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君の周りに『幸』という文字はない  作者: 新詳カサト


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第1話 これまでのこと・これからのこと

どうして、こうなってしまったんだろう。




真っ黒な思考の海に深く沈み込みながら、僕は手すりにかじりついていた。


たったの二ヶ月前までは、お母さんがいて、父さんがいて、生意気な妹がいて。どこにでもある、いや、どこよりも幸せな家庭で暮らしていたはずなのに。




ゴオオ、と重い駆動音を響かせて進むフェリーの上、僕はたった一人で冷たい潮風を浴びている。


海辺に反射してゆらゆらと揺れる東京の夜景は、息をのむほど綺麗だ。けれど、今の僕の目には、まるで世界の終わりを告げる不穏な光の群れのようにしか見えなかった。




そう。僕――花瀬はなせ 凪途なぎとは、先月の旅行先で、両親を亡くした。




思い出すのは、あまりにも眩しかった三ヶ月前の家族集会だ。


あの日、妹のなぎさとお母さんは、仕事に出かけた父さんが帰ってくる前に、三人で今年の旅行先を決めようとリビングで大騒ぎしていた。




「去年はイギリスにいったから〜、フランスとかがいい!」


ダイニングチェアの上で、小学三年生の渚が元気いっぱいに声を張り上げる。




「またヨーロッパっていうのもねえ……」


ソファでお茶を飲みながら、お母さんが苦笑交じりに釘を刺した。




「じゃあ! じゃあ! うーんと、えーと……」


渚は小さな頭をぎゅっと捻って考えて、それから、弾けたように叫んだ。


「アメリカ!!」




「アメリカか。確かになぎは行ったことなかったね」


アメリカ合衆国。僕がそこに訪れたのは三歳の時で、渚はまだ生まれてもいなかった。僕自身の記憶といえば、エンパイアステートビルの中盤くらいまで登ったような微かな景色があるだけで、昔すぎてよく覚えていないのが本音だ。




「アメリカねえ……。行ってない観光地なんてあったかしら」


外交官として長く働いているお母さんにとって、数ある国の中でもアメリカは何度も仕事で行き回った場所だ。プライベートの旅行先としては、少々気が引けるようだった。




「凪途は、行きたい国はある?」


お母さんが、ふっと優しい目を僕に向けた。




「そうだなあ……」


僕は少し考えてから、胸の奥のワクワクを言葉にする。


正直、幼い頃の記憶なんてほとんどない。だからこそ、新鮮な気持ちで観光できるのは魅力的だった。それに、アメコミ映画好きの僕としては、現地で「聖地巡礼」ができるのはたまらない。ここ数年でコツコツ身に付けた英語を試してみたいという、ちょっとしたプライドもあった。去年のイギリス旅行では、現地の人に発音をからかわれて悔しい思いをしたから、今度こそは、という気持ちもある。




「俺も、アメリカに行きたいかな」




「ほら! お兄ちゃんもアメリカ行きたいって!」


渚が鬼の首を取ったように勝ち誇る。




「……ふふ、じゃあ、今年はアメリカにしましょうか」


母はわざとらしくため息をついてみせたけれど、その瞳はどこまでも暖かかった。




その日の夜、仕事から帰ってきた父さんに渚が「アメリカ! アメリッカ!」と寝る直前まで狂ったように はしゃぎ倒した。それから出発までの間、僕と渚は机を並べて、三日間をフルに使って「完璧な旅行計画」をノートに書き殴ったんだ。




アメリカ旅行にいくまえの「やりたいこと」メモ


お兄ちゃんのミッション:アメコミ聖地巡礼


フラットアイアン・ビルを写真に撮る!


