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稽古



 明くる日、半之丞はいつもより遅く目が覚めた。

 忠弥に会えるのだと思うと、興奮して眠れなかった。道場へ行くのも緊張した。行く途中も兵馬が話をしていたが、ろくに聞いていなかった。


 道場に入ると、すでに来ていた門弟たちが素振りの練習を始めていた。

 堀内道場に来てから初めての光景で、その中心に忠弥がいた。

 他の者たちも半之丞とは別の意味で、忠弥の帰りを今か今かと待っていたのだろう。

 稽古を見てもらうにも、半之丞は他の者より遅れているため、邪魔にならない場所でするしかなかった。


 その日、忠弥とは目を合わせる機会すらなかった。しかし、半之丞は側にいるだけで幸福を感じていた。


 しなやかに踊るような筋肉、低い男らしい声。時々、大きな声で笑ったり、腹から怒鳴ったりする声にも思わずうっとりしてしまう。

 ここまで自分が忠弥のことを意識しているとは、想像もしていなかった。

 焦がれている事は自覚していたが、同じ空気を吸い同じ場所にいる事がこんなにもうれしいなんて――。



 練習が終って、汗を流すためみんなが井戸端へ出て行く中、半之丞は忠弥の後ろ姿をぼうっと見ていた。


「半之丞」


 兵馬が呆れたように言った。


「なに?」

「ほら、ぼうっとしていないで声かけて来いよ。今なら誰もいないし、主張しないと覚えてもらえないよ。成沢さんははきはきした人が好きだしさ」

「え、そうなの?」

「うん、お前のようなスッポンみたいにしつこい奴は嫌いじゃないと思う」

「スッポンって……。あんまりだ」

「本当のことだろ」


 ほら、行けと背中を押される。


 いきなり心ノ臓が高鳴りだす。

 落ち着けと自分に云い聞かせながら、汗を拭く忠弥に近づいた。


「成沢さんっ」

「ん?」


 忠弥が振り向いて目が合った。半之丞は握りこぶしをした。


「わ、わたしにも稽古を付けて下さい」

「かまわないが」

「ありがとうございますっ」


 忠弥は、半之丞の顔をじいっと見つめ、首を傾げた。


「どこかで会ったか?」

「き、昨日……」

「ああ、そうだった。三浦だったな」


 名前を覚えてくれていた。なんて寛大な方なんだろう。


 半之丞は胸が熱くなって涙が出そうになった。


「じゃ、まずは立ち姿からだ。やってみろ」

「はいっ」


 基本の構えを取ると、厳しい叱責がきた。


 右の肩が上がりすぎる。踏み込むときに、指先が上がりすぎるため、踏み込む頃合が分かり過ぎ、相手に気取られるなど、細かい指導を付けてくれた。


「肩に力が入り過ぎている。もっと力を抜いたほうがいい」

「はいっ」


 ふっと全身の力を抜くと、持っていた竹刀がふらふらと揺れる。


「抜きすぎだ、馬鹿」


 軽く頭を小突かれて、触れた部分がジーンと熱い。


「顔が赤いが、熱でもあるのか」

「い、いえっ」


 ふざけていると思われたくなくて、一生懸命な顔をする。

 しばらく指導してもらい、息が上がり始めると、腕組みして見ていた忠弥が云った。


「もうこの辺でやめよう」

「あ、ありがとうございました」

「あんまり、がんばりすぎるな」


 ぽんぽんと頭を優しく撫でられ、半之丞は信じられなくて一瞬、呆けてしまった。そんな半之丞には気付かず、忠弥は、


「じゃあな」


 と、くるりと背を向けた。

 半之丞は慌てて我に返った。気がつけば二人きりだった。


「な、成沢さんっ」


 自分でもびっくりなくらい大きな声だった。


「ん?」

「せ、銭湯に行かれますか?」

「銭湯か? そうだな、汗もかいたし」

「わ、わたしが背中を流します」

「……やめとけ、倒れるぞ」


 忠弥は一瞬、考えてから恐い顔で云った。


「え……」


 大胆な自分の発言にも驚いていたが、それよりもすげなく断られた衝撃が痛かった。

 忠弥がスタスタと歩いてくる。腕を取られ、身がすくんだ。


「体がふらついている。こんな状態で入ったら、湯に当たったとたんに倒れそうだ」

「も、申し訳ありません」


 忠弥に気を遣わせてしまった。迷惑をかけたと気付いて蒼ざめた。


「家まで送る」

「そんな、ご迷惑はかけられませんっ」

