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7.全てをこの手に

すた…すた…すた…


「………………はぁ…」


…がちゃ…


「っ…!」


「…あんたが部屋を訪ねてくるなんて珍しいわね。…少し散らかってるけど…入って」


「やれやれ…」


程なくして。一人別れの余韻に浸りつつ、何かを思案する。

男は唐突に立ち上がると、部屋を出て屋敷の中を歩き始めた。


別段、これと言って用はない。けれどあの真剣な表情が。感じた想いが本物なら少しくらい、思い耽る時間があってもいいと。

男がやってきたのは此度初めてとなる暗殺者の部屋だった。


こんな時間にまさか起きているとは思わなかったが…恐らくは気配でも感じたのだろう。

部屋の前に立ち、扉を叩く寸前。女は肌着姿に冴えた顔で扉を開くと、そう言って男を出迎えた。


「…それで、何かあったの?」


ぼふっ…


「ファティルに友が出来た。もう、ここに留まる理由はない」


「……そう、お嬢ちゃんとの約束は済んだのね。……それでいつ、此処を発つの?」


「明日か、遅くとも明後日には発つ予定だ。元より、ここまで長居するつもりもなかった場所だ。道も半ば…さっさと旅に戻って木を目指したい」


「…なら、出立は明後日でいいわね」


「…何でお前が決めるんだ」


「別にいいじゃない」


あの日のように浮き足立つ事もなく。衣服の散乱した室内で用件を問うロミア。

未だ肌着姿でベッドに座り、すらりと長い足を組む。この状況、その姿。如何にがさつとは言え、欲情を唆るに余りある。

女を前に、ヨルの表情はこれまでと変わらず。何を見ているのかも分からない視線は女を過ぎて窓の外。

ロミアは見上げる様にその目を覗き、ふと小さな疑問が湧き上がった。


大切な誰かの元へ。『その為に』天樹の迷宮を踏破する。一見して矛盾した言動は何を意味するのか。気にはなる。が、それよりも。そう、そんな事よりも。

深夜を過ぎたこの時間。不意に訪れた男の気配に直感が告げる嫌な予感は案の定。

間も無く訪れる別離を前に少しでも長く。少しでも多く、想いを積み重ねていきたい。

であれば。想像に容易い答えを問うよりも。そして。次の瞬間には用も済んだと出て行くであろう男を引き止める為。ロミアはまるで脈絡もない話題を取り上げた。


「…そう言えばあんた、出身は何処なの?神聖の大樹を目指す途中でこんな小国に居るって事は…中央の人間じゃないわよね?」


「ったく…本当に勝手な奴だ。出身…まぁ、しいて言うなら東のルーウィン王国になるだろうな」


「ルーウィン王国…」


(って、確か数ヶ月前に勇者の召喚があったって聞いた気がするけど…まさか…ね…)


「何をそんなじっと見つめている」


「…いえ、何でもないわ。それより…わざわざ伝えに来てくれたんでしょ?てっきり…何も言わずに消えちゃうんじゃないかと思ってたけど…」


「勝手に消えるつもりだったさ。お前の気持ちを見るまではな。…お前がどれだけ俺を想っているかは知らないが…俺には思い耽る時間さえなかった。どころか……賭けは明後日だ。それまでにまた意気を無くされでもしたら困る。…それと、自慢のつもりか知らないが、余り大っぴらに見せるもんじゃない。多少淑やかな方が男も釣れる」


「っ…!?」


ばさっ…!