トビー・マグワイア版の『スパイダーマン』でピーターが写真を持ち込んでた新聞社デイリー・ビューグル。マジで実物を見たら感動すると思う。




「ミッドタウン・コミックス」で買い物


マンハッタンで一番でかいコミックショップ。日本で買えない原書リーフとかフィギュアを絶対に手に入る。小遣い全部つぎ込む覚悟。




セントラル・パークの「ベセスダ噴水」へ行く


『アベンジャーズ』の1作目のラストで、ソーがロキを連れてアスガルドに帰るあの噴水。同じ場所で写真撮る。




グランド・セントラル駅とクライスラー・ビルを見る


チタウリの軍勢とアベンジャーズが戦ってた駅。あと、スパイダーマンがよく座ってるクライスラー・ビルの尖った屋根を、下から拝む。




高いビルの上から街を見下ろす


ロックフェラーセンターの展望台トップ・オブ・ザ・ロックがいいらしい。ヒーローになった気分を味わう。




妹(小3)のミッション:ニューヨークの自然を見つける!


本物の「野生のリス」をみつける!


お母さんが「ニューヨークの公園にはリスがたくさんいるよ」って教えてくれた。見つけたら絶対に写真を撮る。目標は10匹!




リトル・アイランドをたんけんする


写真でみたら、海の上にチューリップみたいな形の植木鉢がいっぱい並んでる公園だった。中がどうなってるのか歩いてみたい。




『ナイト ミュージアム』にいく


DVDでみた、夜になると展示がうごきだす博物館(アメリカ自然史博物館)。世界で一番おっきい恐竜のほねがあるらしいから、となりに並んで写真をとる!




船にのって自由の女神をみにいく


大きなフェリーにのって、海の上をおさんぽする。風が気持ちよさそう!




セントラル・パークでおやつを食べる


すっごく広い公園らしいから、芝生の上でアメリカのドーナツとかハンバーガーを食べたいな。




【ふたりの約束】


飛行機の中では騒がない(お兄ちゃんは映画を見る、なぎは塗り絵と読書)。




時差ボケに負けないで、朝はちゃんと起きる。




移動中は迷子にならないように、ちゃんとお互いを見る(特に妹がリスに夢中になってる時!)。




出発前までに『アベンジャーズ』と『ナイト ミュージアム』をもう一回一緒に観る!




あのノートに書いた約束は、今も僕のリュックの底に眠っている。




それから約二週間後。


待ちに待った、アメリカへ旅立つ当日がやってきた。


成田空港のロビーで、自分の体にこれから降りかかる「絶望の重さ」なんて1ミリも知らずに、僕はパスポートを握りしめて笑っていたんだ。




十四時間の長いフライトを経て、僕たちを乗せた飛行機はジョン・F・ケネディ国際空港に降り立った。


 機内での約束通り、渚は静かに塗り絵と読書に励み、僕はアメコミ映画を三本ぶっ続けで観た。入国審査をお母さんの流暢な英語であっさりとパスし、黄色いタクシー(イエローキャブ)に乗り込んでマンハッタンへ向かう。窓の外に見えてきた摩天楼のシルエットに、僕と渚は声を殺して興奮を分かち合った。




ホテルに荷物を預け、僕たちはすぐに街へ繰り出した。




「お兄ちゃん、見て! 本当にビルが斜めになってる!」


 渚が指差したのは、23丁目にある『フラットアイアン・ビル』だ。三角形の鋭角な外観は、まさに映画で観たあの新聞社のビルそのものだった。


「すごいな……ピーター・パーカーがここにいたんだ」


 実物を目の当たりにした感動で、胸が震える。僕は持ってきたスマートフォンで、何枚も何枚もその姿を写真に収めた。




そこからの観光は、まるで夢のような時間の連続だった。


 マンハッタン最大のコミックショップ『ミッドタウン・コミックス』では、壁一面に並ぶ原書リーフの独特な紙の匂いに包まれながら、お小遣いの大半を叩いて日本未発売のフィギュアを手に入れた。店員さんに拙い英語で「Great choice!」と言われた時は、イギリスでの雪辱を果たせたような気がして、鼻が高かった。




