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海の精霊は飛び跳ねるように形を崩し、また作り、を繰り返してレイフィス達を先導する。その様は、小さな湧き水がひょこひょこと吹き出しているようだった。穏やかで美しい孤島の風景に、それはとても不思議な程、合っていた。
『王子、こっち。姫が泣いている』
精霊は時折こうやって話しかけては、レイフィスをせっついて進む。レイフィスはもう、王子ではないと訂正するのを止めた。
『あそこ』
そう言って、精霊は崩れて消えた。精霊が進んでいた先に目を凝らす。すると、細い木の陰に、ふわりと何かが動いたような気がした。
「俺が先に行きます!」
「なっ、待った!君は学習能力がないのか!」
一歩踏み出したフィフィの腕を、咄嗟にアシュリーが掴んで止めた。ラナス国で叱ったばかりなのに聞いていなかったようだ。顔を見れば、驚いている。
(全く…!)
苛立ちを込めて睨む。
「俺が先に行く。君は魔術の心得がないんだから、先走らないように!」
「あ……そういや前に怒られましたね。」
えへ、と言いそうな程不真面目にフィフィが笑うと、アシュリーの口元が引きつった。それを見たレイフィスが可笑しそうにアシュリーの肩を叩く。
「アシュリー殿も苦労するな。」
「全くです。」
(フィフィがいるだけで不安が増える…)
げんなりするアシュリーに笑ってごまかし、フィフィはアシュリーの横から前へは出ないようにと胸に刻んだ。
「いた…!」
アシュリーの声に視線を木の陰に戻すと、幹を背に俯いている、美しい女性が見えた。三人とも思わず速度を緩め、静かに、ゆっくりと女性に歩み寄って行った。
その女性の足下で、水が沸き上がった。
『あら…精霊ね?』
女性は海の精霊を見ても驚きもせず、儚げに微笑んで首を傾げた。さすがはこの亡国の姫だ。精霊とは常日頃から近い関係にあったのだろう。
『姫。姫。泣かないで』
女性—姫は驚き、そして、泣きそうな笑顔で精霊の前にしゃがみこんだ。薄く重ねられたドレスの裾がふわりと舞い、地面に落ちる。精霊は、姫のドレスを濡らしてしまわないように、少しだけ距離を取った。
『泣いていないわ。心配してくれているのね。…ありがとう。』
姫は濡れるのも構わず、そっと華奢な指先で、精霊の輪郭を撫でた。精霊は一瞬身を退いたものの、姫の指が触れると、されるがままだった。
精霊を慈しむ姫の姿はとても優しい。
『姫。王子が来てくれた。王子が助けてくれる』
『え?』
驚いて瞬きする姫の側に、レイフィスがゆっくりと歩み寄った。はっとして見上げた姫の瞳には、切ない程の期待が込められている。それが、レイフィスと目が合った瞬間、泣きそうに顔が歪んだ。
「……お初にお目にかかります。エイシャントの姫君。私は現フェルウェイル王国国王、レイフィスと申します。」
悲しみに目を伏せた姫の指先を掬い、安心させるように、ゆったりと微笑んだ。
(幽霊なのに…触れてる…)
驚くフィフィの前へ出て、アシュリーも名乗る。
「エイシャントの姫君。私はクライスト帝国大魔術師、アシュリー=ウィルレイユと申します。これは助手のフィアニス。この度は、この国と母君、ひいては世界を救う為に参りました。」
淡々と言うアシュリーにちょっと驚く。
(アシュリー様…こんな美人見てもなんとも思わないんだ?)
