別れ②
その日の夜。
ベルは枕をぎゅっと抱えたまま、
こちらの部屋へやって来た。
皆が不思議そうに見ると、
ベルは枕に顔を埋めながら、
小さく言った。
「最後の夜じゃないですか……」
そう言って、
トリーの寝台の端に腰を下ろした。
トリーはじっとベルを見てから、
口を開いた。
「狭いんだけど……」
その言葉に、
ベルが眉をひそめて勢いよく振り向いた。
トリーがまずいと思ったようにびくりとすると、
ベルは睨みながら、
その腕を思いきりつねった。
「いたたた!
あっ! あっ!
分かった! 分かったって!!」
トリーが降参すると、
ベルは深くため息をつき、
また枕を抱きしめた。
エリオンと司祭は、
思わず小さく笑った。
それから、
エリオンがトリーを見て口を開いた。
「場所なら作ればいいだろ。
トリー、今日は僕と一緒に寝るか?」
そう言いながら、
隣を軽く叩いた。
トリーが目を瞬かせた。
エリオンはにっと笑い、
ちらりと司祭を見て続けた。
「それか、
司祭様と寝てもいいし」
司祭の眉が、
ほんのわずかにぴくりと動いた。
それから、
ため息交じりに笑った。
「まあ……
望むなら構わないが」
トリーは司祭を見て、
露骨に嫌そうな顔をした。
そして、
ぶんぶんと首を横に振った。
「うぅ……
司祭様とはちょっと……」
トリーは勢いよく立ち上がると、
そそくさとエリオンのそばへ近づいた。
その姿に、
ベルがくすっと笑った。
司祭は少しだけ傷ついたような顔で呟いた。
「まあ、
大人というのはいつだって嫌われるものだからな」
エリオンも笑いながら、
トリーのために場所を空けた。
トリーは少しためらってから、
そっと隣に横になった。
身体を動かして位置を確かめると、
不満そうな顔でぼやいた。
「やっぱり……
狭いじゃん」
何度か寝返りを打ち、
結局は横向きになった。
エリオンは布団を引き上げながら言った。
「いいだろ。
兄弟なんだから、
たまにはくっついて寝る日があっても」
トリーは唇を尖らせたが、
やがてそっと笑った。
ベルと司祭は、
そんな二人を微笑ましそうに見つめていた。
それから、
しばらく。
誰も話さなかった。
窓の外から、
月明かりが淡く差し込んでいた。
夜気の向こうから聞こえてくる街のざわめきが、
静けさをそっと満たしていた。
そうしてしばらく。
ふと、
ベルが口を開いた。
「本当に……
楽しかったです」
誰も答えなかった。
ベルはゆっくりと言葉を続けた。
「明日なんて……
来なければいいのに」
その寂しげな言葉に、
誰も答えることができなかった。
再び静けさが戻り、
夜は少しずつ深まっていった。
小さな寝息が聞こえ、
誰かが寝返りを打つ音がした。
穏やかで、
それでも名残惜しい場所。
二度と戻ることのないこのひとときを、
美しい天の川が、
静かに見下ろしていた。
翌朝。
一行は誰もが早く目を覚ました。
トリーまで早起きし、
眠そうに頭を掻いていた。
司祭は荷物をまとめ、
ベルは寝台に座ったまま、
俯いていた。
エリオンは窓の外を見た。
……そうか。
エリオンは寝台から立ち上がり、
ベルを見た。
視線に気づいたベルも、
エリオンを見返した。
しばらく目が合った後、
ベルが無理に笑った。
「よく眠れました?」
エリオンも苦しげに笑い、
頷いた。
それから、
少し考え込んだ。
エリオンは荷物を探り、
櫛を取り出した。
その古びた櫛を手にベルのそばへ行き、
寝台の端に腰を下ろした。
ベルが不思議そうに見ると、
エリオンは櫛を見せながら言った。
「髪が跳ねてる」
そう言って、
ベルの髪を優しく持ち上げた。
そして、
ゆっくりと梳き始めた。
すっ。
すっ。
ベルは大人しく髪を梳かれながら、
落ち着かないように指先を動かしていた。
梳き終えると、
寝台のそばにあった髪留めを見つけ、
つけてやった。
ベルは髪留めを見上げてから、
エリオンを見た。
その目には、
涙が滲んでいた。
泣きそうになりながらも、
どうにか涙を飲み込んだ。
「ありがとう……ございます」
ベルは、
エリオンの目を見ることもできなかった。
エリオンも答えられなかった。
ただ静かに、
櫛をしまった。
トリーはその様子を見てから、
ため息をついた。
しばらく、
部屋は静かになった。
司祭だけが、
忙しなく動いていた。
荷造りが終わると、