「あ! お兄ちゃん、リス! 本当にいた!」


 セントラル・パークに足を踏み入れた瞬間、渚が声を弾ませた。青々とした芝生の上を、小さな灰色の野生のリスがちょこちょこと駆け回っている。


「一、二、三……あっちにもいる! お兄ちゃん写真撮って!」




 渚は約束通り、リスを追いかけて迷子にならないよう、僕の服の裾をぎゅっと握りしめながらデジタルカメラのシャッターを切っていた。




結局、公園を出るまでに十二匹ものリスを見つけ、渚は大満足の様子だった。




映画のラストシーンそのままの『ベセスダ噴水』の前で、アベンジャーズのポーズを真似て二人で写真を撮った。




 近くの屋台ハラルフードのカートで買った大きなドーナツとハンバーガーを芝生の上で頬張る。アメリカの味はどれも大雑把で、だけど驚くほど美味しかった。




次の日は、渚のメインミッションである『アメリカ自然史博物館』へ。


 映画『ナイト ミュージアム』で観た、あの巨大なティラノサウルスの全身骨格が目の前にそびえ立っていた。


「夜になったら、本当に動き出しそうだね」


 渚は恐竜の真横に並び、小さな体を精一杯に伸ばしてガオレンジャーのようなポーズを取る。その姿を、父さんとお母さんが後ろから愛おしそうに見守っていた。外交官としての固い表情をすっかり崩したお母さんは、ただの優しい母親の顔をしていた。




海の上に浮かぶチューリップのような奇妙な公園『リトル・アイランド』の起伏に富んだ遊歩道を歩き、夕方にはフェリーに乗って自由の女神を拝みに行った。




 海風が僕たちの髪を激しく揺らす。オレンジ色に染まる自由の女神を見上げながら、渚は「大きな船、楽しいね!」と僕の手を握りしめて笑っていた。




旅の締めくくりは、ロックフェラーセンターの展望台『トップ・オブ・ザ・ロック』だった。




 エレベーターで一気に昇った先には、遮るもののないニューヨークの全景が広がっていた。ライトアップされたクライスラー・ビルの尖った屋根が、まるできらめく宝石のように夜空を刺している。グランド・セントラル駅へと続く街の灯りは、まるで光の川のようだった。