場違いにもそんな事を思って感心してしまう。
『世界を…?』
驚いて見上げた拍子に、姫の目から一筋、涙が零れ落ちた。海の精霊がそっとそれを受け止める。
「今、この国に蘇った花が大陸へ渡り、かなりの勢いで増えています。その花は触れれば魔力を吸い上げ、魔物を創り出し、ある帝国に強大な力を与えようとしています。」
『この…花達が…?』
姫の側へ膝をつき、アシュリーは深く叩頭した。
「姫君。どうかお力添え頂きたい。この国によそ者が入り込んでいる筈です。そして女王陛下を惑わせている筈。何か、お心当たりはございませんか?」
姫は惑う事なくアシュリーの目を見て話しを聞き、一つ、深呼吸をして、潤んだ目元をそっと拭った。
『心当たりは、あります。』
「!」
三人は思わず顔を見合わせる。姫は海の精霊を労るようにそっと一撫ですると、ゆっくりと立ち上がろうとする。それを察してレイフィスが手を差し伸べると、一瞬躊躇ったものの、レイフィスの手を借りて立ち上がった。姫は、レイフィスが焦がれたあの王子ではないと、分かっているのだ。
『その男が母を誑かしたのは間違いありません。』
その目に強い闘志を宿らせ、姫は城を見つめた。
『母は…夢に囚われてしまった。私の姿も声も届かない…』
「女王に貴女の姿が見えない?」
アシュリーが首を傾げると、姫はそっと頷いた。
『元々この花や植物達も、母の夢によって生まれたものなのです。母が想い描くものが、こうして現実にあるのです。』
「……貴女は、女王の想いで具現化したのではない、と?」
レイフィスがそう訊ねると、姫は静かに頷き、再び城を見やった。
『私は…母が亡くなった後、その側で息絶えました。私の未練が、こうして私を生んだのです。』
だから、母とは相容れぬ存在になってしまった。
「それでは、女王が思い描いた姫君もおられる、という事ですか?」
『いいえ。それはありません。私は私で、こうして骸から生まれました。』
姫は一つ息を吐くと、僅かに表情を緩めてドレスの裾を翻した。
『どうぞこちらへ。母は玉座におります。』
決意に満ちたその目に促され、三人は古城の中へと足を踏み入れた。
古城は、遥か昔に滅んだとは思えない程に優美で、朽ちたところがどこにもなかった。ところどころ木漏れ日が注ぎ込み、城内を柔らかく彩る。
「綺麗ですね…」
思わずフィフィが呟くと、アシュリーがちらりと城を見上げて言った。
「女王の思い出の中の城は、常にこうだったんだろう。」
「それを細部まで具現化し、保っているのだから…やはり女神の影響が大きいのだろうな。」
「あ…そうか。」
(この綺麗さは魔力によるもので…ほんとはぼろぼろなのかもな…)
納得したフィフィを見てレイフィスが笑うが、アシュリーは溜息を吐いた。
「君は…本当に」
「すいませんねぇ学習能力がなくて。でもアシュリー様くらいは護れますよ?」
「!」
嫌味のつもりで言ったフィフィだったが、アシュリーとレイフィスがぴたりと立ち止まった。
『まあ、フィアニス様は頼もしいのですね。助手…というよりは騎士のよう。』
「そうですか?まあ護衛も兼ねてるので似たようなもんかも知れないですね…ってどうしたんですか?二人とも。」
姫とフィフィが気付いて立ち止まる。
「いや…頼もしいのだと思ってな。」
真面目くさって言うレイフィスの横で、アシュリーは未知の生物に遭遇したかのような目をフィフィに向けていた。
(また…あたしは未確認生物じゃないっての。)
そんなアシュリーに苦笑いして、フィフィは姫に向き直った。
「ま、まあいいから、行きましょうか。」
『ええ、そうですね。』
姫は特に不思議に思わなかったらしく、頷いて再び先を歩き出した。急いでいるので歩調は早いものの、その足取りは優雅で上品だ。
(さすがお姫様…)
思わず見蕩れてしまう程だった。
(……!)
ふと、気配を感じてフィフィが視線を走らせると、同じくレイフィスも感じたらしく、鋭い視線がぶつかった。
「「!」」
無言で頷き合って、フィフィはアシュリーの、レイフィスは姫の横へ移動する。
「?…どうしたの?」
『どうなさいましたか?』
訊ねられて、にやりとフィフィが笑った。
