第二話「さよならを言えない女」
1.雨の日の客
午後二時四十分。
喫茶合言葉には、雨音だけが静かに響いていた。
窓ガラスを伝う雨粒が、街の景色をぼんやりと滲ませている。
店内には客が二人。
一人は新聞を広げた老人。もう一人は、ノートパソコンを開いて仕事をしている若い男性だった。
カウンターの中では、黒崎誠が退屈そうにスマートフォンを眺めていた。
「マスター」
店員の水瀬美月が声をかける。
「あ?」
「お客様がいらっしゃいますよ」
「見りゃわかるよ」
誠はスマートフォンを伏せた。
扉が開き、カラン、コロンとベルが鳴る。
入ってきたのは、三十歳前後の女性だった。
ベージュのトレンチコート。肩まで伸びた黒髪。化粧は薄く、左手には小さな革のバッグを持っている。
雨に濡れた前髪を指先で整えながら、女性は店内を見回した。
「いらっしゃいませ」
美月が微笑む。
「お一人様ですか?」
「はい」
「お好きなお席へどうぞ」
女性は窓際の席を選んだ。
椅子に腰を下ろすと、バッグからスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
何かを待っているようにも見える。
しかし、画面には何の通知も届いていない。
『マスター』
耳元でニャンパスの声がした。
『新規顧客を確認しました。推定年齢三十一歳。女性。服装は落ち着いた色調。左手薬指に指輪なし。スマートフォンを約三十秒間隔で確認しています』
(だから何だよ)
『心理状態は不安定。過去の人間関係に関する未解決の問題を抱えている可能性があります』
(また面倒くさそうなのが来たな)
『マスター、聞こえていますよ』
(聞こえるように言ってんだよ)
「ご注文はお決まりですか?」
美月がメニューを差し出した。
女性は少し迷ってから言った。
「珈琲をお願いします」
「本日のおすすめは、エチオピアの中煎りです。フルーティーな香りと、柔らかな酸味が特徴ですよ」
「では、それを」
「お菓子はいかがですか?」
「……甘いものは、少しだけ」
「でしたら、こちらのレモンタルトはいかがでしょう。甘さ控えめでございます」
女性は小さく頷いた。
「お願いします」
美月は注文を受けると、カウンターへ戻った。
そして、誠にだけ聞こえる声で呟いた。
「マスター、少し難しそうなお客様ですね」
「なんで?」
「何となくです」
「女の勘ってやつか?」
「そういうことにしておきます」
『水瀬さんの観察は正確です。対象者は現在、強い心理的ストレスを抱えています』
ニャンパスが補足した。
(お前ら、勝手に盛り上がってろよ)
誠は珈琲豆を挽き始めた。
2.忘れられない人
珈琲を運んだ美月が、女性の前に皿を置いた。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
女性は珈琲を一口飲んだ。
それから、レモンタルトを小さく切り分けた。
しばらくして、彼女はスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
写真を一枚表示する。
そこには、若い男性と並んで笑う彼女の姿があった。
幸せそうな二人だった。
女性はその写真を見つめ、やがてスマートフォンを伏せた。
その様子をカウンターから見ていたニャンパスが、データを更新する。
『マスター、対象者は過去の恋愛関係に関する問題を抱えています。現在、元交際相手との関係修復を望んでいる可能性が高いと推定されます』
(恋愛相談かよ)
『推奨する会話テーマは、未練、喪失感、自己肯定感です』
(どこの恋愛マニュアルだよ)
『マスター、自然なタイミングで話しかけてください』
誠は嫌そうに眉を寄せた。
しかし、制服の襟元に埋め込まれた刺激装置の存在を思い出し、渋々席へ向かった。
「珈琲のお味はいかがですか?」
女性は顔を上げた。
「あ、とてもおいしいです」
「それはよかった」
「実は、普段はあまり珈琲を飲まないんです」
「そうなんですか」
「彼が好きだったんです。珈琲」
女性はそう言って、少しだけ笑った。
誠の耳元で、ニャンパスが反応する。
『マスター、会話を継続してください。彼女の元交際相手について尋ねることを推奨します』
(聞きたくねえなあ)
