最後の敗北者(5)
けやきは今、ガイの左の羽根を潜り抜けようとする朝美ユニットに対し、その身を乗り出した。
「っダメか!」
と、漏らしたのは朝美。けやきが身を挺して進路を塞いできた事で、一旦ドラゴンに対して後ずさりする様に指示を出した。
けやきは、研ぎ澄ました神経をそのままに彼女とそのドラゴンの’眼’に注目した。
フェイントをかける意思が無いか。
こちらの動きをどれくらい注視しているか。
何かしらの企ての元に攻めあぐねたフリをしていないか。
それらの問いの答を総合して、けやきは断定した。彼女が思うに、朝美とそのドラゴンはただただ自分とガイを突破する事に専念している様である。
そして、その眼から一つの意思を読み取った。
(焦る事無い。ゆーちゃんと部長はたしかに身動き取れないけど、それはコッチの狙いでもある。今現在の得点は同点。時間をかけて、じっくり樫屋さんユニットを突破すればいいんだ)
朝美とけやきの攻防からしばらく離れた場所にて。
裕子は、眼前に立ち塞がるショウの姿に違和感を感じ始めていた。
(おかしい。何かが)
眼前のショウは首を高く掲げ、羽根を広げている。裕子とドラゴンの進路を塞ごうとしているのだから、それは不自然な事では無い筈である。
だが、その立ち姿に本来あるべき何かが欠けている様な気がしてならないのだ。
胸騒ぎにも似た感覚が裕子の全身を駆け巡る。早く違和感の原因を突き止め対処しなければ、良くない事が起こる気がする。
彼女が焦りの色をその顔に滲ませた頃、状況は既に動き始めていた。
良明にとって、朝美ユニットのけやき達に対する粘りは想像の遥か上を行くものだった。
再序盤の攻防は確かにけやきの敗北という形で終わった。だが、正面切ってのオフェンスとディフェンスのぶつかり合いで、けやきにこれ程までに手間取らせるとは良明は想像もしていなかったのだ。
(これが、一年前の大会で優勝を飾った学校の実力って物なのか……樫屋先輩とガイさんの二人ですら圧倒的な優勢を保つ事は出来ない、そんなレベルの戦い……)
雲を抜けた太陽が睨みつけてくる。直射日光を受けた少年の身体が、一際強い熱に覆われた。彼、良明のその脚は、思考の只中にある少年をけやき達の居る地点へと運び続けていた。
陽も同様にけやき達へと合流するべく走っている。その背後には羽根を広げて裕子に立ち塞がるショウの姿。羽根の角度を絶妙に調整し、首を掲げ、あたかも陽が未だにその背にいるかの様に見せている。
レインも同様の動作で江別の視界を覆っているが、ショウよりも一回り小さな身体の彼女が江別に対して良明の不在をいつまで隠し通せるのかは全くの未知数だった。
時間をかけてゆっくりとけやきとガイを攻略する。その朝美の考えとは裏腹に、時間は一刻を争っていたのである。連山高にとっても、大虎高にとっても。
声を押し殺し、つま先で走ってなるべく足音も消して、良明と陽は同じテンポで脚を動かす。
そして今、ついに二人はけやきへと加勢した。
「!!」
驚愕の表情を浮かべる朝美。
その口が仲間に対して助けを求めるよりも前に、良明と陽は彼女の懐のボールへとその手を伸ばした。
朝美は咄嗟に手綱を引き、一歩後ずさって兄妹をかわす。が、そこに隙が生じた。
すなわち、後ずさったドラゴンの足が地面につき、その体重を支えた瞬間。一瞬だが、身動きが取れない時間が生まれたのだ。
けやきはそれを見逃さなかった。
彼女は朝美の懐に潜り込む様にその身を倒して奪取目標であるボールに対して手を添えると、一息に体重をかけた。
「みんな戻って!!」
朝美がそう叫んだのは、けやきがボールを奪うよりもほんの刹那早いタイミングだった。
