コルコバード
開闢歴二五九二年一〇月一五日 ディスカバリー艦上
ルシタニア領コルコバード。
南へ向かえる絶好の位置にある上、三方を山に囲まれ風や波から船を守れる天然の良港である。
三方を囲う山が風を遮ってくれるので安全に停泊できる。また、山が近いため湾内の推進も直ぐに深くなるため大型船も海岸近くに停泊させる事が出来る。
横須賀、神戸、長崎と同じような地形であり、このような場所は天然の良港となれる。
このような恵まれた場所で休めるのは幸運だ。
ディスカバリーは洋上で四ヶ月という長い期間を過ごしたために食料や水などをはじめとする消耗品が少なくなっている。
特に長期の洋上生活で新鮮な肉や野菜、なにより果物が不足している。
このコルコバードで補充して今後の航海に備えなければならない。
しかし、入港前からトラブルが発生した。
連絡のためにスペンサー海尉を副王――植民地統治の現地最高責任者――の元へ送ったのだが、陸地で抑留され代わってルシタニア士官に率いられた兵士達がディスカバリーに乗り込んできた。
カイルは抗議するが、
「初めてこの港に入港した船から来た士官は、我々副王よりの使者が乗船し取り調べが終わるまで、陸に留まるのが習わしだ」
とルシタニア側に言われては何も出来ない。
国際条約では戦争や資産の凍結宣言を除いて抑留できないはずだ。
そのことを指摘するも、士官は習わしであり従って貰う、としか言わない。
「……分かりました」
仕方なくカイルはディスカバリーの諸元――全長、全幅、排水量など船の大きさ、積み荷、乗員、航行の目的を伝え始めた。
「何をしている」
その時艦長が現れて二人の間に割り込んできた。
カイルはこれまでの経緯を話して伝えた。
「それは我が国に対する侮辱か」
国際法では士官を抑留するなど許されない。だが、国際条約はアルビオン本国周辺の国々のみが結んだもので、ここまで遠い植民地までは威令が届かない。
「ここはルシタニア領だ。ルシタニアの法に従え」
「だが国際法では」
「艦長、落ち着いて下さい」
カイルはダウナーを抑えた。
国際法は全ての国に遵守を求めているが、同時に国内法を優先して良いと記述されている。
アルビオンの主権が認められるのはディスカバリーの艦上のみであり、それもルシタニアの主権を害さない範囲でのことだ。それでもルシタニアの態度は十分無礼であったが。
「本国からも関係各国とのトラブルは可能な限り抑えるように言われております」
「……わかった」
最後にはダウナー艦長が折れてくれて本当に助かった。
コルコバードで補給するべき物資は多いし、艦の修理も行わなければならない。
特に赤道付近を航行していたため、藻や蛎殻などが船底に付着している。これらは航行時に抵抗となるので清掃して排除しておかなければならない。
そのためには傾船作業――艦を片舷ずつ傾けて船底を清掃する作業をしておかなければならない。波風の少ない海域なら何処でも出来るが、出来る限り設備の整った場所で行った方が安全だ。
それらを行う為には、コルコバード当局の協力が欠かせない。
だが、世の中上手く行かない。
「どうだった?」
「芳しくないね」
副王に会いに行ったエドモントが艦に戻ってきて士官室で成果を伝えた。
「どうもこちらの目的を理解してくれていない。ヴィーナスが太陽面を通過するのを見て何の意味がある、とのことだ」
「なるほど」
別に副王の知能が劣ってるという訳ではない。確かに読み書きの出来ない貴族もいる。深い教養、特に科学分野の知識を持つ人間はもっと少ない。
自分たちの生活に関係のない星の動きなど、ましてその観測にどのような意味が、未来をどう変えるか想像できない。
「俺たちが副王を騙してコルコバードや平和洋に侵入してスパイ行為をすると思っているようだ」
「ありえるね」
副王はヴィーナスの観測にかこつけて入港して情報収集――スパイ行為を行うと思い込んでいるようだ。
そして、それは一面事実である。
船が安全に航行するには、その海域の正確な情報――島の位置、水深、暗礁の有無、風向、海流などの情報が必要だ。
航空機や人工衛星は勿論、気象観測網さえない現状では、現地に行って見て観測するしかない。
そもそも海図も不正確だ。経度法が未熟で東西方向の誤差が大きく正確な座標さえ把握できない。