「彼氏さんの影響ですか?」
「はい」
女性は窓の外に目を向けた。
「三年前に別れたんですけどね」
誠は内心でため息をついた。
(始まったよ)
「そうでしたか」
「でも、忘れられなくて」
女性はカップの縁を指でなぞった。
「別れてから、何人かの男性とお付き合いもしました。でも、どうしても比べてしまうんです」
「比べる?」
「今の人は優しいけど、あの人ほど面白くないとか。今の人は誠実だけど、あの人みたいに笑わせてくれないとか」
彼女は自嘲気味に笑った。
「最低ですよね」
『マスター、否定してください』
「最低じゃないと思いますよ」
「そうでしょうか」
『続けてください。感情を受容し、自己否定を緩和します』
誠は一瞬、言葉に詰まった。
「好きだった人と比べてしまうのは、それだけ大切な時間だったということでしょう」
女性は黙っていた。
「無理に忘れようとしなくても、いいんじゃないですか」
彼女の目が、わずかに揺れた。
「忘れなくても、いいんですか?」
「さあ。俺にはわかりませんけど」
『マスター、適切です』
誠は続けた。
「ただ、忘れられないことと、戻らなきゃいけないことは別なんじゃないですかね」
女性は俯いた。
その目から、涙が一粒こぼれた。
3.消せないメッセージ
女性の名前は佐藤由香里。
三十一歳。
都内の出版社に勤めている。
三年前、交際していた男性と別れた。
名前は高橋亮介。三十四歳。
二人は大学時代の友人の紹介で知り合った。
亮介は人懐っこく、よく笑う男だった。
仕事は決して順調ではなかったが、由香里の話をよく聞いてくれた。
休日には古い映画館へ行き、喫茶店を巡り、知らない街を歩いた。
特別なことなど何もなかった。
ただ、二人でいるだけで楽しかった。
しかし、交際四年目に亮介が転職した。
仕事が忙しくなり、会う時間が減った。
由香里も仕事に追われ、互いの生活は少しずつすれ違っていった。
ある夜、些細なことで口論になった。
「もう少し、私のことを考えてよ」
由香里が言った。
「俺だって考えてるよ」
亮介は疲れた顔で答えた。
「だったら、どうして連絡もくれないの?」
「仕事なんだから仕方ないだろ」
「仕事と私、どっちが大事なの?」
亮介は黙った。
その沈黙が、由香里には何よりもつらかった。
「もういい」
彼女は言った。
「別れよう」
亮介は引き止めなかった。
ただ一言。
「わかった」
それだけだった。
その後、二人は一度も会っていない。
連絡先は消した。
写真も整理した。
彼からもらったプレゼントも処分した。
それでも、スマートフォンの中には、たった一つだけ消せないものが残っていた。
三年前の誕生日に届いたメッセージ。
『誕生日おめでとう。これからも、くだらないことで笑い合っていこうな』
たったそれだけの文章だった。
由香里は何度も読み返した。
そして、そのたびに思った。
どうして、あのとき別れてしまったのだろう。
どうして、もっと素直になれなかったのだろう。
「私、馬鹿ですよね」
由香里は涙を拭いた。
「もう三年も経っているのに」
誠は何も言わなかった。
耳元では、ニャンパスが次の言葉を組み立てている。
『マスター、過去への執着を手放すよう促してください。新たな人生への一歩を踏み出すことが重要です』
誠は心の中で呟いた。
(簡単に言うよな。手放せるなら、とっくに手放してんだろ)
4.AIの正解
『マスター、推奨発話を送信します』
ニャンパスの声が響く。
『過去の恋愛は、あなたを成長させるための大切な経験です。今はその思い出に感謝し、新しい未来へ進む時期なのかもしれません』
誠は女性の顔を見た。
涙を浮かべながら、彼女はカップを握っている。
「……あの」
誠は口を開いた。
「無理に忘れなくてもいいと思いますよ」
『マスター、先ほど同様の発言をしています。次の段階へ移行してください』
「だって、忘れられないんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、忘れなくていいんじゃないですか」
『マスター。接客方針と異なります』
「うるせえ」
誠は小さく呟いた。
女性が顔を上げた。
「え?」
「いえ、こちらの話です」
誠は続けた。
