第9話 「ぬかるみの理屈屋と、空っぽの精霊」
【地下・廃棄区画】
鼻孔を突き刺すのは、世界中の汚濁を煮詰めたような腐臭だった。
生ゴミ、鉄錆、カビ、そして生物が腐敗した甘ったるい死の匂い。
ここは世界の掃き溜め。
光の届かない、奈落の底。
「……っ、ぐ、ぅ……!」
俺は脂汗を流しながら、ヘドロにまみれた岩壁に背を預けていた。
右腕が、熱い。
骨が折れているだけじゃない。折れた骨の断面が内側の肉を突き破り、神経を直接ヤスリで削っているような激痛が走っている。
呼吸をするたびに、肺がヒューヒューと鳴る。
「……随分と、手慣れているのね」
手首にはまった腕輪から、鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声が響いた。
俺は痛みに霞む視界で、その白金の輝きを見た。
「応急処置のことよ。……普通の人間なら、その痛みだけでショック死しているわ」
「悪いな……。生憎、貧乏性でね」
俺は歯を食いしばり、足元に落ちていた錆びた鉄パイプを拾い上げた。
それを添え木にして、着ていたシャツを裂いた布で右腕を固定する。
ギリリ、と締め上げるたびに、目の前に白い星が飛んだ。
「タダで死ぬのはもったいないんだよ。……俺の命は、俺だけのものじゃないんでね」
俺の強がりに対し、腕輪の主はふっと鼻で笑った気配を見せた。
「綺麗なセリフ。……ここへ落ちてきた人間は、みんなそう言ったわ」
腕輪の輝きが、どこか遠くを見るように揺らぐ。
「『家族がいる』『恋人が待っている』『国を救わなきゃいけない』……。みんな、希望という名の麻薬に縋って、地上を見上げていた。でも最後は?」
彼女の声には、嘲笑よりも深い、重たい鉛のような「諦観」が混じっていた。
「泥水を啜って、指の爪を剥がして、最後は私の名前を呪いながら死んでいった。……貴方も同じよ。人間」
「……名前」
「え?」
「あんたの名前だ。……呪うにしても、名前が分からなきゃ呪えないだろ」
俺は包帯の結び目を口で咥えて引っ張りながら、腕輪に問いかけた。
一瞬の沈黙。
彼女は呆れたように、そして少しだけ不愉快そうに答えた。
「……ルミナス」
「ルミナス?」
「『夜明けの光』という意味よ。……皮肉でしょう? こんな暗闇の中で、千年も朽ちていた私には」
ルミナス。
その名前を聞いた瞬間、俺の脳内にある『一般常識』のデータベースが微かに反応した。
古い伝承にある名前だ。かつて神代の時代、世界を照らしたとされる始原の精霊。
まさかな、そんなお伽話級の存在が、こんなゴミ捨て場に埋もれているわけないな
「そうか。……いい名前だ」
「……は?」
「暗くて何も見えないよりは、マシだろ。頼りにしてるぜ、ルミナス」
俺はふらつく足で立ち上がった。
左手には錆びた鉄パイプ。右手にはルミナス。
装備はそれだけ。
レベル1。スキルなし。右腕骨折。
客観的に見れば、詰んでいる。
「……本気なの? そこで寝ていれば、苦しまずに死ねるのに」
「断る。……あいつらが、まだ戦ってる」
俺は天井を見上げた。
遥か頭上の暗闇。そこから、微かだが確実に振動が伝わってきていた。
ズズズ……ズゥゥン……!!
