第2話 友人
船上から見上げた東京の夜景は、息をのむほど美しかった。けれど、レインボーブリッジをくぐり、フェリーが臨海部の港へ滑り込んでいくにつれて、その眩しさは僕をじわじわと追い詰める現実の光へと変わっていった。
港で船を降り、ゆりかもめに乗り換える。
窓の外を流れるのは、香川にはなかった未来的な臨海副都心の景色だ。数日前までアメリカにいたはずなのに、今度は東京。あまりにも急激に移り変わる世界のスピードに、僕の心は完全に置いてけぼりにされていた。満員の地下鉄へと乗り換え、スーツ姿の大人たちに押しつぶされそうになりながら、僕は重いリュックの紐をぎゅっと握りしめていた。周りの誰もが、僕が数日前に両親を亡くし、妹を失ったばかりの迷子だなんて気づきもしない。その圧倒的な無関心が、僕の孤独をさらに深めていった。
駅から少し歩いた場所に、その建物はそびえ立っていた。
叔父・花瀬健二の自宅は、天を突くような高級タワーマンションの一室だった。
叔父の職業は、美容外科の医師だ。大理石張りの豪華なエントランスやホテルのようなフロントは、彼が東京で手にしたステータスをそのまま形にしたようだった。自動ドアをくぐるだけで場違いな恐怖を覚える。エレベーターで一気に昇った先、叔父の部屋は、驚くほど広くて、そしてどこか冷え切っていた。
床には開けられていない高級家具の段ボール箱が積み上がり、ガラス張りの窓からは東京を一望できる絶景が広がっているというのに、部屋全体に冷たい空気が停滞している。
「凪途、お前の部屋はあそこだ。適当に荷物置けよ」
叔父に指差されたのは、四畳半ほどの薄暗いサービスルーム(納戸)だった。僕はそこに這い込み、ただ膝を抱えて、床のフローリングを見つめていた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、『高瀬 由紀』という名前。
心臓がドクリと跳ねる。香川の中学校の同級生だ。あの一件以来、学校には一度も行かず、誰にも何も告げずに荷物をまとめてここへ来てしまった。
迷った末、通話ボタンをスライドさせて耳に当てる。
「……もしもし」
『凪途、くん……?』
スピーカーから聞こえてきたのは、泣き出しそうな、それでいて心底安心したような由紀の声だった。
『よかった……繋がった。ねえ、今どこにいるの? なんで学校来ないの? 先生も何も教えてくれなくて、みんな心配して……っ』
「ごめん、由紀。俺、今、東京にいるんだ。もう香川の学校には戻らない」
『え……?』
受話器の向こうで、由紀が息を呑む音が聞こえた。
由紀は、いつも僕の隣にいてくれた女の子だった。教科書を忘れたら見せてくれて、僕がアメコミの熱弁を振るえば「よく分からないけど、凪途くんが楽しそうでよかった」と微笑んでくれるような、そんな優しい子。
彼女がクラスで僕にばかり話しかけてくれていたことも、いつも僕の体調を気遣ってくれていたことも、鈍感な僕はただの「仲の良い友達の親切」だとしか思っていなかった。彼女の必死に震える声の裏にある、もっと深くて切ない特別な感情に、今の僕はまだ気づくことさえできない。
『どうして……? 嘘、だよね? 凪途くん、何かあったんでしょ? ニュースで、アメリカの事件のこと見たよ。同姓同名だけど、違うよねって、私……』
「……ごめん」
それ以上は、言葉にならなかった。本当のことを言えば、彼女までこの底なしの暗闇に引きずり込んでしまうような恐怖があった。
『待って、切らないで!』
由紀の声が鋭く響く。
『お願いだから、一人で抱え込まないで。私は、凪途くんがどこに行っても……どんなことになっても、ずっと凪途くんの味方だから。だから、お願いだから生きてて。また、あの映画の話、聞かせてよ……』
受話口から漏れる彼女の嗚咽が、僕の思考をチクチクと刺す。由紀の優しさが、僕を呼び戻そうとする懸命な言葉が、今の僕には眩しすぎて、ただ痛かった。
気づけば三十分もの間、僕は彼女の声をただ聞いていた。僕が「もう行かなきゃ」と告げると、由紀は『また、電話してもいい……?』と、消え入りそうな声で聞いてきた。
「……うん。ありがと、由紀」
