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巡礼者の道  作者: 잿빛서기관


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恩寵の影

第九話 恩寵の影


【人はいつだって、


信じたい奇跡から信じる。


だから時には、


自分を救おうとする手さえ拒んでしまう。】


翌朝――


村は異様なほど静かだった。


エリオンはゆっくりと目を開ける。


窓の隙間から、


淡い朝日が差し込んでいた。


朝のはずなのに、


空気が重く沈んでいる。


身体を起こした。


隣ではトリーがまだ眠っていた。


口を開けたまま、


布団を半分蹴飛ばしている。


反対側では、


ベルが静かに座っていた。


どうやらもう起きていたらしい。


「……眠れなかったのか?」


ベルは小さく頷く。


「外が変に静かなんです」


エリオンは耳を澄ませた。


確かにそうだった。


鶏の鳴き声もない。


朝の支度をする気配もほとんど聞こえない。


まるで村全体が、


息を潜めているようだった。


その時――


扉の向こうから、


低い声が聞こえた。


「起きているなら出てこい」


司祭だった。


エリオンは上着を羽織り、


外へ出る。


ベルも後を追った。


司祭は宿の前に立っていた。


いつもより疲れて見える。


「トリーは?」


「まだ寝ています」


「起こせ」


「……もうすぐ出発する」


エリオンはすぐには答えなかった。


司祭はすでに荷物をまとめていた。


本当に出ていくつもりらしい。


「……本当に、


このまま行くつもりですか」


司祭は答えなかった。


ただ、


村の奥を見ている。


「……夜明けから、


人が集まっている」


エリオンは眉をひそめた。


「どこにですか?」


司祭はゆっくり視線を向ける。


「広場だ」


その瞬間。


ベルの表情が固まった。


エリオンはすぐに歩き出した。


「エリオン」


後ろから司祭の声が飛ぶ。


だが、


エリオンは止まらなかった。


短いため息が聞こえた。


少し遅れて、


司祭の足音も後ろから続いてくる。


広場へ近づくにつれて、


人々の声が聞こえてきた。


ざわめき。


低い祈りの声。


抑えきれない高揚。


そして――


「……もう少しだけ」


聞き覚えのある声だった。


広場の中央には、


老人が座っていた。


昨日よりも状態は悪そうだった。


目の下は深く落ちくぼみ、


指先は震えている。


それなのに――


その目だけは、


異様なほど澄んでいた。


「……もう一度やればいい」


「あと少しだけ……」


周囲では村人たちが老人を囲んでいる。


背中を支える者。


水を渡す者。


だが誰一人――


止めようとはしなかった。


それどころか。


人々の顔には、


奇妙な期待さえ浮かんでいた。


エリオンはゆっくり前へ出る。


「今は休ませるべきです」


その瞬間。


何人かの村人がこちらを見た。


昨日よりも、


ずっと鋭い目だった。


「また邪魔をするつもりか?」


中年の男が低く言う。


エリオンは男を見返した。


「本気でそう見えるんですか?」


男はすぐに答えた。


「昨日もちゃんと起き上がったじゃないか」


別の者も続ける。


「むしろ元気そうだった」


人々の視線が再び老人へ向く。


老人は震える身体のまま、


祭壇だけを見つめていた。


「祈りのおかげで、


頭もすっきりしたって言ってたし……」


ざわめきが広がる。


エリオンは奥歯を噛み締めた。


「身体が限界なんです」


だが、


老人は聞いていない。


祭壇だけを見ている。


「……残っていたんだ……」


掠れた声が震える。


「まだあの温かさが……


きっと……」


エリオンが一歩踏み出した。


老人の状態を確かめようとする。


その時――


一人の男が前に立った。


先ほどの中年男だった。


「……触るな」


低い声。


空気が一瞬で冷えた。


エリオンは男を真っ直ぐ見た。


「危険なんです」


男の表情がゆっくりと険しくなる。


「誰が危険だと言うんだ?」


男の声は低かった。


広場の空気が張り詰める。


エリオンは男から目を逸らさなかった。


「昨日も言ったでしょう」


「祈りに没頭しすぎているんです」


男の眉がゆっくりと寄る。


「巡礼者さん」


低い声だった。


「昨日からずっと、


あんたたちは恩寵をおかしなものみたいに言っている」


周囲から小さなざわめきが起こった。


「……そうだ」


「どうしてそんなに怖がらせるんだ?」


不安そうな顔をする者もいた。


だが、


頷いている者もいる。