ただの地鳴りじゃない。
俺の『一般常識』が、その音の正体を分析する。
硬質な岩盤が砕ける音。爆発音。そして、剣戟の金属音。
カイルたちが戦っている。それも、かなりの苦戦を強いられている音だ。
「聞こえるか、ルミナス。……まだ終わっちゃいない」
「……それが何? 貴方を捨てた仲間でしょう?」
「捨てられたんじゃない。……俺が、弱かったから落ちただけだ」
俺は鉄パイプを杖にして、一歩を踏み出した。
ヘドロが靴底に絡みつく。
「それに、あいつらはバカだからな。俺がいないと、ポーションの飲むタイミングすら間違えるかもしれない」
「……呆れた。貴方、正気?」
「正気だよ。だから計算するんだ」
俺はゴミ山の奥、巨大な黒い壁面を指差した。
そこには、人間一人がやっと通れそうな、巨大な排気ダクトの蓋が見えていた。
常識4:『人工建造物には、必ずメンテナンス用の通路が存在する』
「ルミナス。お前、この遺跡の構造を知ってるか?」
「……千年いただけよ」
「なら教えてくれ。あの配管は、どこへ繋がってる?」
ルミナスは値踏みするように、光を明滅させた。
この人間がいつ絶望するか、それを観察するような冷徹な光。
だが、俺が視線を逸らさないでいると、彼女は観念したようにため息をついた。
「……この裏を通って、中層試練の間へ戻るための廃棄熱伝導管よ」
「やっぱりな。ビンゴだ」
「喜ぶのは早いわ。……無理よ、人間」
ルミナスが冷たく断言する。
「あの中は、遺跡全体から排出される『高濃度の魔素』が充満してるわ。加工されていない、原初の猛毒。……今の私じゃ、貴方を守る結界なんて張れない」
「魔素の、毒か」
「ええ。普通の人間なら、吸い込んだ瞬間に血管が沸騰して、内側から破裂して死ぬわ。……即死よ」
彼女の声には、かつて「始源精霊」として君臨した者の、己の無力さへの苛立ちが滲んでいた。
守りたいわけじゃない。ただ、自分の力が足りないせいで、目の前の人間が死ぬのが癪なだけだ。
だが、それを聞いた俺は、逆に口の端を吊り上げた。
「なんだ。……『魔素』か」
「は? 魔力中毒の恐ろしさを知らないの?」
「知ってるさ。……でも、俺には関係ない」
俺は迷わず、ダクトの前に立った。
鉄パイプを隙間にねじ込み、錆びついた蓋を無理やりこじ開ける。
プシューーーーーッ!!
猛烈な勢いで、紫色の蒸気が噴き出した。
周囲の岩が、蒸気に触れた端からジュワジュワと音を立てて溶けていく。
致死性のガス。生物絶対殺害領域。
「ッ! バカ! 下がりなさい!」
ルミナスが叫んだ。
だが、俺はその警告を無視して、紫色の霧の中へ足を踏み入れた。
「……っ、ぐ、ぅぅぅ……ッ!!」
肌がピリピリと焼けるように痛む。
吸い込んだ空気が、喉を焦がす。
熱い。痛い。苦しい。
――だが、それだけだ。
血管は破裂しない。体は弾け飛ばない。
ただ、熱湯の中を歩いているような不快感があるだけ。
「……な、んで……?」
ルミナスの驚愕の声が、ダクト内に反響する。
「なんで平気なの!? これほどの濃度なのに! 貴方、人間じゃないの!?」
「……はは、残念ながら人間だよ。一番弱い、な」
俺は蒸気を手で払いながら、ダクトの梯子に手をかけた。
「俺の体は『ザル』なんだ。レベルが上がらないのも、そのせいだきっと」
「ザル……?」
「どんなに高密度の魔素を取り込んでも、俺の体には留まらない。……ただ素通りしていくだけだ」
俺の体は、エネルギーを蓄積できない欠陥品だ、たぶん。
だから魔法も使えないし、強化もできない。
だが、その「呪い」が、今この瞬間だけは、最強の防護服になるはず。
毒が体に留まらないなら、中毒になりようがない。
「痛いのは……我慢すればいいだけの話だ」
俺は脂汗を拭い、ニカッと笑ってみせた。
「……狂ってる」
ルミナスが呆然と呟く。
「痛みを感じないわけじゃないのに……ただ理屈だけで、この地獄を進むと言うの?」
「生きるためなら、泥だって啜るし、毒の中だって歩くさ」
「……変な男」
ルミナスの光が、ふわりと強くなった。
それは、今までのような冷たい拒絶の色ではない。
理解不能な「異物」に対する、好奇心の色。
「いいわ。……案内してあげる。このダクトの先、右側の分岐が最短ルートよ」
「助かるぜ、ルミナス」
腕輪が、暗いダクトの先をサーチライトのように照らし出す。
俺たちは闇の中を這い上がった。
頭上で響く轟音が、徐々に大きく、激しくなっていく。
待ってろ、カイル、ルナ、シリウス、リリィ。
今、一番役に立たない(・・・・・・・)俺が、助けに行ってやる。
***
【同時刻・中層 試練の扉前】
地上では、絶望が形を成して暴れていた。
「ガアアアアアアッ!!」
岩の巨人の咆哮が、通路を物理的に振動させる。
身長5メートル。通路の天井に頭が届くほどの巨体。
その全身は、魔法を弾く特殊鉱石「黒鉄」の装甲で覆われている。
「くそっ、重いッ……!!」
カイルは聖剣でゴーレムの拳を受け止めたが、衝撃で足元の石畳が蜘蛛の巣状に砕け散った。
ミシミシと腕の骨が悲鳴を上げる。
剣技でいなすこともできない、圧倒的な質量の暴力。
(……動きが、読めない!)