「まるで、自分がヒーローになって街を守ってるみたいだろ」




 僕がそう言うと、渚は「お兄ちゃんはかっこいいヒーローだね!」と屈託のない笑顔を返してくれた。


 父さんが僕の肩を叩き、「凪途、英語、よく頑張って話していたな。偉いぞ」と褒めてくれた。お母さんも、僕の頭を優しく撫でてくれた。




これ以上の幸せなんて、この世にない。


 世界の中心で、僕は確かに、人生で一番輝かしい瞬間にいた。




――それが、すべての終わりへのカウントダウンだとも知らずに。







ホテルに戻ったのは、夜の九時を回った頃だった。


 贅沢な広さのツインルームが二部屋。僕と渚の部屋、そして両親の部屋に分かれていた。


「楽しかったね、お兄ちゃん。なぎ、もう眠いかも……」


 一日中歩き回って体力の限界を迎えた渚は、ベッドに潜り込むと三分もしないうちに寝息を立て始めた。




僕は、今日買ったフィギュアをベッドサイドに並べ、明日の計画をノートに書き込もうとしていた。その時――。




ドサッ、という、重いものが床に落ちるような音が隣の部屋から聞こえた。




続いて、何かが割れるような鋭い音が静かな廊下に響く。


「……父さん? お母さん?」


 嫌な予感がして、僕はベッドから立ち上がった。心臓が妙に速く脈打ち始める。




繋がっている隣の部屋のドアを、そっと押し開けた。




「――っ!?」


 視界に飛び込んできた光景に、僕の思考は完全に停止した。




絨毯の上、ベッドの脇に、父さんが仰向けに倒れていた。その手からこぼれ落ちたらしいガラスのコップが、粉々に砕け散っている。


 そしてベッドの上では、お母さんが胸をかきむしるような姿勢のまま、苦しげに顔を歪めて突っ伏していた。




「父さん! お母さん! 嘘だろ、おい!?」


 駆け寄り、父さんの肩を激しく揺さぶる。




 冷たい。さっきまで僕の肩を叩いてくれた、あの温かい手の温もりはどこにもなかった。




 お母さんの身体を抱き起こそうとするが、彼女の瞳は虚空を見つめたまま、ピクリとも動かない。二人の胸は、呼吸をしている気配が全くなかった。




「嫌だ……嫌だ、嘘だろ!? 誰か! 誰か来てくれ!!」




僕は狂ったように叫びながら、ホテルの内線電話に飛びついた。フロントに繋がった瞬間、涙とパニックで声が震える。


「Help! Please help! My parents... they are not breathing!! Room 1402! Hurry!!」


 必死で覚えた英語が、喉の奥から血を吐き出すように飛び出した。去年のイギリスでバカにされた発音なんてどうでもいい。ただ、助けてくれ。誰でもいいから、二人を助けてくれ。




数分後、部屋のドアが激しく叩かれ、現地の救急隊員パラメディックたちがなだれ込んできた。


 ストレッチャーに乗せられ、心臓マッサージを受けながら、両親の身体がエレベーターへと運ばれていく。




「お兄ちゃん……? どうしたの……?」


 騒ぎで目を覚ました渚が、不安そうに部屋の入り口に立っていた。その小さな身体は、恐怖でガタガタと震えていた。




「渚……大丈夫だ、大丈夫だから」


 何が大丈夫なのか、僕自身にも全く分からなかった。


 僕は渚の手をちぎれるほど強く握りしめ、赤と青のサイレンが不気味に夜の街を照らす救急車へと、転がるように乗り込んだ。




ニューヨークの眩い夜景が、一瞬にして、底なしの暗闇へと塗り潰されていくのを感じていた。




救急車の中が永遠に感じられた。


ようやく病院に着いたと思ったら両親はすぐにタンカーで運ばれていく。


僕と渚は縋るような思いで病院に入った。




病院の廊下は、驚くほど冷え切っていた。




「手術中(Operating)」と書かれた赤く不気味なランプが、静まり返った白い空間をぼんやりと照らしている。僕と渚は、待合室の硬いプラスチック製のベンチに並んで腰掛けていた。




何時間、こうしているだろう。


日本にいるときは、夜の十時を過ぎたら渚はもう眠くてぐずり始めていたはずだ。今の渚は、僕の服の袖をちぎれんばかりの力で握りしめ、ただ怯えた目で手術室の扉を見つめている。




「お兄ちゃん……父さんとお母さん、大丈夫だよね……?」




カチ、カチ、と廊下の時計が刻む音だけが、僕たちの不安を煽るように響く。


「大丈夫だよ。アメリカの病院はすごいんだから」




言葉とは裏腹に、僕の指先は氷のように冷たくなっていた。自分を奮い立たせるための嘘は、喉の奥に苦く張り付く。やがて、極限の緊張と時差ボケによる眠気に耐えかねたのか、渚の頭が僕の肩にトントンと預けられた。




