鎖の轍を踏みしめて(1)
誰の耳にも電子音は聞こえてこなかった。
「あっぶないあぶない」
来須がため息を漏らすのと同時に、ガイがボールへと上昇する。
「リバウンド!」
「解ってます!」
久留米沢と来須の声。二人はすぐにガイを追い、安本が一気に大虎コートへとその脚で駆け上がる。
その安本の背中を見て呟くのは英田兄妹。
(俺達の事は……)
(眼中に無しですか!)
陽がショウの背中へと戻りながら、上空の戦況を見極めようとする。
薄石のゴールリングの上端付近に衝突したショウの放ったボールは、その高度を十メートル程にまで高めていた。
それを追う両チームの選手の中で、最も先を行くのがガイである。ガイは、純粋な飛行能力で薄石高のドラゴンの誰よりも上を行っていた。彼の背の上のけやきはこの純粋な力比べの結果を受け、(やはり)と思うのだ。
(薄石高の竜達は、あくまで学校に所属する一般選手だ。恐らく、ウィングボールスクールとは関わりを持っていない)
彼女は、そこに一縷の望みを見出す。
そして、地上に居る他の大虎高チームの四名も、けやきと同じ事を考えた。
「ねぇ、アキ」
「うん、そうだな……なんだかんだ言って、やっぱ今はこれっきゃない」
先程けやきは、点を取られない為に自分がボールをキープすると言った。
そして今しがた、敵の虚を突く事でショウがシュートをする場面を何とか作り上げた。そのショウによるシュートは結果こそ残念ではあったが、リスクを最小限に抑えたいい攻撃だった筈である。
だが、もっと確実な攻撃方法がある事を、大虎高チームの地上の四名はたった今思い出したのだ。それは、とうに解り切っていた事実であり、考察の余地も無い結論だったはず。だが、それでも最初からその結論ありきでこの試合に臨むわけにはいかなかった。
試合開始当初は、自らの経験値を蓄積する事こそがこの練習試合の目的であるという判断の元、陽が意識的に避けた道。
けやきには、直接面と向かってこう言われた。
『今日これから試合に出る者は、これからの一分、一秒を、相手の知識を盗むことに対し全て注ぎ込め!』
だが、しかし。
既に大虎高チームにとって後が無くなった試合状況。
安本による稚拙な恫喝。
相手の知識を盗めと言ったけやき本人からは、防御の為とはいえ自分がボールをキープするという宣言があった。
つまり、今や試合開始前とは状況が様変わりしているのだ。
勝ちたい。勝ちに拘りたい。
その想いが、良明、陽、レインの中で加速度的に膨張していく。
”攻撃の要を、防御の要を、試合の主軸の全てを、けやきとガイに任せる”
今後数か月の事を考えれば、そんな戦い方は全くもって望ましくない。積極的に攻防に参加し、相手との攻守を繰り返し、実戦の立ち回り方を覚える事の方が勝ち負けよりも遥かに重要。これは、そういう試合である。
そう、頭では解っていても、良明と陽の中に芽生えた競争心と言う名の魔物は、どす黒い唸り声を止めようとはしなかった。
時間にすれば十秒も無い束の間の葛藤は、その答えが出る前に遮られた。
その手にボールを持ったけやきと、彼女を背に乗せるガイが急降下してきたのだ。
「先輩!」
「よしよしよし」
地上の二ユニットが彼女の着地地点になり得る場所から退避し、久留米沢達が真上からけやきとガイを追ってくる。
攻防の末、ボールを獲得したのは長身の麗人。大虎高校チーム主将・樫屋けやきだった。
ガイがグルルと唸り声をあげる。その唸り声が、『舌を噛むなよ』というけやきへの忠告である事が解っているけやきは、無言で以て彼の思いやりに応えた。
禁止エリアギリギリからのシュート。最悪でもフリースローを望める一投。
これが入れば、試合は同点に戻る。一点取られては返しを繰り返す形とはいえ、同点は同点である。チームとして圧倒的な力の差があるのは間違いない。それでも、同点は同点なのである。
まして、さらに次の一点を入れる事ができれば、この途轍もない強豪を相手に勝つ事になる。龍球を初めて間もない良明と、陽と、レインが所属する大虎高校竜術部が、龍球でプロを目指す人間が所属するチームに、勝つ事になる。
それはすなわち、今後の練習次第で兄妹とレインが県大会で戦い抜く事が、決して夢ではない事を意味している。
たとえ今日の試合の全ての得点がけやきによるものになったとしても、チーム同士が真っ向勝負をして得た勝ちである事には違い無い。これから先良明と陽が上達すれば、さらにチームの強さを上乗せする事にもなる。
あと、たったの二点でそういう華々しい未来が待っている。
そのうちの一点が今、目の前で形を成そうとしているのだ。
良明と陽は、薄石コートの左右に退避した状態で、万一のパスに備える体勢に移る。
けやきによる何らかの配慮で自分達にパスが来る可能性もゼロではない。双子は、仮にこのチャンスに於いて抜かりがあったなら、それが如何に罪深い事であるのかを自らの心に説きながら身構えた。