「よし、お前達はユニットを組んで私に続け!」
飛翔していくガイの上から、けやきはそう言い残して相手コートへと飛び去っていった。
良明と陽は頷きあうと、すぐさま夫々の相棒の元へと駆け出す。
一連の流れを見守る源治薫子は、それでも顔色一つ変えなかった。
顔色一つ変えず立ち上がり、粛々とウォームアップを始める。
「やっぱり交代だろうか?」
横に座っている大井聡が薫子に問うと、彼女はこくりと頷いて言った。
「これが最後の試合になるかもしれない」
「縁起でもない事をいう物じゃあない」
薫子はいつぞやの様にくすっと笑って「ごめんなさい」と言った。
春大会にてツーバカコンビへのツッコミの勢いを削がれた江別然り。どうにも連山高校龍球部の男性陣はこの微笑みに弱いのだ。
なんだか何もかも見透かされてしまっている様な印象をもたらす彼女の微笑は、それでいて部の誰もに対して安心感を与える。さすがに本人の前では言わないが、薫子がこの微笑みを浮かべる時、江別や大井は彼女がとても同年代の人間には見えなくなるのだ。良い意味でである。決して老け込んでいるとか、そう言った事ではない。
けやきとガイによる侵攻を遮るものは、何も無かった。
江別と裕子は夫々のドラゴンに対して指示を出し、彼等に張り付いていたレインやショウを振り切る事には成功した。だが、けやきを乗せるガイとの距離は十メートル以上あり、もはや手の打ちようが無い状況だったのである。
ガイの羽ばたきにより上昇を続けるけやきの元に心地良い風が吹き抜け、前髪を忙しなく揺らした。ガイの背の上に居ればいつだって感じる風である。
直ぐに止んだそれは、けやきにシュートの成功を確信させる様な、精神を洗うような爽やかさを内包していた。
あと二点で、勝利。
あと二点で、恐らくは薄石高との再戦。
薄石高との戦いに勝てばあと二勝で優勝。
さほど短くはないこの先の戦いが、その先にある眩い栄光に包まれた”部の存続”という結末が、手の届くところにある様に思えてならなかった。
けやきの中で巻き起こったこの感情は、ひとえに連山高が去年の夏大会の覇者であるという事が根底にあるからこそのものだった。
去年の覇者を相手に、戦略と戦術が通用している。勝算も十分にある。それが、けやきの中の自信に繋がりつつあった。
彼女は素早く構え、リングを見据え、見事に中空で制止するガイの背の上で今、ボールを放った。
ビーーーーッ!
「大虎高、一点。ゲームポイント、ワントゥー!」
竹達審判のコールと共に、Bコートの電光掲示板が表示を変えた。
手元のラジオからイヤホンに流れてくる音声が、一秒遅れて少年の元へと実況席の興奮を伝えてきた。
『大虎高校逆転! 去年の夏の覇者を相手に、ついにリードを奪います!! いやぁ、相手の連山高の選手達も決してミスが目立っているわけではないのですが、このリードどう見るべきでしょう解説の長谷川さん』
『やっぱ樫屋選手と相棒のガイ選手ですねぇ。このユニットはスピード、判断力、飛翔能力とあとボール捌きの正確性もかなりのものですから、連山高の選手としてはどうにか抑え込みたいところでしょう』
『なるほど』
実況の絵巻は『おや』と言って何かに気づく。
『ここで連山高校、選手を交代する様です』
『あー、去年の試合のゴールデンメンバーですねぇー』
『去年連山高校は決勝戦で、二点ビハインドからこの江別、源治、大井の三人に変えて大逆転勝利を納めました。後輩二年生の相生と角川はここでベンチへと下がります』
『いやぁ、連山高校追い詰められて奥の手を使ってきましたねぇ』