嘘をついて電話を切った。二度と、この番号からかけることはないだろうと思いながら。
◇
通話を終えてスマートフォンをベッドに放り出した時、部屋のドアが音を立てて開いた。
立っていたのは、高級なルームウェアを纏った叔父の健二だった。
「凪途、ちょっといいか」
叔父は、香川の実家に迎えにきてくれた当初は、驚くほど優しかった。
「大変だったな」「これからは俺が父親代わりだ」「何でも頼ってくれ」そう言って、僕の震える肩を何度も抱きしめてくれたのだ。その時の僕は、身内にこんなに温かい人がいてくれたのかと、涙が出るほど救われた気持ちになっていた。この高級タワマンに連れてこられたときも、医者として成功している叔父が、僕を不自由させないための配慮で迎えてくれたのだと信じ込んでいた。
けれど、保険金の手続きが具体化し、外交官の佐藤さんが日本を離れてからの叔父の態度は、目に見えて変わっていった。
優しかった引き締まった笑顔は消え、今やその目は、僕の背後にある「1億4000万」という数字だけを値判するように、ぎらぎらと濁っている。医師としての十分な収入があるはずなのに、この豪華な部屋さえも、手に入る大金をアテにしてさらに膨れ上がった彼の虚栄心を満たすための空間のように思えてならなかった。
「一週間後から、近くの公立中学校に通う手続きをしておいた。制服は前のやつでいいだろ、どうせすぐ着られなくなる」
事務的で、冷え切った声だった。人の命を救う仕事をしている男の口から出たとは思えないほど、冷徹な響きだった。
「……分かりました」
「お前の飯は、一応冷蔵庫に入れてあるから勝手に食え。あと、あまりリビングをバタバタうろつくくな。俺の仕事の邪魔だ」
叔父はそれだけ言うと、僕の返事も待たずにパシャリとドアを閉めた。
再び訪れる、静寂と冷たい空気。
最初の優しさは、僕を安心させて大金を囲い込むための罠だったのだろうか。人間の生々しい悪意の冷たさが、じわじわとこのタワマンの一室に侵食してくる。
窓の向こうに広がる東京のきらびやかな夜景の中で、僕はただ一人、また暗闇の底へと沈んでいく。
深い闇に落ちるように眠っていた僕は、窓から差し込む強烈な朝の光で目を覚ました。
遮光カーテンの隙間から覗く空は、香川で見ていたものと同じ青色のはずなのに、高層階から見下ろす東京の街並みのせいか、どこか人工的で冷たく感じられた。
部屋の外に出ると、静まり返った広いリビングには誰もいなかった。
美容外科医である叔父は、朝早くからクリニックへ出勤したのだろう。生活感のない大理石のカウンターキッチンに、ぽつんと一枚の白い紙と、見慣れた最高額の紙幣が何枚か置かれているのが目に入った。
近寄ってみると、そこには叔父の雑な字で殴り書きされたメモがあった。
『しばらく帰らない。これで勝手に飯でも食っておけ』
メモの横に置かれていたのは、一万円札が三枚。合計三万円。
「……多すぎるだろ」
中学二年生の僕に、数日間の食費として渡すにはあまりにも高額だった。香川にいた頃の僕なら、この大金に目を輝かせて「何のアメコミを買おうか」と狂喜乱舞していたかもしれない。けれど、今の僕には、この三枚の紙幣が叔父の「これで俺に構うな」という面倒臭がりな拒絶のサインにしか見えなかった。お金で自分の義務を肩代わりされたような、生々しい冷たさが胸に突き刺さる。
冷蔵庫を開けてみるが、中には叔父が飲む用のミネラルウォーターと、賞味期限の怪しいサラダがいくつか入っているだけだった。
この冷え切ったタワマンの一室に一人で閉じこもっていると、またあのニューヨークの夜の記憶が、渚の消えたベンチの光景が、頭をもたげて僕を押しつぶしそうになる。
「……外に、出よう」
どうせなら、この息が詰まる部屋を抜け出して、気分転換に都会の街を散歩してみよう。そう思い立った僕は、三万円をポケットにねじ込み、お気に入りのパーカーを羽織って家を出た。
エレベーターで一階に降り、エントランスを抜けると、東京のむっとするような夏の空気が僕を包み込んだ。
見上げるほどの高層ビル、ひっきりなしに行き交う車、そして、すれ違う無数の見知らぬ人々。誰も僕を知らない。僕がどこの誰で、どんな地獄を背負ってきたのかなんて、この街の誰も興味すらないのだ。