小さな寝息が聞こえ始める。




その規則正しい呼吸の温もりだけが、今の僕がこの世界に繋ぎ止められている唯一の境界線だった。




――その瞬間は、不意に訪れた。




バチ、と音がした気がした。


見上げると、あれほど僕たちを焦がし続けていた「手術中」の赤い光が、静かに消えていた。


途端に、心臓が爆発しそうなほど激しく脈打ち始める。眠っていた渚をそっとベンチに横たえ、僕は吸い寄せられるように扉の前へと歩み寄った。




重い扉が開き、数人の医師たちが姿を現す。


誰も、何も言わなかった。ただ、その並んだ瞳のすべてが、僕を射すくめるように、ひどく、ひどく哀れみの色を帯びていた。




駆け寄った僕の耳に、医師の低い声が届く。


「I'm so sorry... We did everything we could...」


その後に続く言葉は、僕の知らない難しい医学用語の羅列だった。あるいは、僕の脳が現実を拒絶して、すべての音を雑音へと変換していたのかもしれない。




――亡くなった。二人とも。




理解した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。胃の底からせり上がってくる強烈な吐き気に、僕は口元を抑えてよろめく。


案内された冷たい解剖室のような部屋で、白い布をかけられた二つの影と対面した。


布をめくった先にある父さんとお母さんの顔は、さっきまでトップ・オブ・ザ・ロックで僕を見て微笑んでいたあの顔なのに、まるで作られた蝋人形のように生気がなかった。




「嫌だ……嫌だ、嫌だ!! 父さん! お母さん! 目を開けてよ!!」




僕は二人の遺体にすがりつき、喉がちぎれるほど叫んだ。


どうして? さっきまで、あんなに幸せだったのに。僕がアメリカに行きたいなんて言わなければ。僕が英語を話したいなんて我が儘を言わなければ、二人は死なさずに済んだんじゃないのか。


自分の内側から溢れ出る、どす黒い後悔と悲しみが涙となって、両親の冷たい頬を濡らしていく。泣いて、叫んで、胸をかきむしる。世界からすべての音が消え、ただ自分の絶望の鳴き声だけが部屋に木霊していた。




気づくと、窓の外が白んでいくのが見えた。


一晩中、泣き続けていたんだ。涙は枯れ果て、目は腫れ上がり、頭は割れるように痛い。僕は力なく立ち上がり、ふらふらと待合室のベンチへと戻った。




「……渚?」




そこに、いるはずの妹の姿はなかった。


ベンチには、渚が使っていた小さなデジタルカメラだけがポツンと残されている。




「なぎ! どこにいるの!? 渚!!」




心臓が、冷たい手で一気に握りつぶされたような衝撃が走る。


僕は腫れ上がった目をこすりながら、病院の広い廊下を狂ったように駆け出した。英語がどうとか、周りの目がどうとか、そんなものは一瞬で消し飛んだ。




「Nagisa!! Where are you!?」




声を枯らして叫びながら、ナースステーションに飛び込む。拙い英語と身振り手振りで、妹がいなくなったことを看護師に訴えた。しかし、彼女たちは困惑した顔で首を振るばかりだった。


「誰も見ていない」「そんな小さな女の子は通っていない」




すぐに病院のセキュリティが動いてくれた。けれど、数十分後に戻ってきた彼らの表情は一様に暗かった。


防犯カメラの映像をすべて確認したが、渚が病院の外へ出る姿も、不審な人物に連れ去られる姿も、どこにも写っていなかったというのだ。




嘘だろ。そんなわけがない。一人の人間が、この厳重な病院の中から煙のように消えるなんて、あるはずがない。


すべてを失った。父さんも、お母さんも、そして、僕が守ると約束したはずの、たった一人の妹まで。


僕の周りから、大切なものが信じられないスピードで、ごっそりと毟り取られていく。




「全部、僕のせいだ……。僕が、渚を一人にしたから……」




誰もいない廊下の隅で、僕は頭を抱えて蹲った。深い悲しみと、自分自身への狂おしいほどの後悔が、底なしの沼のように僕を沈めていく。息の吸い方も忘れてしまうほどの、圧倒的な孤独。




