙に上げられた勢いで海に向かって放り投げられてしまい、そのままダウナーは海に落下してしまった。
「艦長落水! 落水! 落水!」
目の前で押し退けようとした手が空振りになったあと、ダウナーの動きを見ていたカイルは叫んだ。
「何でも良いから浮きになるものを投げ込むんだ!」
カイルの指示で次々と木片などが落とされる。
「よく見張れ! 見落とすな!」
「回頭させ直ちに収容に向かいます」
「ダメだ」
スペンサー海尉の命令をカイルは拒絶した。
「艦長を見捨てるのですか」
「今の状況で回頭は無理だ」
嵐のため風が強く下手に回頭しようものなら横風を受けて転覆してしまう。
艦長とはいえ艦全体を危険に曝すことは出来ない。
「助けないのですか」
「最先任士官として乗員と艦の安全を確保しなければならん」
何より回頭させるために必要な乗員がいない。新年の祝いとして支給された酒にほぼ全員酔っており使い物にならない。
まともな働きなど出来ず、落水者を増やすだけだ。
「殺すことで艦長になれますね」
「ミスタ・スペンサー! それは上官に対する侮辱だぞ」
「実際にそうではないですか。解任を言い渡されて艦長を押して海に突き落としたんでしょう」
「ち、違う!」
確かに解任すると言われた。だが突き飛ばして海に落とそうとはしていない。
「艦長が踏んでいたロープが動いて巻き上げられるから咄嗟に押したんだ」
「体の良い言い訳ですね」
「それは違う!」
カイルは大声で断言した。
「兎に角! 艦の安全を第一にする」
「拒絶します」
「上官の命令を拒否するのか」
「貴方は艦長に解任されています。私が最先任です」
だが、スペンサーも引かなかった。
「私が指揮権を継承し、貴方を艦長殺害の容疑で拘束します」
「それは出来ない」
「ですが」
「待って下さい!」
その時、ウィリアムが口を出した。
「副長の解任は本当に艦長が言い渡したことですか?」
「キチンと聞いていただろう。ミスタ・クロフォードに向かって艦長が面と言っていたぞ」
「波風が激しく聞こえませんでした」
「……何だと」
スペンサーはウィリアムを睨み付ける。
「後見人の子息だからと言って庇うのか」
ウィリアムは皇太子の身分を隠して入隊している。その際、候補生として入隊できるようカイルの父親であるクロフォード公爵が後見人となっている。
「違います。本当に聞こえませんでした」
「私は聞いたぞ。確かに艦長が副長を解任すると」
「ですが、正式な解任ならば乗員に対して宣言される筈です。それが成されていない以上、解任は成立しません。また他の士官の承認を必要とするはずです」
「艦長命令が聞けないのか」
「少なくとも私はまだ副長の解任を聞いていません。ならば現状最先任はミスタ・クロフォードです」
「だが艦長殺害の容疑がある」
「それならば他の士官で協議するべきでは」
「そうだな」
カイルは静かに言った。
考える時間をくれたウィリアムへ無言で感謝し、出来た時間で気持ちを落ち着けるとカイルは冷然とスペンサー海尉に言った。
「非常事態だ。一旦、艦長室に戻り全士官を集めて協議しよう」
そう言ってカイルは全員を艦長室に集めた。
副長であるカイルに一等海尉のスペンサー海尉、海尉心得のエドモントにレナ、士官候補生のウィリアムとカークだ。
「全員揃ったね」
カイルは全員の目を見て確認した。
「では今後の方針を協議したいと思う。まず現状、艦長が落水したために艦長の席が欠席となっている。継承序列に従えば副長である私が艦長代理として命令を出すことになる」
「待った」
だがスペンサー海尉が反対を言う。
「ミスタ・クロフォードは艦長に副長を解任されています。また艦長殺害の容疑も掛かっています」
「侮辱するのか」
「いいえ、艦長殺害の容疑で捕らえさせてもらいます。海兵隊! ミスタ・クロフォードを拘束しろ!」
スペンサーの号令で海兵隊長のフィルビー軍曹が部下数名を率いてカイルを捕らえようと囲んだ。
開闢歴二五九三年一二月一〇日 ポート・インペリアル海軍軍法会議議場
「さて、この航海でも特に重要な部分に当たる。よってじっくりと聞く必要がある」
ジャギエルカ提督は舐め付けるようにカイルを見て尋ねてきた。
「ミスタ・クロフォード。君は艦長を殺害したのかね」
「しておりません」
カイルは、自分がしていないと断言した。
「私はダウナー艦長がロープの上に足を掛け、そのロープが絡まりそうだったために押し退けるべく手を伸ばしました。残念な事に助けられませんでしたが」
無能で厭な艦長だが、危険を見逃す訳にはいかない。誰であっても船の上では助け合わなければならないからだ。
互いを助け合う精神が無ければ過酷な洋上勤務は乗り越えられない。
だからこそ、助けなければならない。
「しかし、押し退けるにしても海まで突き飛ばす必要は無いだろう。告発状にも君が艦長を突き飛ばして海に落としたとある」
「誰の告発ですか?」
「告発者の安全の為に現在は匿名とさせて貰う。改めて聞く、君はは艦長を殺害したのかね?」
「しておりません」
「では、何故手を伸ばして襲いかかろうとしたのかね?」
「それは、助けが間に合わず足にロープが絡まったからです。足に絡まったロープによって空中に引き上げられ海に放り投げられました。決して突き飛ばしてはいません」
「つまり、見捨てたというのかね」
「いいえ、それはありません」
「ではどうして助けられなかったのだね」
「……艦長に私の解任を言い渡されたためです。それで一瞬動揺しました」
カイルが言った事実に会議場内はどよめきが広がった。
ジャギエルカはここぞとばかりに追求する。
「ほう、それでは解任された逆恨みで助けなかったと」
「いいえ」
「では逆恨みして突き飛ばして殺したと」
「断じてありません!」
カイルは大声で断言した。
「私は海軍士官として船乗りとして恥じ入ることなく任務に邁進して参りました。未熟故に動揺して動きが止まりましたが、殺意も怨みもありません」
「しかし状況からして君は艦長へ危害を与えようとしている」
「それはありません。全て状況証拠による貴方の推測です。私が殺害したという明白な証拠があるのですか」
「落水後、艦長の救助を拒否しているではないか。見殺しにするためではないか?」
「嵐により艦の操艦が困難だったためです。あの状況では旋回しただけでも横波、横風で艦が転覆する危険がありました。救助のために航行することは出来ません」
「見殺しにするための言い訳かね」
「断じて違います。私は海軍士官として任務を遂行しただけです。任務遂行のために艦が転覆する危険を冒すわけにはいきません」
「しかし、艦長がいなくなったことで、それも副長解任を隠すことで、君は艦長に就任できる。事実、君はその後艦長に就任している」
「それは違います。軍法に則ってのことです。副長として艦長不在により指揮権を継承しただけです」
「だが君の副長就任には疑問がある。資格無く就任したと思えるが」
「それは決してありません。そのことは証明できます」
そう言ってカイルは、あの日の出来事を話し始めた。