「…今更隠しても遅いだろ。恥ずかしいと思うなら最初から何か羽織るくらいしたらどうだ」


「き…急にそんな事言うからでしょ!」


果たして。西を目指すか東を目指すか。

大切な妹が選んだ道は言わずもがな。命運を分ける問いの答えに訝しみ、ただそれだけを伝えに来た男の言葉に期待する。


屈辱を飲んで縋った命。脅かされぬよう息を潜め、寡黙に振る舞った。けれど。気付けば饒舌に語り、剣を交えて知る優しさに救いを求めて惨めを晒す。

強く美しい姉の姿。しかし、彼女も一人の女。

初めて知った淡い恋。男に縋る弱い自分。果てにいつかと望んだ夢を叶える覚悟をくれた。

そうして、目まぐるしく移り変わる日々は殺しと剣しか知らない女に恥じらいを抱かせ。

はだけそうな胸を見つめ、言われた言葉に顔を赤く染めたのも初めての事。

用は済んだとばかりに部屋を出て行く男を見つめ…時間よ止まれ、永遠に。なんて、柄にもなく願った夜は過ぎてゆき。

進むばかりで止まりはしない。そんな事を言われた日を思い出す。


別れの日まで後二日。その時は、瞬きの間に訪れた。


「……………」


(堂に入った構え…たった数日で見違える程様になってる。…何を代償に支払ったとしても、か。けど、そんなの知った事じゃない!あんたが何を犠牲にし、どれだけ必死に求めようと関係ないっ!あたしが…!あたしの全てを懸けてヨル…あんたとの未来を繋いでみせる!)


「準備はいいか。これが最後だ」


「……えぇ」


ぎゅっ…!


いつもと変わらぬ屋敷の庭で。いつもと変わらぬ日課のように相対す。

違う事と言えばもう、二度と響かぬ剣戟と、物悲しい屋敷の静けさを残し消えゆく二人。

泣いても笑っても、勝負が終われば別の道。勝っても負けても、避けられぬ別れ。

だからこそ、全力全霊を賭して押し付ける。


既に、男の強さは嫌と言う程理解している。それも、恐らくは全力に遠く及ばず。

無理難題をふっかけられ、渡された魔力。あれは少量にして常軌を逸するものだった。

まともにやり合えば勝機はないだろう。けれど一度だけ。たった一度だけ、これを覆す切り札がある。

それは常に女の側に有り。時に担ぎ、佩き、手に持っていた。今も、鞘に収まる刀の柄を握り、静かに目を閉じる。

そうして、思い返すは師の言葉。


『ごほっ…!ごほっ……はぁ…俺ぁもうすぐ死ぬだろう。だからその前に、こいつをお前に託しておく』


人里離れた山奥に、ぽつりと建つ日本風の平屋。

内装は障子、襖、畳など、純和風と言って差し支えない。その一室で、床に伏せる。

黒よりも白が目立つ髪は短く、萎れた顔に鋭い目つき。男の名は…羅染(らぜん)。


既に余命幾許もない身体が病に侵されたのは数年前の事。

唐突に奪われ、利用され、逃げ出し。各地を転々と巡り彷徨う男は、道行に拾った孤児の少女と共に旅をし、この地に定住を決めた。

山の下に小さな村があるだけの静かな場所。最期を迎えるのにこれ以上の場所はない。

そして、思い残す事も無い。何故なら、己が全てを託す事が出来る。

男は横たえた身体を起こし、すぐ側に置かれた刀に手を伸ばした。


ちゃき…


『これ…じじぃの大切なものでしょ?幾ら死に損ないって言ったって…あ、墓に突き立てろって事なら言われなくてもこれまでの恨みを込めてぶっ刺してやるわよ!』


そんな羅染のすぐ側で辛辣な冗談を口にする少女こそ、若かりし頃のロミア・テーゼ。歳は十七歳。

性格は粗野だが明るく、裏表もない。美しさの片鱗は既に見え始め、師の身体を拭い食事を手伝うなど。言葉とは裏腹に、優しい少女だった。


『そうじゃあねぇよ。いいから黙って聞け。…いつか、お前が大切なものを見つけ、守り、欲した時。こいつぁはどんな道であろうと切り拓いてくれるだろう。たった一度のその時を、決して見誤るな。…お前は無鉄砲で考え無しの馬鹿だから、俺ぁ心配で心配で…なんせお前は馬鹿で阿呆で…不器用だからなぁ』