司祭は鞄を背負って立ち上がった。
そしてベルを見て言った。
「そろそろ行こう」
ベルは力なく寝台から立ち上がった。
そして自分の鞄を手に取り、
背負った。
司祭は頷き、
エリオンとトリーを見た。
それから背を向け、
扉へ向かった。
取っ手に手をかけながら、
司祭が言った。
「ためらえば、
その分だけ重くなるものだ」
その言葉に、
立ち尽くしていたベルも、
司祭の後を追った。
トリーとエリオンも立ち上がり……
静かに後へ続いた。
一行は北門に到着した。
ギルドで会った傭兵は……
まだ来ていないようだった。
一行は隅の方へ移動し、
大人しく待った。
そうしてしばらく。
約束の時間を少し過ぎてから、
ようやく傭兵が現れた。
中年の傭兵は手を振りながら近づいてくると、
気まずそうな顔で言った。
「いやあ、
申し訳ありません。
ちょっと用事を済ませようと思ったら……」
司祭は小さくため息をつき、
首を横に振った。
「次からは、
きちんとしていただきたい」
中年の傭兵は、
気まずそうに頭を掻いた。
それから一行を見回して言った。
「ところで……
護衛は二人だと聞いていましたが?」
司祭はベルをちらりと指して言った。
「行くのは私とこの子の二人だけです。
残りは見送りに来ただけです」
エリオンとトリーが頷いた。
傭兵は二人をしばらく見てから、
同じように頷いた。
「まあ、
それなら問題ありません」
それから北門を親指で示して言った。
「問題がないなら、
さっさと行きましょう。
今から並んでも、
かなり待たされますよ」
そう言って、
先に歩き出そうとした。
口ごもりながら迷っていたベルが、
彼を呼び止めた。
「あの……!」
傭兵が足を止め、
振り返った。
「ん?」
「その……
薬草とか包帯とかは……
買わなくていいんですか?」
ベルの言葉に、
傭兵は不思議そうな顔をした。
「それなら……
当然、用意してありますよ?」
傭兵は肩をすくめた。
「誰かに横取りされるわけでもないし。
出発直前になってから買いに行く人なんて、
いるんですか?」
それからふと、
司祭を振り返って言った。
「ああ、
準備品は別料金ですからね。
もちろんご存じでしょうが……
後で話が違うなんて言われると困りますよ?」
司祭は答える代わりに頷いた。
ベルも、
それ以上は何も言わなかった。
傭兵は二人を少し見てから、
再び背を向け、
先に歩き始めた。
一行もその後を追った。
ベルと司祭、
そして傭兵が列に並ぶ直前。
ベルがトリーとエリオンを振り返った。
そして少しためらってから……
二人のもとへ駆け出した。
まず、
トリーに飛びついた。
トリーはどうしていいか分からず戸惑った後、
そっとベルを抱き返した。
しばらくして。
ベルは身体を離し、
トリーを見上げた。
「身体には気をつけて……
本当に……
本当に、怪我しちゃ駄目だからね?」
その目元に、
涙が滲んだ。
トリーは静かに頷いた。
ベルは今度、
エリオンのもとへ近づいた。
同じように抱きつくと、
そのまま言った。
「兄さんも……
ちゃんと戻ってきてください。
あんまり長くかかったら……
駄目ですよ?」
エリオンはそっと笑い、
ベルを抱きしめた。
「うん。
すぐ戻るよ」
ベルはゆっくりと離れた。
その目には、
涙が溜まっていた。
司祭も近づき、
二人を交互に見た。
「では、
元気でな。
何かあれば連絡しなさい」
あまりにも淡々とした言葉に、
エリオンとトリーは思わず小さく笑った。
そうして……
ベルと司祭は、
傭兵と合流した。
彼らは検査待ちの列の最後尾に並び、
順番を待った。
トリーとエリオンは、
目を離すことができなかった。
列が短くなるほど、
彼らも少しずつ遠ざかっていった。
ベルはどうしても未練を断ち切れないように、
何度も後ろを振り返った。
そのたびに、
エリオンは手を振った。
そうして、
ついに最後の順番が近づいた。
検査を終え、
城門の外へ出ていく。
エリオンは両手を振りながら叫んだ。
「元気でなー!!!」
口をもごもごさせていたトリーも、
声の限り叫んだ。
「ベルー!!!
絶対に成功して帰るからー!!!」
その声に、
ベルと司祭が振り返り、
手を振った。
そして再び、
前へ歩いていった。
そうして少しずつ遠ざかり……
やがて、
見えなくなった。
――第一部 巡礼路 完