つまり目的地に着くのが非常に困難である事を示している。
戦闘以前に航行さえ命がけなのだ。
だからカイルはコルコバードの湾内で航行の為と言って測量するのは半ばスパイ行為だとカイルは理解していた。何しろ三方を山に囲まれているために、基準となる物体に困らない。
一際高い山を一つ一つコンパスと六分儀で方位と高度を記録し、移動する。移動した場所で同じようにコンパスと六分儀を使って山の方位と高度を測定して、あとは三角法を使いそれぞれまでの距離と標高を算出できる。
基準線が出来れば洋上から海岸までの距離や目印になる山までの距離が分かる。つまり、地図を作ることが出来る。
実際、カイルはそうやってコルコバードの地図を作成していた。
カイルはあくまで純粋に航行のために海図を製作している。だがスパイ行為をする気がなくても海軍本部への報告書に載せなければならない。そのため後々誰かがコルコバートへの軍事侵攻を考えたときカイルが提出した報告書を読んで利用するだろう。
副王の言っていることは正しい。
ただ、このような事はアルビオンだけでなく何処の国も同じ事をしている。ルシタニアも例外では無く、強く抗議することは無いだろう。
「それでも補給と修理が出来るようになったのはエドモントのお陰だ。感謝している」
「ありがとう。けど、手放しには喜べないな。制限が多くて」
エドモントがルシタニア側に要求を認めさせたのは大きな成果だった。
ただ、制限が多い。
ディスカバリーと陸地を往復するボートに必ずルシタニアの当局者を乗せる。ディスカバリーの乗員がコルコバードの町を歩くときは見張りの兵士を同行させる。
表向きは密貿易の監視という事だったが、スパイ行為の防止とディスカバリーへの圧力であることは間違いない。
「ただアルビオンだけが目の敵にされているようなんだが」
「どういう事だ?」
カイルの問いにエドモントはバツが悪そうに答えた。
「先ほどイスパニア船とガリア船が入港したんだが、俺たちに行われているような監視行為がない」
「そのようだな」
先ほどイスパニアの郵便船とガリアの観測船が入港していたが当局者の監視は殆ど無かった。これも差別だとカイルは副王に抗議している。
「対アルビオン包囲網の影響だろうね」
「なるほどな」
カイルの言葉にエドモントは納得した。
先の戦争でガリアに対して一方的に勝利してしまったアルビオン。
そのため他の諸国の警戒を招き、アルビオンへの風当たりが強くなっている。
アルビオンを弱らせるために条約の範囲内で故意に不当に扱っている。
実際、イスパニア船およびガリア船とディスカバリーの扱いが違うのはそのためだろう。
差別ではないが明らかに区別されている。
「どうする?」
「どうするも何も抗議以上の事は出来ないね。まあ、補給と修理が出来ればそれ以上の事は望んでいないけど」
精神的には頭にくるが、補給や修理が完了すれば出港するだけだ。
長居するつもりもないので、改善交渉を行うつもりもない。そうやって改善は先送りされてしまうのだが、今回は観測が任務なので余計な仕事を行うつもりはない。
「出港準備を急ぐよ。艦長からもせっつかれているんだ。直ぐにこの感じの悪い港ともおさらばだよ。ただ報告も頼むよ」
「分かった。けど、遅れるのはやむを得ないぜ」
「そこに関しては奥の手がある。で、出会った感じ副王はどんな感じだった?」
「まあ小役人と言ったところか。自分より下の人間には強いが、強い人間には媚びへつらう」
「何か策略などを行うとか、陰謀家とかそういう感じはあるか?」
「いや、本国の訓示に従っているだけだ。ちょくちょく居るんだよな、雇い主の使いっ走りの様な人達。その類いのような感じだ」
商家の出であり様々な人物を見てきたエドモントの人物鑑定眼には多少なりともカイルは信頼を置いている。
だからカイルは安心してその評価を元に作戦を立てられる。
「そうか、上手く行きそうだ」
「何をするつもりだ?」
「一寸したジョーカーを使わせて貰う。ウィリアムを連れてきてくれ。次の使者は彼に頼む」
「大丈夫なのか?」
士官とはいえ候補生を最高責任者に使者として送り込むなど無礼のように副王は感じるだろう。特に貴族というのはプライドの固まりだ。
「なに、直接書簡を送るだけだ。その後の事はまあ万事上手く行くようにウィリアムに頼むよ」
