第9話『12月14日:金曜日』
ずる休みをした翌日の火曜日のこと、私は河村先生に職員室に来るように言われた。
なんとなく怒られるのだろうと思いつつ職員室に行くと、河村先生以外の先生の姿がなかった。
わざわざ人払いをしてまで私を呼び出したということは、いよいよ他人には見せられないほどの説教が待っているのだろう。そう覚悟しながら先生のデスクまで行くと、先生は隣のデスクから椅子を引っ張ってきて座るように言った。
長話を悟りながら言われた通り座ると、先生はマグカップにカフェオレを注いで私に飲ませてくれた。
市販のコーヒー粉を湯で溶かし、砂糖とミルクを注いだだけのごくごく普通のカフェオレだった。少し砂糖が多かったのか、かなり甘めの味だったことを覚えている。
私が半分ほど飲み進めたのを確認して先生はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ねぇ、佐伯さん。佐伯さんは今、楽しい?」
「…どういうこと?」
「今が幸せかっていうことよ」
「それは……」
「難しい?」
「……はい」
「それはどうして?」
「私は今、確かに自分が幸せだと感じる時があります。けれど、それは私の中での幸せの定義には該当しないのです。幸せだけど幸せではない。だから幸せかという質問は私には難しい質問です」
「…そう」
先生は間をおくように唾を飲み込んだ。
「じゃあ佐伯さんが自分の幸せに気づく日も遠くはないわね」
そう言いながら嬉しそうに笑う先生の顔を見て、私は疑問を持った。
私は確かに自分の幸せに定義を定めている。死にたくないと言う無謀な欲に基づいた確かな幸せの定義を私は持っている。
だからつまり、私は自分の幸せというものにはすでに気付けているのだ。
何が幸せで何が不幸か、それを私は理解している。だから、先生が言った言葉には違和感を感じずにはいられなかった。
この話は何か特別な意味がある。そう思った。
けれどそんなものは私の勘違いでしかなくて、幸せについての会話は私が休んでしまった時にロングホームルームの時間を使って皆がしたものだった。
だから私はその時間の埋め合わせをするために職員室に呼ばれ、話をさせられた。それだけのことだった。
教室に戻るとこれまで一度も話したことがないクラスメイトの女の子が話しかけてきた。
「伊藤さんに風邪うつしたの?」
何の脈絡もない唐突な問いだった。
「え…どうして?」
「いや、伊藤さん今日は休みっぽいからさ、てっきり佐伯さんのお見舞いに行って風邪でももらったのかと思ったの」
きっとこの女の子は私が学校を休んだ理由を風邪か何かと勘違いしていて、私が伽耶に風邪をうつしたから風邪を治すことができた、だから学校に来れたのだと勘違いしているようだった。
全くもって意味のない馬鹿馬鹿しい話だった。
翌朝のホームルームで先生の口から伽耶がインフルエンザにかかったと言われたことで私にかけられた弱々しい疑いはあっさりと晴れたことで馬鹿馬鹿しい話のバカバカしさがより一層際立った。
金曜日。それは1週間で最ももどかしさを感じる日ではないかと思う。
1週間での最後の平日。あと1日を乗り切れば土日の休みがある。けれど、そういう状況に限って時間の進みが遅くて、退屈な授業は退屈さを増す。
目の前にニンジンをぶら下げられた馬の気持ちがほんの少しだけわかる気がする。
まぁとにかく、ただでさえ明るい気持ちにはなれない金曜日、私は職員室に呼び出された。
今週に入って二回目の出来事だった。
職員室に呼び出される理由なんて大体の場合は二通りしかない。
一つが配布物を運ぶなどの雑用をさせること、もう一つが何かしらの問題に対して説教をすることだ。
普段から怒られるようなことをしているつもりではないけれど、私の感覚というものはどこか他人とズレている。だから説教が待っていてもおかしくはない。
だから私は覚悟をして職員室に向かった。
「佐伯さん。留学に興味はない?」
そういえば火曜日に呼び出された時も私の予想を大きく裏切るような話の内容だったなと思った。
ただ、小学4年生の私に留学なんて実感のわかない話が振られるとは思っていなかった。
「留学ですか?」
「そうよ。興味はない?」
「どうしてまた留学なんか…」
先生は苦笑いをしながら私に一枚のプリントを渡してきた。