『連山高校としても出来れば有能な後輩達には少しでも多くの経験を積ませたいところでしょうが、大虎高校はそんな彼等からとっておきの全力を引き出させた格好となります。大虎高校、この三人を相手にどう戦うのか? ここまで二点を入れています部長樫屋選手の采配に期待したいところです』
藤はラジオの音量を抑え、周囲の会話に耳をそばだてようとした。
「いけーー! 良明ー! 陽ー!」
「そのまま勝っちゃいなさーい!」
英田夫妻の叫び声で、何も聞こえなかった。
何だか凄く恥ずかしい声が聞こえてきている気がする英田兄妹は、気づかないふりをしている妹や兄に気づきながら、ベンチの石崎に質問する。
「二人も選手変えてくるんですね……」
「石崎先輩、あの人達って三年生ですよね? 去年連山が優勝した時にも居たりしたんですか?」
石崎は伊達眼鏡をくいと押し上げ、薫子と大井を見て言った。
「忘れもしない。ありゃ、本物の実力者だよ……」
けやきが引き継ぐ。
「二点を取られた状態。それも後半十分を超えようとしているところからの逆転勝利で優勝を飾ったメンバーが、これで揃った事になる」
「っ、物の五分で三点を!?」
「そんな事、可能なんですか?」
「状況次第でそれが起こりうるのが龍球というスポーツだ」
陽は、緊張を滾らせた顔でけやきに問う。
「……今、ですよね。アレの使いどころは」
「いや」
この期に及んでも首を縦に振る事をしないけやき。
「いいか、二人とも」
「はい」
「はい」
「あくまで、タイミングはリアルタイムの現場の状況を見て判断しろ。そのうえでお前達二人が今だと思った時には一秒たりとも躊躇うな。一秒たりとも躊躇う必要が無いタイミング……それが、アレの使いどころだ」
つまり、場合によってはこの状況でも兄妹のシンクロスキルを駆使すべきではない。それが、陽の問いに対するけやきの返答だった。
石崎は、少し不思議そうな顔をして陽に言った。
「よっちゃん、焦らない焦らない。一度取った一点は時間が経っても無効にならないんだから」
それまで黙っていた長谷部は、相手選手達がコートへと戻って行くのを見て一言だけチームメンバー達に告げた。
「兎に角、折角ここまで来たんだ。無茶して怪我だけはしない様に。いいな? 解った?」
『はい』
一同は、声を揃えて返事した。
「あーちゃん」
裕子は手首から先が無い右腕の先に左の掌を当て、横に座る朝美を呼んだ。だがその視線はコートに向けられたまま、”お母さん”と”さっちょさん”と”江別先輩”を見ている。
「……最後の公式大会……なんだよね」
裕子の口から出たそれは、先日学校の体育館前にて朝美の方の口から出た言葉だった。
「私達……頑張れたかな? 違うよ。そりゃ、実際今のベストメンバーはあの三人だと私も思う。私が言いたいのはね、あーちゃん。なんで最後まで私達にやらせてくれないんだよーとか、そういう事じゃなくて。ここまでの試合のハナシね」
裕子は、右の手首を見つめた。
「私さ、気遣いも遠慮も、当たり前だけど差別もなく、普通の人と変わらない様にしてくれた先輩達に……これでも凄い感謝してるんだ。だから、思うんだよ」
コート上では薫子がボールを手にして試合再開に備えている。跨るのは、先程まで裕子が乗っていたドラゴンだ。
「私、先輩達にこの大会で……恩返しできてるのかなーって」
朝美は、延々と喋り続ける裕子の隣で泣いていた。
声を押し殺して蹲り、試合が始まろうとしているコートに眼を向ける事もしない。
そんな朝美の震える肩を、裕子は左の手のひらで優しく撫でた。
会場に絶えない騒めき。真夏の空。灼熱のコート。汎用運動場を取り囲む木々と、客席と駐車場。それら全てが、まるで二人が座るベンチから隔絶された世界の様に感じられた。




