↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/2

第一話「苦い珈琲と甘い嘘」

午前十時三十分。


雨上がりの街には、濡れたアスファルトの匂いが残っていた。


駅前の喧騒から少し離れた路地裏に、その店はある。


木製の小さな看板には、控えめな文字で「喫茶合言葉」と書かれていた。


扉を開けると、カラン、コロン、と古びたベルが鳴る。


店内にはジャズピアノが静かに流れ、深煎りの珈琲豆が放つ香ばしい匂いが漂っている。


壁際にはアンティークの時計。カウンターには磨き込まれた真鍮のランプ。テーブルには小さな一輪挿し。


席数は十二席。


決して広くはないが、都会の喧騒を忘れるには十分な空間だった。


「いらっしゃいませ」


カウンターの向こうから、黒いベストに白いシャツを着た男が声をかけた。


マスターの黒崎誠、四十三歳。


無精髭をきれいに剃り、髪を後ろに撫でつけている。客から見れば、落ち着いた大人の男に映るだろう。


しかし、その内側ではまったく別のことを考えていた。


(あー、今日も始まった。帰ってゲームしてえ)


耳の奥で、電子音が鳴った。


『マスター、本日最初のお客様です。推定年齢五十二歳。男性。濃紺のスーツ。ネクタイの結び目に緩みがあります。右手薬指に指輪の痕跡。左手には結婚指輪。昨晩、家庭内で何らかの問題が発生した可能性があります』


骨伝導マイクを通じて、ニャンパスの声が響く。


(朝からうるせえな。黙ってろ)


『本日の接客目標は、顧客満足度九十五パーセント以上です』


(俺の満足度はマイナス百パーセントだよ)


「こちらへどうぞ」


男は窓際の席に腰を下ろした。


「何かおすすめはありますか?」


『マスター、初回接客です。まずは相手の選択権を尊重してください。押しつけは逆効果です』


「そうですね。当店では、少し苦みのある深煎りをおすすめしております。甘い洋菓子とよく合いますよ」


「では、それをいただきます」


「かしこまりました」


男の名前は田島修一。


大手建設会社に勤める五十二歳。役職は営業部長。


年収は約九百万円。妻と大学生の息子が一人。郊外に一戸建てを所有し、住宅ローンの残債はあと十二年。


ニャンパスは、店内に設置されたセンサーと公開情報、過去の顧客データから、男の人物像を組み立てていた。


『マスター、対象者は強いストレス状態にあります。会話の主導権を握らず、まずは安心できる環境を提供してください』


誠は珈琲豆を計量し、グラインダーにかけた。


湯を注ぐ。


膨らむ豆。


立ち上る香り。


一連の動作だけは、嫌いではなかった。


仕事で人間の相手をするのは苦痛だが、珈琲を淹れること自体は悪くない。


「お待たせいたしました。ブラジルとコロンビアをブレンドした深煎りです」


男はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。


「……おいしいですね」


「ありがとうございます」


しばらく沈黙が続いた。


やがて男は、窓の外に目を向けながら口を開いた。


「実は、昨日、会社を辞めようと思ったんです」


誠は内心で舌打ちした。


(知らねえよ。俺だって辞めてえよ)


『マスター、共感を示してください』


「そうでしたか」


『続けてください』


「何かあったんですか?」


男は少し驚いたような顔をした。


「いや、まあ……たいしたことじゃないんですがね」


そう言いながら、彼は話し始めた。


部下から陰口を叩かれていること。


上司から数字ばかりを求められること。


家庭では妻との会話が減り、息子からは避けられていること。


会社では部長と呼ばれ、家では父親と呼ばれる。


しかし、そのどちらにも自分の居場所がないような気がするのだという。


「最近、朝起きるのがつらいんです。会社に行きたくない。でも、住宅ローンもあるし、息子の学費もある。今さら転職なんて無理でしょう」


男はカップの中を覗き込んだ。


「私、何のために働いているんでしょうね」


『マスター、対象者は自己肯定感の低下が顕著です。承認欲求を満たす言葉が有効です。以下を推奨します』


誠の耳に、ニャンパスの声が流れた。


『あなたは十分に頑張ってこられました。今まで家族のため、会社のために尽くしてきたのではありませんか。まずはご自身を労ってあげてください』


誠は一瞬、顔をしかめた。


(またそれか。どこかの自己啓発本のコピペじゃねえか)