「どうも、向こうから来てくれたみたいですよ?アシュリー様。」
「!」
レイフィスが通路の奥を睨みつける。
「まずはお前に用がある。大人しく出てくるのだな。」
『まさか…』
急に姫の表情が強ばる。そんな姫を庇うようにレイフィスは一歩前へ踏み出した。その視線の先から、真っ白なマントを羽織った男が、光の陰から姿を現した。
(あいつが…元凶か。)
フィフィもアシュリーの一歩前へ立つ。そのフィフィの姿を見つめてから、アシュリーはゆっくりと目を伏せた。男の顔はフードに隠れていて分からないが、口元が緩く弧を描いていた。
「ようこそ、アシュリー様。レイフィス陛下。そして…」
男は姫に目を留めると、どこか夢見心地な笑みを向けた。
「レイシア王女。貴女にお目にかかれて光栄です。」
ゆったりと頭を下げる男を睨みつけ、姫はきっぱりと言い放つ。
『我が母を惑わし、この国を利用した罪は重いぞ。』
「罪…ですか?」
穏やかに微笑みながら、男は恐れるようすもなくこちらへと歩み寄ってきた。
「母君の夢を…望みを叶えるのが、貴女にとって“罪”なのですか?本来ならば貴女がお力になって差し上げるべきでは?」
『……!』
咄嗟の事に言葉に詰まる姫。レイフィスはそれを見ると、闘気を孕んだ目を男へ向けた。
「つまらぬ御託を言って惑わせるのがお前のやり方か。」
「おや…レイシア王女が母君の夢を否定なさっているのは事実でしょうに。」
くすり、と男は儚げに笑う。彼自身が幽霊なのではないかと思う程に、不気味で違和感のある存在だ。
「お前はここで何を?すでに植物は魔力を吸い上げ、魔物を創り出す事に成功している。まだ何かしようというのか?」
アシュリーが睨みつけると、男はああ、と途端に意欲のない声を出した。
「それでは、ハークヴェルは十分に力を得たわけだな。」
「……どうだっていいって感じだな。」
フィフィが口を挟むと、男はまた、くすりと笑う。
「そうだ。どうだっていい。ハークヴェルが勝とうが滅びようが、大した事ではない。」
「何?」
男の発言に、四人はただただ目を見開くばかりだ。そんな四人を見て、男は、幸せそうに笑った。
「アーヴィ女王が創り上げたこの国があれば、それでいい。」
(……そ…れは…)
男の思考に気付き、フィフィは戸惑い、姫を見た。姫は、呆然と呟いた。
『まさか……母を…?』
「さあ、レイシア王女。母上がお探しですよ。お戻り頂かなくては…ね。」
『!?』
小首を傾げて笑う男は、するりとフードを落とした。その下から現れた顔に、皆一様に息を呑む。その目は、血の様に赤い。それは人ではなく魔物が持つ色だ。元は金髪だったであろう髪は、色素を失って、より瞳の赤を際立たせた。
「貴様…一体…!」
アシュリーが唇を噛み締める。その表情を見てフィフィは、あの男がしてはいけない事をしたのだと悟った。レイフィスも忌々しいものを見るように、顔をしかめている。
「愛する人の為、自らを作り替えたまで。…さあ、王女。戻りましょう。待っておられますよ。」
その言葉に、アシュリーは一瞬目を見開き、次には何か耐えるように頭を抱え、歯を食いしばる。
(作り替えた…?魔物みたいに?)
フィフィにはその意味がよく分からなかった。あの目は魔物の証だが、男は理性を失ってはいないし、今も落ち着いて話している。常軌を逸してはいるが、人である部分は大きいと思う。
(どうなってんだ?こいつ…)
難しい顔で首を傾げるフィフィを見て、男が優しく微笑んだ。
(っ!)
途端にぞわりと背筋が寒くなる。
「王女。戻らないのですか?」
『わたくしは…』
「お前を排するのが先だな。」
言った途端、レイフィスは男へ斬り掛かっていった。
「陛下!」
緊迫したアシュリーの声を聞いた途端、フィフィはレイフィスが辿り着く前に、男に向けて矢を放った。
「!」
男の目がぎらりと煌めいたかと思うと、矢は空を切った。
(速い!)
レイフィスの剣も空を切り、その姿を探す。フィフィは後ろから男の気配を探る。と、目の前の姫とフィフィの間へ、男が姿を現した。
「姫っ!」
『!?』
とっさに男へ短剣を振り下ろす。が。
「!?」
一瞬で目の前から消え去った為、その切っ先が姫へと向かう。
(くそっ!)