その時、僕の小さく震える肩に、ぽんと温かい手が置かれた。




ビクッと身体を強張らせて見上げると、そこには厳しい表情をした、現地の警察官の男性が立っていた。バッジを提示しながら、彼は驚くほど流暢な日本語で語りかけてきた。




「花瀬凪途くんですね。……お気の毒ですが、君の両親の死には、非常に不可解な点があります。突発的な病気ではなく、何者かによって毒、あるいは特殊な薬物を盛られた可能性が極めて高い。我々は殺人事件として捜査を開始します」




毒。殺人。またしても頭が処理しきれない言葉が降ってくる。


けれど、今の僕にとって、両親の死の真相よりも、何よりも叫びたいことがあった。僕は警察官の衣服にすがりつき、ボロボロと新たな涙を流しながら叫んだ。




「妹が……! 妹の渚が、いなくなっちゃったんです!! 僕が目を離した隙に、どこにもいなくて……! お願いです、渚を、渚を探してください!!」




子供のように泣きじゃくる僕の手を、警察官は戸惑うことなく、力強く握り返してくれた。彼の目は真剣そのものだった。




「わかった。大丈夫だ、凪途くん。ニューヨーク市警(NYPD)のプライドに懸けて、妹さんは絶対に我々が見つける。君を一人にはさせない。だから、僕を信じて、少しだけ心を落ち着かせるんだ」




その温かい言葉に、僕はただ何度も、何度も頷くことしかできなかった。


しかし、この時の僕はまだ知らなかった。


警察の「絶対に見つける」という頼もしい誓いさえも、僕を包み込むこの巨大な「不幸の渦」の前では、あまりにも無力で、残酷な希望に過ぎないということを。




警察署の取調室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 それからの三日間、僕は何度も同じ質問に答え続けた。その日に食べたもの、両親の様子、ホテルの部屋に入った時の状況。日本語が話せる捜査官は親切だったけれど、何度も繰り返される質問は、僕の削られた心をさらに摩耗させていく。




三日目の夕方、もたらされた遺体解剖の結果は、あまりにも残酷で不可解なものだった。


「……原因不明の、突発的な心臓麻痺。それが現段階での結論だ」


 あれほど毒や薬物の可能性を疑っていた警察のトーンは、完全に失速していた。胃の内容物からも、部屋の血液からも、不審な成分は一切検出されなかったという。なぜ健康だった二人が同時に心臓を止めたのか。現代医学の粋を集めても「原因不明」という四文字で片付けられてしまう。その事実が、僕の足元を暗い奈落へと変えていった。




それから一週間、僕は生殺しの状態でニューヨークに滞在した。


「絶対に探す」と誓ってくれた警察の言葉を信じて待ち続けた。けれど、進展の連絡は一度もない。タイムズスクエアの巨大な電光掲示板を見上げながら、この数百万人の群衆の中に渚が紛れているかもしれない、いや、もうこの街にはいないのかもしれないと、果てしない絶望が胸を締め付ける。結局、警察は渚の髪の毛一本すら見つけることはできなかった。




アメリカでの、事務的で冷徹な手続きを肩代わりしてくれたのは、お母さんの同僚の外交官である佐藤さんだった。たまたま仕事でワシントンD.C.に赴任していた彼は、事件を知るやいなやニューヨークへ駆けつけ、言葉も出ない僕に代わって、遺体を日本へ搬送するための複雑な国際手続きをすべて処理してくれた。




「凪途くん。辛いだろうが、これから先のことを少し話させてほしい」




日本へ向かう帰国の飛行機の中。ファーストクラスの広い座席は、信じられないほど静かだった。エンジンの低い重低音だけが響く機内で、佐藤さんは僕の目を見つめながら、静かに、しかし明確に現実を語り始めた。




「君の両親は、外交官としての手厚い海外赴任保険と、民間の生命保険に加入していた。諸々の手続きが済めば、凪途くん、君の手元には約1億4000万円の保険金が入ることになる。これは君が大人になるまで、厳重に管理されるお金だ」