『…馬鹿馬鹿うるさいんだよ!このくそじじぃ!そんなもんに頼らなくてもあたしは…!』


『お前は弱い。だから、ただの一度だけ。お前の道を月が照らしてくれる。これがお前を拾った俺の…俺の道を照らしてくれたお前への、最後の親心だ。死んだ後まで俺に面倒掛けるんじゃあねぇぞ、ロミア』


出会いから十年。孤独に耐え兼ね拾った孤児。親なんて柄じゃあないが、男手一つで育ててきた。

生意気な少女にゲンコツを見舞った事も一度や二度ではない。飯を食わせ、世界を見せ、そして己が剣を教え。

積み重ねた時が情を育み。血の繋がりなど無くとも固く結ばれた絆。

親心と言って渡す一振りの刀には、娘の将来を案ずる羅染の想いが込められていた。


(…このあたしが男の為になんて…親父が聞いたら驚くかな…けど、これがあたしの願い。この先の道はきっと、シャラが照らしてくれる!だからお願い。孤月!あたしの今を切り拓いてっ!)


すっ…ちゃき…!


ぶわっ…ざざーーーっ!


「…なるほど…奥の手があった訳か。無策でなくて何よりだ。その魔力…お前のものじゃないな。…刀に込められていたものか」


「…銘を孤月。この刀は師匠の…親父の形見。…出来の悪いあたしの為に遺してくれた一度きりの技。…これだけはあんたにも見せなかった。いえ…見せられなかった。特異体質と言われるあたしでも、この技を使うには魔力が足りないのよ。…故に…この一撃を防がれたらあたしの負け」


目を見開き、刀を抜いて構えを取る。直後、魔力の奔流が空へと立ち昇る。

その出所は女…ではなく刀から。そしてこれが彼女のものでないことは明白だった。


出会って直ぐに気付いた核の有無。

感嘆の息を漏らした男の言は勿論、他の核無しと比べての話。

そも、魔力を生み出す核を持たない人間は、様々な工夫によってこれを補っている。

魔力の付与された武具を装備、使用するのもその一つ。しかし…ロミアの持つ刀から放たれた魔力は、ありきたりなそれとは全くの別物。

男をして圧を感じる程に研ぎ澄まされ、練り上げられた魔力。

恐らくは、女の為に師とやらが遺したものだろう。


女の覚悟を無碍にする気はない。が、今はどうあっても受け止める事が出来ない想いを前に…ヨルは小さく問いかけた。


「…今でいいのか…一度きりと言うなら…」


「……………」


「…余計なお世話だったようだな。いつでも掛かってこい」


ぶわっ…!


「…っ!」


(…何度見ても凄まじいわね。けど、この技の前ではその馬鹿げた魔力も意味を為さない。あんたの刀が魔力で作られているなら尚更にね。…まるで今日、この時の為のような。…勝機はある…ヨルがどれだけ速くても関係ない。…一撃必中…全身全霊を賭して掴み取る。もう、後の事なんか知った事じゃないっ!)


果たして。覆る事もなかった覚悟を前に、薄黒い魔力を解き放ち、女を迎え撃つ。


勝負は一瞬。

片や己が全てを注ぎ込まんと魔力を高め。

片や、教えを乞うた構えで立ち尽くす。


じり………


睨み合う男と女。そして遂に…ロミアは深く息を吐き、両の足に力を入れた。


ぐっ…!


「………………」


「…っ!?」


(来るっ!)


だんっ…!!