当てもなく電車に揺られ、僕が辿り着いたのは新宿だった。
人の波に流されるようにして、スマートフォンのマップで「美味い」とレビューの高かった、路地裏の小さな定食屋に滑り込む。
「お待たせしました、唐揚げ定食です」
目の前に置かれたお盆を見て、僕は少しだけ目を見張った。メニュー表で確認したその値段は、香川の地元の定食屋ならゆうに二回は満腹になれるくらいの「都会価格」だったからだ。東京は飯を食うだけでもこんなに金がかかるのかと、叔父に渡された三万円の重みを少しだけ実感する。
けれど、お皿に盛られた唐揚げは、そんな驚きを吹き飛ばすほどに美味しそうだった。黄金色の衣が、揚げたての熱を帯びて微かにパチパチと音を立てている。
箸で大きめの一つを掴み、口へと運ぶ。
サクッ、と小気味良い音が脳頭に響いた。
驚いたことに、味付けは思いのほかあっさりとしていた。ニンニクや生姜の強烈なパンチで誤魔化すのではなく、鶏肉本来の旨味を引き立てる上品な出汁の味がする。それなのに、噛み締めるたびに肉厚な身から溢れ出てくる肉汁は、驚くほどジューシーだった。
温かい白米を口に放り込む。噛むたびに、張り詰めていた頭の芯が、じわじわと解きほぐされていくのが分かった。アメリカでの狂気的な日々、叔父の冷徹な目、それらすべてから、この一瞬だけは切り離されているような気がした。飯が美味いと思えることに、ほんの少しだけ心が安らぐのを感じた。
◇
お腹を満たした僕は、腹ごなしを兼ねて再び歩き始めた。
いつの間にか足を踏み入れていたのは、テレビのニュースでしか見たことのない街――歌舞伎町だった。
昼間だというのに、この街が放つ空気はどこか異常だった。
頭上を埋め尽くす極彩色の看板、大音量で流れるホストクラブの宣伝カーの重低音、アスファルトに染み付いた独特の生ゴミと煙草の匂い。すれ違うのは、昼間から酒の抜けない顔をした大人や、あからさまに堅気ではない雰囲気を纏った男たち。街全体が、どす黒い熱量を持って脈打っているようで、中学二年生の僕には息が詰まるほどの圧迫感があった。
早く大通りに戻ろう。そう思った時、視界の端で不穏な動きがあった。
「ねえ、ちょっと話聞いてってよ。すぐ終わるからさ」
「……いえ、急いでいるので」
ビルの隙間、薄暗い路地口で、数人のガラの悪い男たち(野郎ども)が、一人の少女を囲んでいた。
少女の服装は、僕と同い年――中学生くらいに見える。怯えたように肩をすくめ、手にしたスクールバッグを強く抱きしめていた。
「いいじゃん、お茶くらいさ。可愛いんだから、もっといいバイト紹介できるよ? お金欲しくない?」
男の一人が、馴れ馴れしく少女の肩に手を回そうとする。執拗なキャッチか、あるいはニュースで見かける悪質な詐欺グループ、最悪の場合は本当の犯罪組織の類かもしれない。少女の顔は、完全に恐怖で強張っていた。
助けなきゃ。そう思うのに、僕の足はすくんで動かなかった。
何より異常だったのは、周囲の光景だ。派手な格好をした大人たちが、何事もなかったかのように、その横を冷淡な目で通り過ぎていく。誰も関わろうとしない。この街では、これが日常茶飯事だと言わんばかりの無関心。香川の田舎ではあり得ない都会の冷酷さに、僕は圧倒されていた。
僕みたいな子供が割り込んだって、返り討ちに合うだけだ。
アメリカで何もできなかった、無力な僕に何ができるっていうんだ。
言い訳をして、逃げるように少女の横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。
(――助けて)
ノイズに塗れた歌舞伎町の喧騒を突き抜けて、その震える声が、僕の鼓膜に直接届いた気がした。
声にならない、小さな、けれど必死の悲鳴。
その瞬間、脳裏にフラッシュバックしたのは、あのニューヨークの病院のベンチだった。
『お兄ちゃん……大丈夫だよね……?』
そう言って僕の手を握っていたのに、僕が目を離したせいで消えてしまった、渚の姿。
「また、見殺しにするのか……?」
自分への激しい嫌悪感が引き金になり、気がついたときには、僕の足は男たちのいる路地裏へと、狂ったように走り出していた。