カイルは歯噛みした。
いつもなら、視界の端でレイが指図をしてくれた。
『右腕が下がるぞ、大振りだ!』
『足元、瓦礫があるから気をつけろ!』
そんな些細な、しかし致命的な情報を、あいつは常に叫んでいた。
だが今は、誰もいない。
目の前の怪物に集中すればするほど、視野が狭くなり、背中がガラ空きになる。
「『炎槍』!」
後方から、ルナの放った炎の槍がゴーレムの顔面に直撃する。
ドォン!! と爆炎が上がる。
だが、煙が晴れると、ゴーレムは無傷だった。
「……ん。硬い。魔法耐性が高すぎる」
「表面がミスリルコーティングされています! 中級魔法じゃ貫通しません!」
シリウスが叫ぶが、彼もまた焦燥に駆られていた。
彼の目には「魔力の流れ」が見えすぎる。だからこそ、ゴーレムの複雑な魔導回路にばかり目が行き、単純な物理的弱点が見えていない。
いつもならレイが「関節の継ぎ目が脆いぞ!」と、凡人ならではの視点で教えてくれたのに。
「リリィ! カイルの援護を!」
「やってます! でも……!」
リリィが支援魔法をかけようとするが、タイミングが合わない。
カイルが回避行動を取った瞬間に魔法が飛んでしまい、空を切る。
彼女が完璧なタイミングで支援できていたのは、レイが「今だ!」と声をかけ、二人の呼吸を合わせていたからだと、失って初めて気づいた。
ドガァッ!!
ゴーレムの裏拳が、カイルを捉えた。
ボールのように吹き飛ばされ、カイルが壁に叩きつけられる。
「が、はっ……!」
「カイル!!」
全員が強い。個々の能力はSランク級だ。
だが、歯車が噛み合わない。
「レイを失ったエンジンは、摩擦熱で焼き付き、自壊寸前だった。
ゴーレムがゆっくりと、倒れたカイル、ルナ、シリウス、リリィへ近づく。
その巨大な足が持ち上がる。
影が、カイルを覆い隠す。
(……動け、ねぇ……)
カイルの視界が霞む。
体が鉛のように重い。
死ぬのか? ここで。
あいつに謝ることもできないまま?
あいつを探しに行くことすらできずに?
「ガアアアアアッ!!」
無慈悲な咆哮と共に、死のプレスが振り下ろされる。
誰もが目を背けそうになった、
その時だった。
カァァァァァァンッ!!
場違いなほどに乾いた、安っぽい金属音が響いた。
ゴーレムの足元に、一本の「錆びた鉄パイプ」が転がってきたのだ。
「……あ?」
カイルが目を見開く。
ゴーレムの動きが、一瞬だけ止まる。
そして、通路の脇にある通気口の格子が、内側から蹴破られた。
「――お前ら、ほんっとに……」
土煙の中から、ボロボロの影が現れる。
泥まみれで、右腕を吊って、鉄パイプを杖にした、世界で一番弱そうな男。
「俺がいないと、何もできねぇんだな!」




