その心に共鳴してしまったから
翌朝はよく晴れていた。瘴気の状態を見て、アドリアンナはそれを書き記した。この地へ来てから、毎時間瘴気の状態を確認し、記録している。
フェルナンが言っていた城の図書室はちょっとしたものだった。窓以外を全て本棚が覆い、古今東西のあらゆる本が収まっている。中には古書とも言える貴重なものもあり、アドリアンナの心はときめいた。
惜しむらくはフェルナンが本が好きではなさそうだということだ。数年の間手入れをされていなかったであろう本は埃にまみれ、湿気に膨らみ、日焼けもしていた。
そのうちの一冊を手にとって見る。
数年は開かれていないだろう本だ。開くと小さな虫が頁の上を徘徊していた。アドリアンナはその小さな命に笑いかけた。
「ごめんなさい。ここは貴方のお家だったのね? じゃあ今日は別の本にしましょう」
本棚には魔導書が多い。以前のグリフォン公もフェルナンと同様に魔術に長けた人間であったのかもしれない。
しばらくそうして夢中で本を読み漁っていると、唐突に窓の外から大声が聞こえてきた。
「アドリアンナ! アドリアンナ! 大変だ! 中庭に来てくれ!」
城の外にいるらしいフェルナンの声だ。それも尋常ならざる声色だった。
急いで中庭へと向かうと、畑の横にある大木の下でフェルナンが困り果てた顔を浮かべていた。
彼はアドリアンナを見るなり地面を指差す。そこにはピンク色のぶよぶよした小さな何かが蠢いていた。見たことがある。
(鳥の雛だわ)
そう思った瞬間、フェルナンも言った。
「鳥の雛だ。弱っていて、今にも死んでしまいそうなんだ。治癒の魔法をかけたんだが、どうにもならない。君は色々物事に詳しいだろう? こいつを助けてやってくれ」
アドリアンナは上を見上げた。鳥の巣があったらしき場所には巣の材料である枝の残骸があるのみで、他の雛の姿も親鳥の姿も見当たらない。より強い別の生物に食い荒らされた後のようだった。
運よく生き残ったこの雛も地面に落ちてしまったらしい。アドリアンナはその小さな命をハンカチを広げた手の中に拾い上げた。
「心臓は動いているみたいです。看病してみましょう」
「俺は何をしたらいい」
驚いてフェルナンを見た。
自分がその鳥のために何かをすることを当然のことだと思っている彼に対して、むしろアドリアンナの方が動揺してしまった。この城の主人である公爵様に何をお願いしたらいいの――?
言葉が思い浮かばずに黙っていると、フェルナンは良い案を思いついたとでも言うように一人頷いて言った。
「そうだ! 俺はその雛が食べそうな餌を探そう。君は先に城へ」
餌って、ミミズや芋虫だわ――とアドリアンナは思った。
それを、そんなものを、公爵様が自ら集めるというの? 土を掘り、石をひっくり返して?
だが彼の思いつきの邪魔をすることなどできるはずもなく、結局は城の中へと戻るしかなかった。自室として使っている部屋へと入り、ベッドの上にハンカチごと雛を横たえた。雛の看病などしたことはない。
(温めた方が良いのかしら。巣はきっと温かいはずだもの)
アドリアンナは雛を置いたベッドの隣に腰掛けて、両手で空間を作ってやった。指で触れでもしたら、たちまちその脆い体を壊してしまいそうだった。雛は小さく震えながら嘴を動かす。その懸命な様子にアドリアンナの胸は締め付けられた。
生きようとしているわ。
「大丈夫、きっと大丈夫だから――」
きっと生まれて数日だ。なのに親も兄弟も失い、体は傷だらけ。もしこのまま死んでしまったら、この命が生まれた意味はなんだったというのだろう。少しの間、世界の空気を震わせただけ? たったそれだけ。命の意味が、それだけのはずがない。
なのにアドリアンナの手の中で、雛鳥の動きは小さくなっていく。急速に失われていくものの恐怖によりアドリアンナは叫んだ。
「フェルナン様! フェルナン様! 来て、来てください!」
彼がアドリアンナを呼んだように。
彼以外に、助けを求める人はいない。だってこの城には互い以外に人間がいないのだから。
また治癒の魔法をかけてもらわなくてはこの雛は死んでしまう。そんな風に思った。
フェルナンはすぐに現れた。開きっぱなしだった扉の前で、愕然としながら雛を見つめている。
「死んでいる?」
と呟いた。
その瞳は雛を凝視したままだ。
「死んでしまったのか?」
と今度はアドリアンナに目を向けた。
迷子が縋るような目つきだった。
アドリアンナは首を横に振った。動かなくなってしまった雛の生死が分からなかった。
「俺のせいだ」
再びフェルナンは雛に視線を戻してそう言った。アドリアンナはぎょっとする。
「まさか、どうして? 公爵様のせいではありません」
彼はむしろこの雛を救おうとしたのだ。そんな義理はないのにも関わらず。
だがなおもフェルナンは首を横に振る。
「いいや、俺のせいだ。俺が触れたからだ。治療をしようとして……」
彼の顔は蒼白で、額に汗もかいていた。
泣いているのか怒っているのか分からないが、顔を歪めていた。
「公爵様ご気分でも……」
尋常じゃない顔色にそう言って立ち上がった瞬間、アドリアンナを拒否するようにフェルナンは数歩下がり叫んだ。
「寄るな! 君とだって昨日夕飯なんて食べてはいけなかったんだ。君の背にも触れてしまった! 近頃他人と接していなかったから、すっかり調子に乗ってしまった。人との距離がわからなくなってしまった! 君に近づきすぎた……! 俺は温もりに飢えすぎていた!」
彼の様子は明らかにおかしい。アドリアンナは心底心配になり、なおも側に寄ろうとした。
だが彼はアドリアンナを見て明確な嫌悪を浮かべた。その顔を見てアドリアンナは動けなくなってしまっった。自分の存在が、彼を不快にさせているということが分かってしまったから。
「来ないでくれ! 俺の側に来ないでくれ!」
言った途端、目の前から彼の姿が消え失せた。文字通り、彼はいなくなってしまった。足元に、彼が採取したであろう鳥の餌達を残して。
行き先は分かっていた。彼の部屋が少しだけ光ったから。
移動魔術だ、とは分かったが、どうしようもない。
残されたアドリアンナはただ立ち尽くす他なかった。