地面を砕き、その場から飛び出す。文字通り一足。

前傾姿勢のまま、一直線に伸びる魔力の残滓を置き去り、ロミアが気炎を上げる。


「はぁぁぁぁっ!」


「………………」


(こいつの誓いか。…何を押し付けようとしているか知らないが…俺にはそんなものを受け取ってやる義理も、資格もない。それはお前の大切な妹にでもくれてやれ)


引き伸ばされた世界の中で、迫る女に答えを告げる。

今はどうあっても受け取れない。誰のどんな想いにも応える事は出来ない。

何を求められるのか。何を押し付けられるのかも分からない。

けれどあの目は、今眼前に迫るその眼はもう、数日前とは違う。


誰かに何かを求めるのではなく、望んだ未来を掴みに行く。それはきっと、大切な妹と陽の下を歩き。それはきっと、他愛ないやり取りに笑みを溢す日々だろう。

しかし、そこに男は居ない。であれば。中途半端な未練など、無い方がいい。

故にこの勝負、花を持たせる訳にも、ましてや敗北など、万に一つも許されない。


すっ…


「悪いがこの勝負…」


「…神羅…断象ッ!」


しゅっ!


「……なっ!?魔力が消え…いや、斬られたのか!?」


そうして。束の間の日々に終わりを告げる。


地を這うように振り上げられた斬撃に合わせ、ヨルが氷刀を突き出した瞬間。それは一切の手応えもなくすり抜け、かと思えば霧散する。

手に残る柄と、折れた剣身。その先はまるで鋭利な刃に断ち斬られたように鋭く。これが女の一度きり。そして気付いた時にはもう遅い。

あの日の夜と同じように、勝負は決したと勝ち誇る男の顔が、焦りと共に歪み始める。


「…見誤ったわね。この技は…遍く全てを断つ!それはあんたの、ふざけた魔力も例外じゃない!…意地でも受け取ってもらうわよ!あたしの誓い…あんたへの想いっ!!」


「ちっ!」


(…どうする…もう一度剣を…いや、間に合わない…!…こいつ…やってくれたな…!)


眼前に迫る刃を見つめ。油断と言うには余りにも大きな隙を晒し、狼狽える。

神羅断象。それは女の言葉通り、遍く全てを断ち斬る技。であれば、身体に纏う魔力さえ切り裂くだろう。生身で受ければ一太刀どころか真っ二つ。

慢心と言う他にない。最早全てが遅きに失し、反撃を繰り出すなど無理無謀。とは言え、打つ手がない訳ではない。

ヨルは崩れた体勢を強引に引き戻すと、柄にもなく声を上げ、後方へ倒れ込む様に上体を傾け始めた。


「っ…そ…がぁっ!」


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


(あたしの想いをヨルに伝える!その為に…!もう縋ったりしない!あたしはこの手で掴み取ってみせるっ!)


身を仰け反らせると同時に胸部を過ぎる女の刃。

裂かれた衣服がひらと舞い、冷たい汗が背を伝う。

まさに剣での化かし合い。

驚愕に狼狽えていなければ、躱し切れるだけの余裕もあっただろう。今となっては五分と五分。


ヨルは迫る刃を振り切るように身を仰け反らせ。ロミアは千載一遇の機を逃すまいと全力で刀を振り上げる。

ここを逃せば後はない。別れてしまえばこれっきり。そんなの、断じて容認する事は出来ない。

意地と覚悟と夢を乗せた想いが今、男の眼前を通り過ぎる。


つーっ………ぽた……


「……やれやれ……ふっ…」


薄皮一枚を裂いて滴る血の雫。

頬の傷に触れ失笑を漏らす男は、此度初めて脱帽の意味を知った。


過信、慢心はあっただろう。油断と侮りも確かにあったが…怠慢ではなかった。しかし。覇天の魔力によって作られた氷刀を斬られるなど、誰が考え至ろうか。

受け入れざるを得ない敗北。擦り傷とは言え、一太刀。

はてさて、何を言われるのやら。

ヨルは赤く濡れた指から視線を離し、勝利の余韻に浸るロミアに目を向けた。


「………………」


(…届いた…あたしの剣がヨルに…。いえ、まだ終わりじゃない!けど、どうやって伝えるの…言葉よりも確かなもの…ヨルがあたしを忘れない為に…何か、特別な…)


「…賭けはお前の勝ちだ。まさかあんな奥の手を持っているとはな。…それで、誓いとやらは…」


「……これしかないわよね…」


ぎゅっ…!