「良いことじゃないか……」


ベルがエリオンの後ろで息を呑んだ。


エリオンはもう一度口を開こうとする。


その時だった。


「もういい」


司祭だった。


広場が静まり返る。


司祭はゆっくりと前へ出た。


疲れて見える顔だった。


だが、


その目だけは冷静だった。


「……これ以上は、


良くありません」


男は司祭を見る。


「司祭様も、


恩寵を否定なさるのですか?」


沈黙が落ちた。


司祭の指先が、


ほんのわずかに強張る。


エリオンはそれを見た。


そして理解した。


今この村で――


その言葉は、


ただの質問ではない。


広場にいる全員が、


司祭の返答を待っていた。


老人は荒い呼吸を繰り返しながらも、


なお祭壇を見つめている。


風がゆっくりと吹き抜けた。


誰かが唾を飲み込む音が、


妙に大きく聞こえた。


やがて。


司祭は口を開く。


「……いいえ」


静かな声だった。


「恩寵そのものを否定するつもりはありません」


人々の表情が、


わずかに緩む。


だが、


司祭の言葉は続いた。


「ですが――」


広場が再び静まる。


司祭は老人へ目を向けた。


「人の身体には限界があります」


穏やかな口調だった。


「どれほど良いものであっても、


過ぎれば害になることがある」


男は納得しなかった。


「ですが、


あの方は望んでおられる」


「……そうだ」


老人が掠れた声で呟いた。


「大丈夫だ……」


「もう少しだけ……」


エリオンは奥歯を噛み締める。


明らかに正常ではない。


目だけが異様に冴え、


身体はすでに悲鳴を上げている。


それなのに。


誰もそれをおかしいと思わない。


いや。


違う。


人々は、


それを望んでいるように見えた。


広場の空気が重く沈む。


そしてエリオンは気付く。


昨日までとは、


何かが決定的に違っていることに。


ベルがそっと服の裾を掴んだ。


「……お兄ちゃん」


震える声だった。


エリオンは振り返る。


ベルは村人たちを見ていた。


「……みんなの目が、


変です」


エリオンも改めて人々を見る。


確かにそうだった。


怯えている。


それなのに。


期待している。


不安そうな顔をしているのに、


祈りが再び始まることを望んでいる。


その様子に、


言いようのない違和感を覚えた。


エリオンはゆっくりと拳を握った。


そして。


今度ははっきりと、


広場中に聞こえる声で言った。


「……危険です」


ざわめきが止まる。


人々の視線が一斉に向いた。


エリオンは構わず続ける。


「今必要なのは祈りじゃありません」


「休息です」


空気が変わった。


良くない沈黙だった。


中年の男の顔が、


ゆっくりと険しくなっていく。


「……まだそんなことを言うのか」


エリオンは退かなかった。


「あの老人は、


今まさに身体を壊しています」


その瞬間。


後ろから低い声が飛んだ。


「壊れているのは、


あんたたちの方じゃないのか?」


別の声が続く。


「どうしてそこまで恩寵を止めたがるんだ?」


「巡礼者なら巡礼だけしていればいい……」


小さな声が、


少しずつ広がっていく。


トリーが唾を飲み込んだ。


ベルも息を潜めている。


昨日とは違う。


もう、


彼らは客として見られていなかった。


その時だった。


老人の身体が大きく揺れた。


「……祈りを……」


震える手が、


祭壇へ向かって伸びる。


「もう一度だけ……」


その瞬間。


数人の村人が同時に動いた。


老人を支える。


止めるためではない。


助けるためだった。


エリオンは言葉を失った。


誰も無理をさせているつもりはない。


誰も傷つけようとしているわけでもない。


それなのに。


誰一人として、


止めようとはしなかった。


司祭の目が静かに沈む。


彼はゆっくりと目を閉じた。


そして。


低い声で言った。


「……エリオン」


エリオンは黙ったまま、


司祭を見た。


司祭もしばらく何も言わなかった。


広場には再び祈りの声が広がり始めている。


老人を囲む人々。


祈る者。


期待する者。


不安そうに見守る者。


その全員が、


同じ方向を見ていた。


やがて。


司祭は口を開く。


その顔は、


ひどく疲れて見えた。


「……もう分かっただろう」


エリオンは答えられなかった。


遠くから聞こえてくる祈りの声。


小さく。


静かで。


穏やかですらある声。


なのに――


昨日よりも、


ずっと不穏に聞こえた。






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