けやきを乗せたガイが今、地上に降り立つ。
瞬間、辺りに地震を思わせるほどの振動が巻き起こり、部室の窓はガタガタと音を立てた。
けやきもガイも一切動じない。
まるで、別の世界の出来事であるように、その身にかかる衝撃を受け流す様に薄石高コートのゴールリングを見据えた。
ボールを放とうとするけやきと、それを阻もうとする薄石の二組が、いよいよ双子の視界に入る。生唾を呑む隙も与えずに、ボールを持ったけやきの両腕が今まさに投げる動作を開始した。
抜かりなく、無駄なく、創作ダンスの様に美しく。
けやきはガイのバランスを信頼し、ガイはけやきのシュートを渇望する。
異体同心。今この瞬間、彼女等は二人でひとりの選手であった。
視線を浴びながら、指先一本に至るまで全神経を集中させ、けやきはついにその腕を前方へと傾けた。
その瞬間、場の空気がざわめく気配がした。
憎悪、葛藤、競争心、誇りや思惑。目には見えないが、確実にこの場に存在している様々なもの。
それらが気配を失わない今現在にあっても、この日一番強烈な存在感を放つにはそれは十分すぎる光景だった。
「え」
「え」
双子のシンクロした声が、不協和音となってお互いの耳に届く。
その瞬間、けやきの手に握られていたボールは既にその手には無かった。そしてそれは、けやきの身長よりも高い所にも存在していなかった。
龍球用の白球は、勿論この試合中のコートから消滅したわけではない。けやきの肩を打ち、今、地面へと転がった。
ゴールリングに向かうどころか、彼女の身体より前方にすら無い場所でボールはそのまま制止する。けやきがこの局面に於いてシュートを投げ損じる筈はない。
ある筈の無い場所に、あってはならない場所にあるボール。
それが選手達の戦いを中断させ、多くの者を驚愕の表情へと至らしめる一因となっていた。
ボールを持っていたけやきの腕はその背後へと捻じ曲げられ、その先に続いている、意外なほどに細い身体を、ドラゴンの背から引きずり降ろさんばかりに引っ張っていた。
普通ならば苦痛に表情を歪めそうな角度で曲げられた、けやきの腕。だが、彼女は顔色一つ変えず、自分のその腕の先に居る人物を見据えていた。
彼女のその表情は、無表情なのではない。直前まで試合に臨んでいた時同様の、真剣そのものの戦士の表情であった。
けやきの身体を、腕を、引っ張っていたのは、薄石高校一年・来須の左の掌だった。
「来須、何やってる!!」
来須が我に返ったのは、そう久留米沢に怒鳴られた直後の事だった。
「え、あ……」
その声音から、来須がパニックに陥っている事は明らかだった。
彼の硬直した左手は、今尚けやきの二の腕を捻る様に握って離そうとしない。
部室内。
「ちょっとちょっと!」
真っ先に声を上げたのは、けやきの親友である石崎楓であった。
続いて薄石高龍球部顧問黒川が声も無く椅子から立ち上がり、大虎高竜術部顧問寺川が口に右の手を当て身体を椅子の背もたれに預ける。
他の竜術部の部員達は声一つ上げられなかったし、身動き一つ出来なかった。
いまや地面の上にで停止したボールが、風に煽られ転がり始めた頃。
”一体何が起きたのか”
誰もがやっとその事に意識を向ける余裕が出て来たのと同じタイミングで、コートに怒声が響き渡った。
「てんめぇえええ!!」
その声にハッとして、漸くけやきの腕から手を放した来須は、駆けて来る主将に対して、小さく甲高い声を上げて身構えた。
まだ来須との距離が二、三メートルは開いている所で、安本は彼のいる地点へと跳躍。ドラゴンの上の後輩に飛びかかった。
来須は乗っていたドラゴンから押し倒されるような形で落下すると、必死の形相でもんどりうつ。
違うのである。それは、地面を転げまわっている様にしか見えない動きではあったが、逃げようとしていたのだ。
薄石高校龍球部主将・安本は、そんな来須をしっかりと視界に捉えつつも容赦しない。 来須に馬乗りになって、左の掌で胸倉をつかみあげて問いただす。
「てんめぇ、貴様ァ! 俺の復讐試合に泥塗る気か、ああ!? なにやってんだんだこの……!」
来須は、圧倒されて身体を支える事で精一杯の様子。
「おい! 何とか言えこの野郎てめぇ」
と再び凄まれ、漸く口を開く。
「あ、ああ……しないと、二点目を入れられて……ファ、ファウルを取られるリスクを……が、あっても……とにかく、シュートを、と、止めなかったら…………」
尻切れトンボな来須の応答に対して、安本はもう何も言わなかった。
何も言わずに、右の拳を振りかぶり、躊躇う事なく振り下ろし――
その手が、後ろから掴まれて静止した。
彼よりも幾分か細い指に凄まじい力が籠められて、安本はその振り上げた腕を微動だに出来ないでいる。力には多少なりとも自信のある安本だったが、本当に、その腕は全く動かせなかった。
振り返る。