天を仰ぎ、刀を持った腕をだらりと下げ、微動だにせず。己が剣で掴み取った勝利を噛み締め立ち尽くす。ロミアに向け、賛辞を贈る男は気付かない。

そんな事よりも。そう、そんな事よりも。

未だ緊張が解けない女の次。

或いは妹と二人、幸せに生きる願いも叶えられたであろう一撃を放ち、全てを掴み取る道を選んだ。その証が欲しい。悔いは無いと言い誇れる自信が欲しい。


きっと、言葉だけでは霞み、消えてしまうだろう。

だから、より熱烈に。そして鮮烈に焼き付ける。


ロミア・テーゼが、あんたを愛している事を。


ざっ…


「…おい、急になん…え…ちょ…おいっ…!?」


親に捨てられ孤児となり。師に拾われ世界を知った。

生きる術を教わり、剣を教わり。師を看取り街へ出ると、すぐさま嫌な視線の的になる。

自身の魅力に気付き始め、下世話な話に耳を傾け。そういうものだと知識を得た後は、嫌悪と興味がせめぎ合う。とは言え、身近に居るのは下衆なギルドの仲間達。

気を許しても身体まで許そうとは思えなかった。何より、初めてくらいはと、そう願う乙女心まで無くした覚えはない。


一人心の中で意を決し、男に向かって歩み出す。

ロミアの頭は言葉に出来ない妄想で膨れ上がり、その顔は見る見るうちに赤く染まっていった。


「いいから黙ってて!」


ぐいっ!


二人の距離は極僅か。ここで唐突に胸ぐらへ掴み掛かるロミアに対し、何事かと問い掛けるより早く。彼女は腕を引き、顔を近付けた。


「なっ…お前……むぐっ…!?」


女に生まれて二十五年。知らずとも、考えなかった訳ではない。強引に抱き寄せられ、唇を奪われる。そんな、ぼんやりとした夢想がまるで逆の立場で現実となる。


今もまだ、男の衣服を掴んだ手は力無く。うぶな村娘のようにぎこちなく目を閉じる。

そんなロミアの顔を見て、男は敗北の代償を…いや、敗北の対価をその目にした。


「……………」


(…ったく…何て顔してやがる。…どいつもこいつもずけずけと。人の気も知らないで…。茜、すまない。今の俺にこいつを拒絶する事は出来ない…けど、俺の想いは今も変わらずお前だけのもの…だからもう少しだけ、待っていてくれ…)


不意を突かれ交わした口付け。それはただ、唇を重ねただけのもの。けれど、薄い唇から伝わる熱が、喜びと恥じらいの滲む表情が、女の想いを感じさせる。


これ程までに自分を。こんな自分なんかを。見る目が無いにも程がある。そう思うと同時に、嬉しくもあった。

出会いは敵同士。以降の接触は必要最低限。多少世話を焼くくらいの事はした覚えもあるが、剣を交えて惚れるなど、冗談にしても笑えない。

そして今はもう、そんな馬鹿げた話を笑えない。

何故なら、不器用に目を閉じる女の顔は美しく。男の目を濡れた瞳で見つめながら離れていく。その表情は、とても綺麗なものだった。


こうして、願い臨んだ勝負を制し、その想いを強引に押し付けたロミア。しかし、今も熱を帯びる自身の唇に指を這わせ、冷えた余韻に浸って零す胸の内。そこには、拭えない悔しさが滲んでいた。


すっ…


「…………やっぱり…届かない…か…」


これ以上は強欲だと分かっている。

昨日、一昨日の今日で何が変わる訳でない事は理解している。

それでも、期待していなかったと言えば嘘になる。


熱の伝わる抱擁と、思考が焼き切れるような熱い口付け…など幻想に過ぎず。

氷のように冷たい唇はなすがまま。その腕は、手は、この身体に触れる事もしなかった。

そんなのは、物言わぬ人形と変わらない。

愛し合う二人…とは程遠い現実。ロミアにとって初めての口付けは思っていたよりもずっと。ずっと苦く、切ないものとなった。


(…ったく…惚れたのはこいつの勝手。振り払うのも俺の勝手…なのに何で罪悪感を覚える…何に対して…こいつがどうなろうと俺には…関係……ないだろう…)