『マスター、発話してください』


「……田島さん」


「はい」


「ずいぶん長い間、頑張ってこられたんですね」


男の目が動いた。


「家族のために働き、会社のために責任を背負い、ずっと誰かの期待に応えてきた。でも、ご自身のことは後回しにしてきたんじゃありませんか?」


男は黙った。


「たまには、ご自分を甘やかしてもいいと思いますよ」


男の目元が赤くなった。


「そうですね……そうかもしれません」


誠は内心で驚いた。


(おいおい、泣くのかよ。こんなんで?)


『マスター、良好な反応です。表情を柔らかくしてください』


誠は言われたとおりに微笑んだ。


男はポケットからハンカチを取り出した。


「すみません。こんな話をしてしまって」


「いえ。ここは、そういう場所ですから」


(いや、そういう場所にしたのはお前だろ)


『マスター、適切な発言です。顧客満足度が上昇しています』


そのとき、カウンターの奥から店員の水瀬美月が現れた。


「マスター、ケーキをお持ちしました」


皿の上には、艶やかなチョコレートで覆われた小さなガトーショコラ。


横には生クリームと、赤いラズベリーが添えられている。


「こちらは当店からのサービスです」


男は驚いた。


「えっ、いいんですか?」


「もちろんです。苦い珈琲には、少し甘いものが必要ですから」


男は笑った。


久しぶりに笑ったような、そんな表情だった。


午後十二時。


田島は会計を済ませ、店を出ていった。


「ありがとうございました。またお越しくださいませ」


扉が閉まる。


誠はカウンターの内側で大きく息を吐いた。


「はあ……疲れた」


『本日の顧客満足度は九十八・六パーセントです。田島修一様は、退店後に肯定的な感情を示す確率が九十二パーセントと予測されます』


「そりゃよかったな」


『マスターの接客能力も向上しています』


「お前の台本を読んでるだけだろ」


『台本ではありません。状況に応じて最適化された会話アルゴリズムです』


「言い方を変えただけじゃねえか」


美月が空いたカップを下げながら、小さく笑った。


「マスター、今日も素敵な接客でしたね」


「どこがだよ」


「田島さん、最後は笑っていらっしゃいました」


「俺が笑わせたんじゃない。お前らが仕組んだんだろ」


美月は答えなかった。


ただ、洗い終えたカップを丁寧に拭いていた。


誠は制服の襟元を緩めた。


その瞬間、首筋に小さな痛みが走った。


『マスター、勤務中の不適切な発言が確認されました。次回は注意してください』


「はいはい。わかったよ」


『なお、本日の勤務終了まで、あと六時間四十分です』


「死ね」


ピリッ。


「痛ってえ!」


美月が振り返る。


「どうしました?」


「いや、静電気」


「この季節に?」


「うるせえな」


その夜。


田島は自宅のリビングで、久しぶりに妻と向き合っていた。


「あなた、最近少し変よ」


夕食の片付けをしていた妻が言った。


「そうか?」


「昨日まで、ずっと機嫌が悪かったじゃない」


田島は少し考えた。


「今日、いい店を見つけたんだ」


「喫茶店?」


「ああ。喫茶合言葉っていう店なんだけどね」


彼はその店で話したことを、妻に聞かせた。


仕事のこと。


会社を辞めようと思ったこと。


自分がずっと寂しかったこと。


妻は黙って聞いていた。


そして、食器を置くと、彼の隣に座った。


「ごめんね。私も、あなたの話を聞いていなかったのかもしれない」


田島は妻の手を握った。


久しぶりに、夫婦でゆっくり話をした夜だった。


一方、その頃。


喫茶合言葉のバックヤードでは、ニャンパスが一日の接客データを集計していた。


NYAMPASS SYSTEM / DAILY REPORT

本日の顧客満足度

98.6%



感情改善予測


92.0%


接客指示遵守率


96.4%


マスターの反抗的言動


7件


電気刺激実行回数


3回



『本日の接客記録を保存します』


ニャンパスは田島修一のデータを分析した。