1億4000万。中学二年生の僕には、それがどれほどの巨金なのか、記号のようで現実味が全く湧かなかった。そんな大金、いらない。お金で父さんとお母さんの命が、渚の笑顔が買えるならいくらでも払うのに。




「渚ちゃんの捜査は、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて、アメリカ側と連携して今後も継続される。それから、日本に着いたらすぐに、遺産管理のための弁護士を手配する。そして……君のこれからの生活についてだが」




佐藤さんは一瞬、言いにくそうに視線を落とした。


「君の叔父にあたる、花瀬健二はなせ けんじさんに君を引き取ってもらうことで話がついた。健二さんは東京に家がある。君は香川の実家を離れ、東京の学校へ転校することになる」




花瀬健二。父さんの弟だ。数年に一度、正月に顔を合わせる程度の、どこか胡散臭い雰囲気を纏った叔父の顔が脳裏をよぎる。なぜ香川ではなく東京なのか。これから僕はどうなってしまうのか。窓の外に広がる、何も見えない真っ黒な夜空の雲海が、僕のこれからの未来そのもののように思えて、僕はただ小さく拳を握りしめることしかできなかった。







日本に到着した僕は、佐藤さんに付き添われて香川の実家へと戻った。


 つい十日前まで、家族四人で暮らしていた我が家。ドアを開けた瞬間、まだそこにお母さんの香水の匂いや、渚の脱ぎ散らかした靴があるような錯覚に襲われる。




「ただいま……」




返ってくる声はない。シーンと静まり返った一軒家は、驚くほど広くて、そして寒かった。




 僕は一人、自分の部屋とリビングを行き来しながら、東京へ持っていく荷造りを始めた。服を詰め、お気に入りのアメコミのDVDを入れ、そして――あの机の上に置かれたままだった「アメリカ旅行のやりたいことメモ」を手に取る。




めくると、渚の拙い字で『目標は10匹!』『お兄ちゃんはかっこいいヒーローだね!』と書かれた文字が目に飛び込んできた。




「う、あ……、ぁ……」




声にならない嗚咽が喉から漏れ、僕はその場に崩れ落ちた。


 段ボールに囲まれた無機質な空間の中、襲いかかってくるのは殺意のような孤独感だ。つい何日か前まで、この部屋には確かに笑い声があった。僕がアメリカに行こうなんて言わなければ、今もここで、みんなでくだらないテレビを見て笑っていたはずなんだ。




自分への狂おしいほどの手向けと後悔が、涙となってノートのページを濡らしていく。誰もいない家で、僕は自分が世界で一番の犯罪者になったような罪悪感に押しつぶされていた。







荷造りを終えた僕は、香川の港から、叔父の待つ東京へと向かう長距離フェリーに乗り込んだ。飛行機ではなく船を選んだのは、少しでも現実から逃げる時間を引き延ばしたかったからかもしれない。




――そして、場面はフェリーに移る。




ゴオオ、と重い駆動音を響かせて進むフェリーの上、僕はたった一人で冷たい潮風を浴びていた。


 東京湾に入り、前方に現れた首都の景色は、息をのむほど美しかった。お台場の観覧車、そびえ立つ高層ビル群、レインボーブリッジの無数の光が、まるで海一面に宝石を撒き散らしたようにきらめいている。




美しい。あまりにも美しくて、涙が出そうになる。


 けれど、この眩い光の海を見つめながら、僕の心は反比例するように凍りついていた。あのニューヨークの夜景と同じだ。世界はこんなにも光で溢れているのに、どうして僕の周りだけ、大切なものが何もかも消えてしまうんだろう。




1億4000万という、両親の命と引き換えに手に入った重すぎる遺産。


 アメリカのどこかで、今も泣いているかもしれない妹。


 そして、これから始まる、見知らぬ叔父との東京での生活。




「どうして、こうなってしまったんだろう……」




潮風にさらわれながら呟いた僕の言葉は、東京の華やかな夜景の中に、虚しく吸い込まれて消えていった。




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