「…それで…これがお前の誓いだと思っていいのか」


そんな、感傷に浸る女の背に向け素知らぬ顔で問い掛ける。

男にとっても不意の口付けは想定外。元より敗北など予定外もいいところ。

どうせ死ぬか消えるかのこの命。であればこれまでも。未練など残すつもりはなかった。


平静を装い、複雑な胸中をひた隠す。この世界の者達が織り成す想いはまるで、創作物から抜け出た様に熱烈で抗い難く。

それが自身に向けられているとなれば尚更に、胸を締め付けられる。


最早、関係ないとは言えない程に積み重ね、放たれた想い。

それはロミアが思うより深く、ヨルの心に響いていた。そして、これだけで終わらないのが異世界の女達。

ただ明日を、未来を見据え。ロミアはゆっくりと振り返った。


「……そう…ね。これも…そうである事に変わりない。だって…あんたは辿り着けない。何故なら、あたしが辿り着かせないから。行かせない…離さない。あんたが迷宮を踏破する前に追い付いて…今度こそ、その目にあたしだけを映させるっ!」


ざっ…!


かちゃ…


「受け取って貰うわよ。嫌とは言わせない。…この刀は大切な師匠の…親父の形見。きっと旅の役に立つ。…それに…」


(これを渡しておけば…あたしを忘れないでいてくれる。孤月を振る度にこの、束の間の日々を思い出してほしい…あたしがあんたの元へ辿り着くまで…)


「…何だこれは。一体どういうつも…」


「賭けに勝ったのはあたし。そしてこれが、あんたの受け取るあたしの誓い。…大事に使ってよね」


ざっ…ざっ…ざっ…


「いや…誓いって…おいっ…!ちょっと待て!幾ら何でも色々とおかしいだろ!」


「ふふっ…おかしくないわ!あたしはちゃんと、賭けに勝ったら誓いを受け取ってもらうって言ったわよ!まぁ、何とは言ってないけど…あんただって、自分の勝ちを疑っていなかったから何も聞かなかったんでしょ?自業自得ね!」


「………はぁ…」


(…まったく…良い顔で笑いやがる。…こっちはもう、これまでにも散々押し付けられているっていうのに…遂には刀まで、か。ふっ…重過ぎて木から落ちそうだな…)


鞘に納めた刀を突き付け、次の瞬間には肩越しに男を振り返る。その顔は晴々とあどけなく。狼狽える姿を見てはしてやったりと嫌味を込めて。

その清々しさにきっと、何を言っても聞きはしないと溜め息を吐く。


押し付けられた刀を見つめ、脳裏を過ぎるこれまでの出会いと、今また新たに加わるロミアの想い。

我が身の代わりと言わんばかりに押し付けた孤月に誓う再会の約束は、いつかもう一度会う日が来たら…刀とこの身を引き換えて、共に在ろう。

これが、ロミアの選んだ別れの形で進む道。


そして間も無く。彼女は背を向けたまま、燦々と輝く陽の光に目を細め、こう言った。


「…それじゃあ、あたしはもう行くわ。…最後に……あんたと出逢えて良かった」


「……………」


「あんたを好きになって良かった。あたしとあんたとシャラと…三人で暮らす未来を見てみたい。あんたが何を目指してどう生きようと…結果として振り払われようと関係ない。…あたしはもう、あんたと一緒に生きる未来を諦めない。…ようやく、この足で行きたい場所が決まった。命を懸ける覚悟も…だから…」


「……だからなんだ」


ばっ…!


