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プロローグ

 風薫る五月、と言うけれど、


(本当に、そうね…)


と私は思った。


 護国神社の緑豊かな林を抜けて校庭に吹いてくる風に、若葉の香りが感じられた。

 私はあらためて、校舎のほうに視線を向ける。


 横長の三階建て。

 昼休みの校舎からは、楽しそうな会話や笑い声が漏れ聞こえてくるようだった。


 私はこの春、第一志望だった県立間崎第一高校に入学した。

 県下でも有数の進学校であり、歴史と伝統のある高校だ。

 憧れだった白いセーラー服はまだ新しい。


 体育館と野球場の間は並木道のようになっていて、色の薄い若葉が初夏の日差しを柔らかくしてくれていた。


(ふぅ…)


 私は小さくため息をつく。


 希望通りの高校、優しい先輩方、質の高い授業、そして朗(ほが)らかな同級生たち。

 いったい、どこに不満を感じる要素があるのだろう。


 みんなと同じように、教室で賑やかに過ごせばいいはずの昼休みなのに。

 四月の一カ月は同級生たちと談笑しながら過ごせていたのに。


(五月病、ってこういう感じなのかな…)


と、ふと思う。

 深刻な体調不良があるわけではないけれど、なんだか気持ちが浮き立たない。


(ううん。きっと環境の変化に少し疲れているだけ)


 ちょっと気分転換に、と思って昼休みの教室を抜け出し、校庭を散策してみることにした。


 数年前まで男子校だったためか、どことなく逞しいオーラのようなものを感じる。

 剛健、というのだろうか。


 歴史ある学校だけあって、校庭の樹木も大きく育ち、力強く枝を張っていた。

 野球場のバックネットの後ろにあるのは、ケヤキの木。

 学校ができる前からこの地にあって、樹齢は数十年だと教わった。


 きっと歴代の諸先輩方のさまざまな高校生活を静かに眺めてきたのだろう。

 神社のご神木のような、威厳のある佇(たたず)まいだ。


 体育館と武道場の間から吹きこんできた風が、古木の枝葉を揺らす。

 ザザザー、という葉の音に、ミミミと枝が軋(きし)むような音が混ざって、真下で聞くと迫力がある。


(見守って…くださいね…)


 ゴツゴツと風格あるケヤキの幹に、私はそっと手を触れた。


 ――その時だった。


「危ない、離れてっ」


 どこからか叫び声が聞こえたような気がして、私は驚いて周囲を見回した。

 校舎のほうかな、と思って顔を向けたのだけど、誰もいない。


(気のせいかな…)


と思った瞬間、後ろから両肩を掴まれた。


(えっ!)


 悲鳴を上げる隙(すき)さえなかった。

 私の体はふわりと浮き上がった。


 そのまま空中遊泳みたいに二メートルくらい運ばれて、着地。


 誰かに抱えあげられた、ということに気づいて振り向こうとした時だった。


 ――メキッ、バキッ


 頭上で音がした。

 ケヤキの大きな枝が一本、風に煽(あお)られて折れ、すぐ下の枝の上に落下した。


 ――ザザンッ!


 お腹に響いてくるような重低音。

 木の下の空気が震えた。


 折れた枝を受け止めた横枝は、しなるようにグラグラと揺れている。

 小枝や葉が落ちてきて、風に舞い飛ばされた。


 感じたことのない恐怖に、私は思わず身をすくめた。

 誰かが私を救い出してくれた、ということはかろうじて理解できた。

 そっと後ろを振り返る。


 制服を着た、男子生徒だった。

 短い黒髪、日焼けした肌。

 ケヤキを見上げ、折れた枝の様子を見ている。

 手には黒い手袋。


「あ、あの…」


 お礼を言わなきゃ、と思うのだけど、声が出ない。


「あっ、ご、ごめんなさい!」


 その人が慌てたように頭を下げたからビックリした。


「枝が、枝が落ちてくるかもしれないと思って、すみません!」


 深々と頭を下げて、なぜか私に謝っている。

 身を挺して、大枝が落下したかもしれない地点から助け出してくれたというのに。


 私も、唖然として言葉が出せずにいた。


「先生に伝えないといけないので、失礼します!すみませんでした!」


 彼はそのまま踵(きびす)を返して、校舎のほうへ走っていった。

 まるで、一陣の風のように。


 私は呆然と、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。

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