才能①
第二十話 才能①
まるで水の中にいるようだった。
何の音も聞こえない。
自分が浮かんでいるのか、
沈んでいるのかさえ分からなかった。
ただ。
どこか深い場所に、
一本の淡い光が漂っていた。
糸のように細く。
今にも消えてしまいそうなほど弱い光。
だが不思議なことに、
どうしても目を離せなかった。
エリオンはゆっくりと手を伸ばした。
届きそうだった。
あと少し。
ほんの少しだけ近付けば――
指先が微かに震える。
光が近付いてくる。
そして。
その瞬間。
エリオンは目を開いた。
大きく息を吸い込む。
しばらくぼんやりと天井を見つめていたが、
やがて自分が宙へ向かって手を伸ばしていたことに気付いた。
ベッドの傍では、
司祭が静かに腰掛けていた。
何も言わず、
ただエリオンを見ている。
エリオンは急に気恥ずかしくなり、
そっと手を下ろした。
「……あ」
軽く咳払いをする。
「少し変な夢を見まして」
隣のベッドでは、
トリーがぐっすり眠っていた。
片手で腹を掻きながら、
だらしなく寝転がっている。
司祭はそんな姿を一瞥すると、
再びエリオンへ視線を戻した。
「どんな夢だ?」
エリオンは少し迷った。
「その……
水の中みたいな場所で、
光みたいなものを掴もうとしていた気がします」
口にしてみると、
自分でも妙な話に思えた。
司祭はしばらくエリオンを見つめていたが、
やがて静かに頷いた。
「……良い夢だな」
そう言うと、
ゆっくり立ち上がる。
そして窓の外へ目を向けた。
良い夢?
エリオンは眉をひそめる。
本当にそうだったのだろうか。
エリオンも窓の外へ視線を移した。
ラヘンの朝は、
すでに活気に満ちていた。
大通りを馬車が絶えず行き交う。
商人たちは大声で客を呼び込んでいた。
傭兵たちの笑い声。
遠くから聞こえる鐘の音。
司祭もまた、
しばらく外を眺めていた。
やがて静かに口を開く。
「そろそろ出るか」
そう言った。
「今日は双子教会へ行く」
司祭は窓の外を見たまま続ける。
「壮麗な場所だ。
信仰を深めてくれる」
小さく笑った。
「行けば分かる」
そう言うと、
そのまま扉へ向かう。
「先に下で待っている」
扉を開きながら振り返った。
「準備ができたら来なさい。
ベルとトリーも連れてな」
扉が閉まる。
廊下に響く足音が、
少しずつ遠ざかっていった。
エリオンはしばらく扉を見つめていた。
そして。
何となく手を握ってみる。
「……あの感覚」
まだ指先に何かが残っている気がした。
夢のことをぼんやり思い返していると、
背後で衣擦れの音がした。
トリーが身を起こしたのだ。
髪は完全に寝癖だらけだった。
絡まった髪は、
まるで鳥の巣のようだった。
「うぅぅ……」
目も開ききらないまま呟く。
「よく寝た……」
ベッドの上でしばらくぼんやりしていたが、
やがてゆっくりとエリオンへ顔を向けた。
そして満面の笑みを浮かべる。
「兄さん、よく寝れました?」
エリオンは思わず笑った。
立ち上がると、
そのままトリーの頭をぐしゃぐしゃにする。
「出掛けるぞ。
準備しろ」
トリーはさらに乱れた髪を触りながら尋ねた。
「どこ行くんです?」
エリオンは扉の取っ手を握る。
「双子教会だ」
一行が双子教会へ到着したのは、
それからかなり後のことだった。
近付くにつれて、
その巨大さがはっきりと分かってくる。
いくつもの尖塔が、
空高く伸びていた。
白亜の外壁には傷一つない。
長い年月を経ているとは思えないほど、
丁寧に手入れされていた。
壁面には精巧な彫刻。
巨大な窓には美しいステンドグラス。
太陽の光を受けて、
宝石のように輝いている。
トリーは首が痛くなりそうなほど見上げた。
「……うわ」
その一言の後も、
しばらく視線を外せなかった。
ベルは両手を胸の前で組み、
光る窓を見つめている。
「……本当に綺麗」
小さな声だった。
エリオンもまた、
無言で教会を見上げていた。
胸が妙に高鳴る。
圧倒されているのか。
緊張しているのか。
自分でも分からない。
一方で。
レアはそんな仲間たちを見て、
小さく笑うだけだった。
司祭は周囲を見回している。
まるで何かを警戒するように。
エリオンはそんな司祭を見た。
まだ気にしているのだろうか。
また誰かに顔を知られることを。
ふと教会へ出入りする人々へ視線を向ける。
そして小さく呟いた。
「これだけ人が多ければ、
知り合いが目の前を通っても気付かなさそうですね」
司祭の眉がわずかに動く。
そして。
小さく笑った。
「……そうかもしれんな」
何事もなかったように身を翻す。
「入ろう」
一行は司祭の後へ続いた。
そして――
誰もが言葉を失った。
高い天井いっぱいに描かれた巨大な聖画。
光に包まれた太陽神。
その足元には、
無数の人々が描かれている。
感涙する者。
祈る者。
膝をついて泣く者。
恍惚の表情で天を仰ぐ者。
それだけでも圧倒される光景だった。
さらに。
左右に並ぶ巨大な柱。
エリオンは思わず息を呑む。
柱の一本一本が、
すべて天使の彫像だった。
翼を広げた天使たちが、
両腕で天井を支えている。
「……こんなの、
本当に作れるのか?」
思わず呟きが漏れた。
あれほど騒がしかったトリーですら、
言葉を失っている。
ベルも息を呑んだまま見上げていた。
レアでさえ何も言わない。
司祭はそんな一行を見渡し、
静かに頷いた。
そして――
柱の向こう。
巨大な彫像が視界へ入る。
ただ一柱で立つ太陽神の像。
天窓から差し込む光が、
長くその姿を照らしていた。
その前に立った瞬間。
誰も簡単には口を開けなかった。