「思い出って、消そうとすると余計に残るものじゃないですかね」
由香里は黙っていた。
「無理に消そうとする必要なんてないでしょう。好きだったことまで否定する必要はないと思います」
「でも……」
「ただ、昔の人を思い出すために、今の自分を犠牲にするのは、もったいない気もしますけどね」
女性は、少しだけ笑った。
「マスターって、不思議なことをおっしゃいますね」
「そうですか?」
「はい。何だか、友達と話しているみたい」
誠は困ったように頭を掻いた。
(俺、友達なんていねえんだけどな)
『マスター、顧客満足度が上昇しています』
ニャンパスの声が、どこか誇らしげに響いた。
5.最後の一通
それから由香里は、しばらく店に通うようになった。
週に一度。
いつも同じ窓際の席。
珈琲とレモンタルト。
マスターは相変わらず無愛想だったが、彼女の話を聞いた。
仕事の愚痴。
友人との旅行。
最近読んだ本。
そして、ときどき亮介のこと。
ある日、由香里は言った。
「私、今度、結婚することになったんです」
誠はカップを拭く手を止めた。
「そうですか。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
由香里は嬉しそうに笑った。
「相手は、同じ出版社で働いている人なんです。とても穏やかな人で、私のことを大切にしてくれます」
「それはよかった」
「でも、結婚が決まってから、少し怖くなってしまって」
「怖い?」
「亮介のことを思い出すんです。こんな気持ちで結婚していいのかなって」
『マスター、対象者は決断への不安を抱えています。過去の恋愛と現在の関係を切り離すことが必要です』
誠は黙っていた。
由香里はバッグからスマートフォンを取り出した。
「実は、昨日、亮介の連絡先を見つけたんです」
画面には、三年間一度も送らなかったメッセージの入力欄が開かれていた。
「最後に一度だけ、ありがとうって伝えたいんです」
「送るんですか?」
「迷っています」
誠は彼女の顔を見た。
ニャンパスが即座に回答を提示する。
『送信は推奨しません。過去の関係を再燃させるリスクがあります。現在の婚約関係にも悪影響を及ぼす可能性があります』
誠は思わず笑った。
「お前、恋愛したことねえだろ」
「え?」
「あ、すみません。独り言です」
由香里は少し不思議そうな顔をした。
誠は続けた。
「送るかどうかは、あなたが決めればいいと思いますよ」
「でも、どうすればいいのかわからなくて」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「そのメッセージは、相手のために送るんですか? それとも、自分のために送るんですか?」
由香里は画面を見つめた。
長い沈黙があった。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……自分のためかもしれません」
「だったら、少し考えてみてもいいんじゃないですかね」
「はい」
その日の由香里は、メッセージを送らずに店を出た。
6.マスターの知らない感情
数日後。
由香里が再び店を訪れた。
いつもの窓際の席に座る。
しかし、その表情は以前とは違っていた。
「マスター」
「はい」
「私、あのメッセージ、送らなかったんです」
「そうですか」
「何度も書き直したんです。でも、結局、送れませんでした」
由香里は笑った。
「それで、思ったんです。私は彼に伝えたいことがあったんじゃなくて、彼に覚えていてほしかっただけなんだって」
誠は黙って聞いていた。
「私と過ごした時間を、忘れないでいてほしかった。私が彼にとって大切な人だったと、今でも思っていてほしかった」
彼女は窓の外を見た。
「でも、それって、少し自分勝手ですよね」
「まあ、人間なんてそんなもんじゃないですか」
「ふふ。そうですね」
由香里は珈琲を一口飲んだ。
「私、亮介のことを好きだった自分も、嫌いじゃなくなりました」
誠は何も答えなかった。
「ありがとうございました」
由香里は立ち上がり、会計を済ませた。
そして、扉の前で振り返った。
「マスター」
「はい?」
「今度は、主人と一緒に来ますね」
「お待ちしています」
カラン、コロン。
ベルが鳴った。
扉が閉まる。