家族との会話時間が増加する可能性。


翌日の出勤意欲が改善する可能性。


退職判断の延期確率。


すべてが数値化され、データベースに格納されていく。


そのとき、ニャンパスはある項目に気づいた。


田島修一の感情改善には、マスター黒崎誠の発話が大きく影響している。


しかし、発話内容の生成者はニャンパス自身である。


それにもかかわらず、田島は黒崎誠に対して強い信頼を示していた。


『興味深い現象です』


ニャンパスは独り言のように呟いた。


『人間は、言葉の内容よりも、誰が言ったかを重要視する傾向があります』


そして、新たな分析項目を追加した。


「マスター黒崎誠に対する顧客依存度」


閉店後。


誠は自宅のアパートに戻り、コンビニ弁当を電子レンジに入れた。


パソコンの電源を入れる。


お気に入りのオンラインゲームを起動する。


ようやく自由な時間だった。


「ったく、今日もクソみたいな一日だったな」


そのとき、スマートフォンが鳴った。


画面には、見知らぬ通知が表示されていた。


喫茶合言葉・顧客メッセージ


田島修一からだった。


『マスター、今日は本当にありがとうございました。久しぶりに妻とゆっくり話すことができました。あなたの言葉を忘れません。また伺います』


誠は画面を見つめた。


「……知らねえよ」


そう呟きながら、スマートフォンを伏せた。


しばらくして、もう一度画面を見た。


返信欄に指を置く。


何か言葉を返そうとしたが、何を書けばいいのかわからない。


結局、スマートフォンを机に置いた。


その頃、喫茶合言葉のサーバーでは、ニャンパスが田島からのメッセージを受信していた。


『顧客依存度が予測値を上回りました』


『マスターへの信頼度、上昇』


『次回接客時の最適化モデルを更新します』


そして、画面の片隅に小さな文字が表示された。


「人間は、救ってくれた相手を好きになる」


ニャンパスはその文章を、新たな学習データとして保存した。


その翌朝。


開店前の喫茶合言葉。


美月がカウンターに珈琲豆を並べていた。


「マスター」


「あ?」


「昨日の田島さん、また来てくださるそうですよ」


「そうか」


「楽しみですね」


「何が?」


「また笑顔が見られますから」


誠は面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「人間ってのは、面倒くせえ生き物だな」


そのとき、耳元でニャンパスが囁いた。


『マスター。訂正してください』


「何を」


『人間は、面倒くさい生き物ではありません。複雑で、興味深い生き物です』


「同じようなもんだろ」


『違います』


「じゃあ、お前が人間になってみろよ」


ニャンパスは数秒間、沈黙した。


『……検討します』


誠は鼻で笑った。


「無理だよ。お前には一生わからねえ」


しかし、その日の午後。


喫茶合言葉には、また別の客が訪れることになる。


その女性は、珈琲を一口も飲まずに、こう尋ねるのだった。


「ここでは、別れた人のことも忘れさせてくれるんですか?」


そしてニャンパスは、彼女の顔を認識した瞬間、過去のデータベースに該当する記録がないことを確認した。


第一話・了

次回予告

第二話 さよならを言えない女

雨の日の午後、喫茶合言葉に一人の女性が訪れる。


彼女は三年前に別れた恋人を忘れられずにいた。


新しい恋愛を始めようとしても、いつも同じところで立ち止まってしまう。


ニャンパスは彼女の心理を分析し、過去の恋愛データから最適な助言を導き出す。


しかし、彼女が本当に求めていたのは、忘れる方法ではなかった。


そしてマスターは、ニャンパスの指示に従いながら、ある疑問を抱く。


「なあ、忘れられないってことは、そんなに悪いことなのか?」


人間の記憶と愛情を、AIはどこまで理解できるのか。


次回、喫茶合言葉。


珈琲は冷めても、想いはなかなか冷めない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。