「大丈夫だろう。エドモントはこちらの条件を話して念を押しているだろう」
「勿論だ」
「ウィリアムにはそれを追認して貰うように私的に頼んで貰うよ」
「大丈夫なのかよ」
「一応、彼もアルビオン海軍士官だ。役に立って貰う。何より僕の父の後見で入っているんだ。役に立って貰わないと」
「厳しいな。お前の家は」
エドモントはクロフォード邸の事を思い出して呆れた。ウィリアムの正体を知らないエドモントには候補生が分不相応の役割を負わされたと思うだろう。
だが、その正体が皇太子殿下だとしたらどうだろう。
写真のないこの世界では、人との面識が何より重要だ。幸いルシタニアの副王はかつてアルビオンを訪れたことがありウィリアムが皇太子として面通しを行った事があった。
成長期とはいえ書簡を持ってきたウィリアムの顔を間違えることはないはずだ。
始めからウィリアムを向かわせなかったのは副王の性格やウィリアムの正体を知った副王が彼を捕らえて外交に利用されるのをカイルが恐れたからだ。
「問題なのは士官候補生にすぎないウィリアムをどうやって副王に会わせるかだが、何か良い方法は無いかな」
「順当にいけば次の交渉に行くときだが、行ったばかりで会ってくれそうにないな。数日は無理だと思う」
その時、マイルズが大慌てで士官室に入ってきた。
「失礼します副長。只今、コルコバード当局の使者が参り、ダリンプル博士を名乗る人物をスパイ容疑で逮捕したとの事です」
「……早速、向かう理由が出来たね」
カイルは厄介事が起きたという苦い顔と、機会が訪れたという喜びの顔が入り交じった顔をした。
だが直ぐさまエドモントとウィリアムを弁明の為の使者として副王の下へ送り出した。
そして行かせた後の結果は予想以上だった。
その後のルシタニア当局の態度は一変。
ルシタニア側の監視があったものの妨害などは行われず、樽の修理、索具の交換修理、水と食料、特に生鮮食料品の補給が行われた。
博物学者のダリンプル氏の釈放も迅速に行われ、彼は無事にディスカバリーに戻ってきた。
そうした問題を解決しディスカバリーは貿易風を待って出港し南に向かった。
開闢歴二五九三年一二月一〇日 ポート・インペリアル海軍軍法会議議場
「君はコルコバードでスパイ行為及び不法行為を行ったのではないか?」
「と申しますと?」
「ルシタニアより抗議の書簡が来ている。ディスカバリーによるスパイ行為を」
「スパイ行為は一切行っていないと断言できます」
「だが水深を測ったり各所を計測したりしていないか。さらにミスタ・ダリンプルを町に送り偵察させたと」
「それは通常の操艦業務の範囲内です。特に初めての港だったので念には念を入れました。ミスタ・ダリンプルは町を散策しただけです」
実際、水深を測ったり、陸地までの距離を測るのは船では日常的に行う行為だ。また、ダリンプルが町を歩いたことは彼個人の事だから問題無い。
「任務遂行が軍法違反と?」
「違う、任務を盾に著しい逸脱行為があったのではないか、と訊いているのだ」
「しかし、測深、測量は船の基本です。それを行うなと言うのは職務怠慢に当たります。なにより、スパイ行為があったとして誰に報告するというのですか」
「……」
ジャギエルカは黙り込んだ。
もしここでカイルがスパイ行為を認めたらアルビオン海軍がスパイ行為をせよと言っていたことを証明してしまう。
だからこそジャギエルカはカイルへ執拗な追求をしなかった。
いっそこの場で、スパイ行為をした、と言えばジャギエルカを始めとする裁判官達は慌てふためいただろう。そんなことをしたらカイルが海軍に居られなくなるので本当にやらないが、つい考えてしまう。
「コルコバードの法を破っているという抗議があったが」
「私はダウナー艦長指揮の下、コルコバードを尊重するように行動しました」
これも確認以上の事はしない。
軍法会議が下手にカイルを追求すればアルビオンがルシタニアに屈したような形になってしまう。だから、カイルが明確にコルコバードの法を破らず国際法を遵守していた事を述べれば終わりだ。
「なるほど、貴官の主張は了解した」
ジャギエルカも認め書記に今の言葉を記録するように命じてから更に進めた。
「では、いよいよ核心部分に入ろう。君のダウナー艦長殺害容疑だ」