「…辿り着けなくても死なないで!願いが叶わなくても、生きていて!あたしは…必ずあんたの元へ辿り着いてみせるからっ…!」


それが、傲慢で自分勝手な願いだという事は理解している。けれどあたしが。いや。あたしと幸せになる為、其処に居て。

勢い良く振り返り、真っ直ぐに男を見つめて言い放つ。ヨルはその言葉に含まれる意味を即座に理解した。


行かないで。待っていて。


しかし、言葉は何を求めている訳でもなく。

素知らぬ顔でたった一言、勝手にしろ。そう口にするだけで幕を閉じる束の間の日々。

きっと、女は寂寥感を漂わせて去っていくだろう。


それでいい。未練など残す必要はない。期待を抱かせる事はない。

ヨルは自身にそう言い聞かせ…ゆっくりと口を開いた。


「…そうか」


「………えぇ、それじゃあ…またいつか…」


ぎゅっ…!


ざっ…


(…縋るな…振り返るな…!次こそ…必ずヨルを振り向かせてみせる…!)


そうして、良くも悪くも期待を裏切らない男の返事を受け、身を翻して歩き出す。


終わりを迎えた追憶の日々。心残りが無いとは言えず、勝ち気で負けず嫌いな性格が後ろ髪を引く。そんな、弱い自分を律するように拳を握る女を見つめ、男は何を思うのか。


素気無くあしらうには積み重ね、知り過ぎた。故に頷く事が精一杯。…それでいいのだろうか。

たった一度きりの技。初めての口付け。師の形見。勝手と言うには余りにも多くのものを押し付けられ、返したものは何もない。

男は、そんな人間が嫌いだった。誰がそうであっても自分だけはと生きてきた。

無くはないだけの可能性。その先にある残酷な現実。よりも今、高く聳える壁を越える力になれるなら…。


たった一言。これが、ヨルの選んだ別れの形でロミアと交わした最後の言葉。


「…そんないつかが来るとして…」


ぴた…


「……………」


ざっ…ざっ…


「それは俺の望みが絶たれた事を意味する。…そうまで言うなら…全てを失い絶望の淵に立った俺を…振り向かせてみせろ!」


(あの女のようにな…)


「……なんで…そんなに偉そうなのよ…」


一歩、二歩と進む背に掛かる声。ただそれだけで足を止める程に期待し、次の瞬間にはまた歩き始める。

振り返りはしない。きっと、嫌味の一つも言って見送るつもりなのだろう。最後の最後までつれない男…。

ロミアは内心で苦笑いを零すと、また一歩、進む道を踏み締めた。


長いようで短かった日々の中。得たものは多く、得たかったものは得られずに。結局、どれだけ想いを伝えようと返ってこない。…そう、思っていた…。

不意を突く男の言葉に立ち止まり、込み上げる喜びを抑えきれずに涙ぐむ。

想いを賭した勝負の後。別れの際にたった一言欲しかった。

この身を求める男の言葉。嘘でもいい。けれど夢くらい、見させてほしい。


そしたらもう、あたしは二度と迷わないから。


ばっ…!


「次に会う時を楽しみにしてて!…じゃあね!ヨル!」


かくして。笑みを湛えて腕を振り、涙を散らして別れを告げる。

ロミアは颯爽とその場を後にし、間も無くその姿は消えていった。


そして。


かつ…かつ…かつ…


ぎぃ…


「頭、戻りました」


全てをこの手に掴む為。願った夢を叶える為に。

ロミアは今一度、その扉に手を掛けた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ロミアの物語はここで一つの区切りとなりますが、この物語で描かれた世界と、ヨルたちの物語には続きがあります。


『夜のアリカと銀の星』


既にお察しの方もいると思いますが、『ヨルと少女と暗殺者』は本編主人公の軌跡を書いた過去編です。

もしロミアやヨル、彼らの生きる世界に興味を持って頂けましたら、こちらも読んで頂けると嬉しいです。


また、本作を楽しんでいただけましたら評価やブックマーク、感想などをいただけると、励みになります。


改めて。ここまでロミアの物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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