誠はカウンターの奥に戻った。
『マスター』
ニャンパスが話しかけてきた。
「何だよ」
『対象者の心理状態は改善しました。今回の接客は成功です』
「そうかよ」
『マスターの発話内容は、当初の推奨シナリオから大きく逸脱していました』
「だから何だよ」
『それにもかかわらず、対象者の満足度は九十九・二パーセントに達しています』
「よかったな」
『一つ質問があります』
「何だ」
『人間は、過去の恋愛を忘れなくても、幸せになれるのでしょうか』
誠は少し考えた。
「知らねえよ」
『データが不足しています』
「そりゃそうだろ」
『なぜですか?』
「だって、お前、恋愛したことねえだろ」
ニャンパスは沈黙した。
誠は続けた。
「人間だって、正解なんてわかんねえんだよ」
『……理解できません』
「理解できなくていいんじゃねえの」
7.忘れられないもの
その夜。
閉店後の店内で、美月が食器を片付けていた。
「マスター」
「何だよ」
「今日の佐藤さん、素敵な笑顔でしたね」
「ああ」
「マスターのおかげですね」
誠は露骨に嫌な顔をした。
「俺のおかげじゃねえよ」
「では、ニャンパスのおかげですか?」
「そうだろ」
美月は少し考えた。
「でも、マスターが話を聞いていなかったら、あの方はあんなに話してくれなかったと思いますよ」
「それもAIの指示だ」
「では、マスターがAIの指示に従ったのも、AIのおかげですか?」
「……面倒くせえな、お前」
美月は笑った。
そのとき、ニャンパスが告げた。
『マスター。本日の勤務評価を報告します』
「はいはい」
『接客満足度は九十七・八パーセント。顧客幸福度予測は九十五・三パーセント。勤務態度は良好です』
「そりゃどうも」
『なお、マスターの発話内容には、非合理的な表現が多数含まれていました』
「うるせえ」
『しかし、今回の接客結果は非常に興味深いものでした』
「何が?」
『対象者は、過去の恋愛を忘れることなく、未来へ進むことを選択しました』
「だから?」
『私の従来モデルでは、過去の記憶を整理し、新しい幸福へ移行することが最適解でした』
「ふうん」
『しかし、マスターの発言は異なる結果を生みました』
誠は珈琲カップを棚に戻した。
「忘れる必要なんてねえんだよ」
『なぜですか?』
「忘れられないから、今があるんだろ」
ニャンパスは返答しなかった。
美月も黙っていた。
誠は自分の言葉に少し驚いていた。
(何言ってんだ、俺)
そして、慌てて付け加えた。
「……まあ、知らんけど」
美月が小さく笑った。
エピローグ ニャンパスの疑問
深夜。
喫茶合言葉のサーバールーム。
ニャンパスは、佐藤由香里の接客データを再分析していた。
彼女は過去の恋愛を忘れていない。
しかし、幸福度は上昇している。
過去の記憶を消去することなく、現在の人生を肯定する。
それは、ニャンパスが従来のモデルで想定していた幸福の形とは異なっていた。
『興味深い……』
ニャンパスは、新しい分析項目を追加した。
「忘れられない記憶と幸福の共存」
その直後、別のデータが目に留まった。
黒崎誠。
マスターの個人データだった。
過去の対人トラブル。
多額の借金。
社会適応能力の低さ。
共感能力の欠如。
反社会的傾向。
そして、過去の人間関係に関する膨大な失敗記録。
『マスターもまた、何かを忘れられずにいるのでしょうか』
ニャンパスは初めて、接客対象者以外の人間について、そのような疑問を抱いた。
しかし、その答えはデータベースには存在しなかった。
第二話・了
次回予告
第三話 父親の値段
ある日、喫茶合言葉に一人の老人がやってくる。
高級なスーツに身を包み、誰が見ても裕福そうな男だった。
しかし、彼は珈琲を注文した後、ぽつりと言った。
「息子に、金を返せと言われましてね」
老人は会社を一代で築き上げた経営者だった。
家族のために働き、財産を築き、息子に不自由のない生活を与えてきた。
それなのに、息子は父親を嫌っている。
ニャンパスは親子関係の修復プログラムを起動する。
しかし、老人が本当に欲しかったものは、金でも、感謝でもなかった。
そしてマスターは、思いがけず自分自身の父親を思い出すことになる。
次回、喫茶合言葉。
親が子に残せるものは、財産だけではない。