プリントの最上段には夏休み短期留学制度という見出しが中央揃えで置かれていて、右下には町のシンボルマークのスタンプが押されていた。
「町長さんがね、アメリカの姉妹都市にある中学校と話をして交換留学制度を作るらしいの。交換留学って言っても夏休みに2週間だけ向こうに行って、帰ってきたら次は向こうからの留学生を家に泊めるっていうだけなんだけど」
どうかな?と先生は私に回答を促した。
「どう…と言われても」
正直に言っていいのか迷った。
だって、私は留学なんてものに興味がないし、そんな俗物に憧れる時間がもったいないと思ってしまっていた。
断ってしまいたいというのが私の本心だった。
けれどそれを正直に言ってしまえば私をわざわざ選んだ先生の顔に泥を塗ることにもなる。
なかなかに難しい選択だ。
「いい経験になると思うよ?」
そう言いながら優しく微笑む先生を見ていると、なんだか断ってしまうのは悪いことだと思えてきてしまった。
多分これは私の悪い癖だ。
良心につけこまれやすいというのか、我を押し通せないというのか。
つまりのところ、私は私を持っていない。
ほんの少しだけそんな自分にイラつきを覚えた。
「先生。一つだけ聞いてもいいですか?」
「もちろんいいわよ」
「どうして私なんですか?」
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。先生の顔から笑みが消えた。
けれど、それを私に認識されないようにしようと試みたのか、先生はすぐさま慌てるように笑顔を作った。
偽物の笑顔の作り方は私の方が上手だ。
「先生はね。佐伯さんにいろいろな経験を積んでほしいの。それはきっと佐伯さんの強みになるし、将来きっと役にたつわ」
その言葉で私は決断した。
「そう…ですか」
耳障りのいい先生の言葉で私の中の選択肢は一つを残して全てが消えた。
小さく息を吸って呼吸を整える。
「先生」
「なぁに?」
微笑む先生の顔を見ても胸が痛むことはなかった。罪悪感が沸くことはなかった。
「私、留学にはいきません」
「そんなっ…どうして」
慌てるように聞いてくる先生に私は理由を突きつけようとした。
先生の体裁のために私を利用しないでほしいと本心を言いたかった。
けれど、自分でも理由はわからないけれど私の口から本心が出てきてくれることはなかった。
罪悪感はないはずなのになぜか抵抗があった。
私にはこの不自然な私の意志の理由がわからなかった。
しっかりと理由を突きつけたいと思っている。けれど、なぜか私の口は思うように動いてくれない。
結局、私が言ったのは先生よりも酷い誰にでも言い訳だとわかってしまうような言い訳だった。
「私…持病があるんです」
先生の反応はわかりやすい落胆だった。
私が目の前にいるというのに私という人間に呆れたと言った様子で深いため息をついた。
「ああ。じゃあ仕方ないですね」
その時の言葉の冷たさは私に酷く染み込んだ。
理由のない焦りのような感覚がこみ上げてきて、私は過呼吸になってそのうちに倒れてしまった。
次に目を覚ましたのはその日の昼休み頃のことで、場所は保健室だった。
ベッドの上に寝かせられて掛け布団をかけられているなんて優しい扱いをされた訳ではなく、目を覚ました私は掛け布団の上からベッドに乱雑に放り投げられたような状態だった。
ただ、だからと言って先生が酷い人間だとか、先生が嫌いだとか思うことはなかった。
私はただ、この時の体験で一つの学びを得ていた。
「なるほどね。こうやって圧迫するような言葉で他人を動かせるのね」
頭の奥で彼女の声がした。声だけだ。
彼女はもう私の前には姿を現さない。その理由は私にはわからない。別に知りたくもない。
「言葉を選ぶことも必要だろうけど声の温度も必要だね」
「確かにね。先生の言葉はとても冷たかったものね」
「いい勉強になったわ」
「そうね。とてもいい勉強になった」
「先生は凄いね。多分あれ、無意識でやってるんだよ」
「先生の才能ね。羨ましいわ」
「妬ましいね」
「ええ。だからさ−」
「そうね。だからこそ−」
−私もそれがほしい。
「真似しなきゃなぁ」
自分以外は誰もいない保健室で私は一人でぶつぶつとつぶやいた後、乾いた声色で静かに笑った。
忍び笑いがかすかに響く保健室の消毒液のような匂いが鼻に染み付いた。
保健室にひとりきりだったのは保健室の先生が職員室に出かけていたからです