短剣を引っ込めて姫に触れようとした、その時——。
「渡さないよ。」
「っ!」
男が、姫の後ろで微笑み、フィフィの額へと手を伸ばしてくる。
(っ…!やばい)
フィフィにはこの男の正体が分からない。が、触れられるだけでも命が危ないのだとは分かった。
「——っ!」
男の指先が前髪をかすめる。
「っ!?」
その瞬間、フィフィの身体は後方へ引っ張られて倒れ込んだ。切れた髪がぱらぱらと舞う。
「いっ…」
倒れた床から悲鳴が聞こえた。おそらくアシュリーが引っ張ったのだろう。多分、避けられずにフィフィの下敷きになったのだ。
「姫!」
男が、恐怖で動けない姫を抱きかかえようとする。その二人の隙間へ、レイフィスが剣を滑り込ませた。そのまま首を掻き斬ろうとする剣を、男が素手で掴む。その手の平から血が流れ落ちない事が、極めて不自然だ。
「……」
男が動きを止めた。ぎりぎりと力比べをする。姫が安堵してレイフィスを見た。男の赤い目が細められる。
「…なるほど。フェルウェイルの血は、今でもこの国の王族を惑わすのですね…」
「人聞きの悪い。」
男が、レイフィスの利き手を掴み、壁へ放り投げた。
「っ——がっ!」
「レイフィス様!」
煉瓦造りの壁がひび割れ、レイフィスが崩れ落ちる。ぐったりと倒れて、気を失っているようだった。男はそれを見ると満足そうに笑った。
「作り替えた甲斐があったというものだ。」
『さ…触らないで!』
姫が叫ぶが、男はそんな声など聞こえていない様子で姫を抱え上げた。一歩踏み出そうとするフィフィと視線がぶつかる。
「っ!」
禍々しい目に捕らえられ、腹の奥がぎゅっとすくみ上がった。
「…邪魔をしないでもらおうか。アーヴィ女王は幸せに暮らしたいだけだ。」
「何を…!」
アシュリーの顔色が悪い。それでも、男を睨みつける目には強い光があった。
「なら!大陸に渡った花を消せ!」
気圧されてたまるかと、フィフィが声を張り上げる。男は、くすくすと笑った。
「今、あれを消してしまうと祖国から裏切られたと思われ、ここへ刺客を送り込んでくるだろう。そうなると面倒だ。だから、今は消せない。」
「ふざけんなてめぇ!たくさん人が死んで、苦しめられてるんだぞ!」
どく、とアシュリーの感情が揺れる。
「そうだろうな。それが?」
男は可笑しそうに笑った。
「エイシャントには関係のない事だ。この国は、平穏なのだから。」
『何が平穏なのですか!滅んだ国が、不自然に蘇っているところの、どこが!』
姫は悲しさと怒りで涙していた。それを見たアシュリーが、はっと目を見張り、静かに瞼を閉じた。
「……義に反するな…」
(え?)
アシュリーのものにしては、いやに静かで威圧的な声音だ。思わず眼前の敵からアシュリーへと目を移すと、やけに凛とした姿がそこにあった。
(えっ……?)
戸惑うフィフィとは対照的に、男は冷静に様子の変わったアシュリーを見ていた。
「なるほど…クライストは光と闇を有していると聞いていたが…単なる噂ではなく、真実だったらしい。」
「光と…闇?」
闇、というのはニルの事だろう。
(という事は…アシュリー様は、光の精霊に好かれてるって事か?)
くつくつと男が笑う。
「光は義を、清浄な心を好むと聞く。」
はっと目を移すと、姫がぐったりと男に抱えられていた。
「姫!しっかりして下さい!」
「無駄だよ。アーヴィ女王は姫を求めている。じきに姫は女王のものになる。」
「てめえ…何する気だ!」
いきり立つフィフィを楽しそうに眺め、男はアシュリーへ声をかけた。
「苦しそうですね、アシュリー様?」
「!?」
振り返ると、じっとりと汗ばむ姿があった。男を見据えてはいるものの、先程の雰囲気とは違い、アシュリーらしい雰囲気だ。
「大丈夫ですか?」
どこかほっとして声をかけたが、様子がおかしい。
「………」
アシュリーはじっと男を見据えるだけで、立っているのがやっとのように見える。
(アシュリー様?)
「歪んでいると思うのなら、正してみますか?私は女王の為に、この国を彼女の思うままにする。」
「っ!」
その言葉を聞いた途端、アシュリーは苦しそうに呻いて崩れ落ちた。
「アシュリー様!」
膝間づいてアシュリーを覗き込むフィフィの後ろから、男の愉快そうな笑い声が響く。
「そんな事で私たちを邪魔しようとは、愚かですね、アシュリー様。」
「てめえ!」
「精霊を解放してさしあげては?そうすれば、海の女神が相手をしてくれるでしょうね。女神はこの島を護るため、光の精霊は常軌を逸したこの国を消し去るため、お互いを打ち消し合い、邪魔者はいなくなる。」
「…どういう…」
「では、ご無事で。」
「待て!」
一歩踏み出そうとしたフィフィの腕をアシュリーが掴んだ。かなり必死なのか、アシュリーとは思えない程きつく掴まれる。驚いている間に、男は姫を伴って消えてしまった。
(くそ!どうすれば…)
崩れ落ちたまま動かないレイフィスも気になるが、今はアシュリーの方が心配だった。
「アシュリー様!アシュリー様!」
呼びかけるフィフィの声をかすかに聞きながら、アシュリーは朦朧とする意識を必死で引き止めていた。