第10話『12月16日:日曜日』
目を覚ました。
薬品か何かの影響なのか、言葉にできない不思議な香りが鼻を刺激する。
両の瞳が捉えた天井は床のリノリウムに比べて幾分かは明るく見える。
右腕にはわずかな圧迫感があり、視界の端に点滴パックがかけられた点滴棒が映りこんでくる。
そう。私は今ちょっとした事情で隣町にある病院に入院していた。
どうしてわざわざ隣町の病院なのかというと、周辺にある病院で一番大きい病院がそこだったからだ。
寝起きという体のステータスが原因なのか、こめかみの辺りが激しく痛む。いや、これは寝起きが原因というより、たぶんだけれど血が足りていないのが原因だった。
点滴が取り付けられていない方の腕である左腕の手首に巻かれた包帯が心底憎らしい。
こいつは私の邪魔をした。
そう思ったところで私は正気に戻った。
私は何をしている?
先程までとは裏腹にそんな疑問が襲ってきた。
自分の矛盾しつつある思考に困惑し、どうして良いのかわからないというように呆然としていると、病室の扉がノックされた。
病室が個室であるため、返事をするべきである人間は私しかいない。
「どうぞ」
そう言葉を与えると扉が開いた。扉を開けたのはおばあちゃんだった。
おばあちゃんは頬に涙のあとがあって、ほんの僅か前までかなり泣いていたであろうということが想像できた。
いくら私が意図的に行った不本意なことであるとはいえ、私は確かに‘自殺’を試みた。だからきっとおばあちゃんにものすごく怒られるのだろうと思った。
私が少しだけ奥歯を食いしばって怒られる心構えをしていると、おばあちゃんはシワシワの手で私の頭を撫でてきた。
「ちょっ…おばあちゃん」
あまりに突然のことで私が困惑していると、おばあちゃんは悲しそうに言った。
「…疲れたかい?」
息が詰まった。自分の腕をナイフで思いっきり切り裂いた時よりも激しい痛みが胸の奥に襲いかかった。
どのような言葉を返すべきなのか、私にはどうしても考えられなかった。
ただ、おばあちゃんに対してものすごく残酷なことをしてしまったのではないかという焦りと後悔が私の中に渦巻いて、それによって出来上がった何かの感情と不本意であるはずの自殺を意図的に行ってしまったという事実が入り混じって恐怖に変わった。
ただ、怖かった。
これまでは死ぬことが怖かった。それは今でも変わらない。
だからこそ死にたくないと悩み続けてどうしてこんな世界に産み落とされたのだろうと何度もなんども考えていた。
なのに私はどうしてなのか、自分の腕の太い血管を自分で切り、普段は使わない浴槽に湯を張って血が滴る腕をそこにつけ込んだ。
それが昨日のことだ。
湯につけた腕の傷口から血が止まることなく流れ出て、張った透明な湯はうすい赤色に染まっていった。
血が流れ出る腕の傷口はもっと心臓みたいにどくどくと脈打つものかと思っていたけれどそんなことはなかった。ただ、流れているという実感などなくひたすら血が流れた。その事実が私の恐怖心を煽った。
恐怖心というものは焦りを生み、人間の思考を正常なものではないものにしてしまう。
私もその感情の変遷に飲み込まれた。
呼吸が次第に浅くなって体の中心部分から熱が失われていく感覚を覚えた。
そして私は気を失い、今日ついさっき目が覚めた。
死にたくないと悩み続けていたくせに理由もなく自殺を試みてしまう。普通に考えて普通ではなかった。
怖い。自殺を試みた自分が怖い。死ぬことが怖い。それらと同じように、生きることが怖い。
きっと、私が自分自身でもわからないほどいつも通りであるにもかかわらず突然こんなことをしてしまったのはそういった怖い怖いが積み重なった結果の脳の誤処理の結果なのだろう。そうでなければ私は自分を納得させることができない。
おばあちゃんが家に帰って病室に取り残された私は、そうやって感情や思考の整理をした。ゆっくりと、間違えないように整理した。
丁寧に丁寧に思考感情の整理をして私は気がついた。不本意な自殺をどうして意図的に行なってしまったのか。あくまでも推測の範囲ではあるものの、その理由に気がついた。
「これ、私じゃない」
あなたなんでしょ?と彼女に問いかける。
けれど、帰ってくるのは沈黙だけで端から見れば私は虚空に向かって話しかける少しおかしな少女に成り果てている。
最近、彼女は私の前に姿を表すことがなくなってきた。それはあの不思議な夢を見た日からの変化であり、あの夢以降の彼女は声だけで私に接触してきた。それも、回を追うごとにどんどんと接触の頻度が減っていった。
その理由はわからないけれど、きっと彼女が言っていた「もう直ぐ私が必要じゃなくなる」と言う言葉が関係する。
もしかしたらあのとき彼女が夢の中で分散するように粒子になって虚空に溶けていった消え方も何か関係があるのかもしれない。
とにかくこれだけは断言できた。
今回の自殺は私の意志ではない。彼女の意志だ。
冷たいナイフの刃が私の肌に触れたあの瞬間、そこに彼女はいなかった。声すらもだ。けれど確かにあの行動は彼女の意志によるものだった。
彼女の放った言葉の一つ一つを今まではあまり理解できなかった。今でもまともに理解できているわけではない。でも、点と点が点のまま放置されている今までとは違って点と点が細くか弱い線で結ばれつつある。
私は踏み出してはいけない領域に踏み出している気がした。
死ぬことに関してではないにしろ、何を考えるにしても考えを突き詰めるに連れてよくない結末に思考が傾いていく。だから考えれば考えるほどに恐怖心が肥大化していく。
私は今、確かに私なのだろうか。
現実を現実だと証明することができないように、私は私が正しく私であることを証明することはできない。なら、現実が虚実であってもおかしくはないように私が私でなくてもおかしくはない。
頭が狂いそうだった。
少なくとも小学4年生が考えることではないし、真面目に考えを続けて頭がまともでいられるわけもない。脳の処理容量をはるかに上回ってしまう。
次第に自分が何を考えていたのかわからなくなってきて、ふわふわとした浮かぶような感覚が頭の中にある脳みそを襲った。
つまりはぼうっとした状態で考えすぎて眠くなってきた。
別に眠気に抗っても良かったのだけれど、早く体調を整えて退院しないと優子や伽耶が心配するし杏にも怒られる。だからさっさと寝てしまって不本意によって崩してしまった体調の回復を望まなければならない。
私はおとなしく瞼を下ろし、闇に身を落とした。
病室は暖房が効いていて気温的には暖かかったけれど、より寒いはずの自宅の自室よりもなぜか寒く感じた。
多分、薄気味悪いリノリウムのせいだ。
それから5日も入院した私は退院の際に担当医から必要としていなかった告知をされた。
両親の死から始まった過度なストレス負荷の結果により、私は精神病の疑いがあるそうだった。
迎える12月24日。クリスマスイブ。
雪は降らなかった。