「いいから、着替えて来い」

「は、はい……」


 有無を云わさず命じられる。従うしかなかった。

 急いで体を拭いて着替えた。




 袋竹刀を持って玄関へ出ると、忠弥はすでに着替えて待っていた。


「同じ方向か」

「はい」

「行こう」


 少し、顔つきが怖い。怒っているのだろうか。


 練習初日で彼も疲れているだろう。それを勢いに乗じて、わがままを押し通してしまった。

 前を歩く忠弥は一言もしゃべらず歩く速度も早い。追いつくのが必死だった。


「ああ、悪い」


 突然、なにを思ったのか忠弥が立ち止まった。


「ど、どうしましたか?」


 小走りに歩いていた半之丞は追いついてから息をついた。すると、忠弥は歩く速度を遅め、半之丞に合わせてくれた。


「俺の足が速いならはっきり云え、兵馬だったらすぐに云うぞ」


 半之丞はまた、忠弥に気を遣わせたと気付いた。


「次からは気をつけます」

「そうしろ」


 そのまま、ゆっくり歩いて叔父の家についた。


 実を云うと、半之丞は、まだ叔父の家では暮らしていなかった。

 そのことを伝えようと思ったが、実家までは少し距離があった。しかし、これ以上、迷惑をかけるのは嫌だった。

 叔父の屋敷前に着き、半之丞は深くお辞儀をした。


「今日は本当にありがとうございました」

「じゃあな。ゆっくり休めよ」

「は、はいっ」


 うれしくて声が震える。忠弥はそんな様子を見て、


「おかしな奴だ」


 と云って笑った。


「じゃあな」


 忠弥の屋敷はこの先の辻を曲ったその先にあった。

 

 姿が見えなくなるまでじっと見つめ、それから屋敷内の裏庭にまわった。


「お、半之丞」


 叔父は縁側で、一人で碁を打っていた。

 

 叔父の年はまだ三十五歳で、細身で長身の若々しい男だった。顔艶もよく、切れ長の目で整った顔だちの色男である。

 結婚して女の子が一人いる。子供は一人でよいと勝手に決めて、兄である半之丞の父の子を一人、養子にもらうことに決めたのだ。

 物事に乗じない図太い性格の持ち主で、半之丞が庭から入っても特に何も云わなかった。


「顔が白いぞ、大丈夫か」

「叔父上……縁談の件ですが」

「ああ、そういえば、成沢忠弥が帰って来たんだったな」

「はい、わたくしは成沢さんのためなら養子の件も……」


 そこまで伝えたとき、急に頭がふわふわしてきた。心ノ臓が激しく鳴り出し、立っているのが辛くなった。

 碁盤を睨んでいた叔父が顔を上げる。


「大丈夫だよ、縁談の話はなんとかするから、おいっ」


 叔父がはだしで庭に下りてくる。半之丞の体がふらりと傾いだ。


「おい、志保しほっ、誰かいないかっ」


 叔父が妻の名を呼び、大声で叫んでいる。抱きとめられながら、半之丞は、忠弥の後ろ姿を思い出していた。

 頭がくらくらしていたが、半日以上も忠弥の側にいられたことが、なによりうれしかった。




 叔父の家で倒れてから、目が覚めたのは翌朝だった。


 最初、自分がどこにいるのか分からず、半之丞は目を瞬かせた。


「起きましたか」


 若い女の声に驚いて声の方を見ると、枕許に他家へ嫁いだ姉の弓江ゆみえが坐っていた。

 半之丞はぎょっと目を丸くした。


「姉上…っ」

「だらしのない」


 ぴしゃりと叱られる。


「わたしはどうしたのですか?」


 半之丞が恐る恐る尋ねると、姉は目を吊り上げた。


「羽目を外して倒れたのです。なんて情けない。それでも武士のお子ですか」


 相変わらずの厳しい叱責に頭が上がらない。


「申し訳ありません」


 半之丞が静かに謝ると、弓江は美しい顔を歪め、唇を噛んだ。


「半之丞……、わたくしは…っ」


 弓江が袂から懐紙を取り出して口を覆う。

 体を震わせて、いつものようにまた悲痛な声を上げた。


「あなたを、成沢忠弥などに会わせたわたくしが…、自分が許せません!」

「姉上、その話は…」

「これから成沢忠弥の屋敷へ参りたいと思います」

「は?」

「いずれ、ご挨拶に行かねばならぬと思っておりました。わたくしの失態からあなたをこんな目に合わせてしまった」

「姉上、ちょっとお待ちください。成沢さんはなんの関係もありません」

「あなたは黙っていて」


 きりりと睨まれ、何も云えなくなる。


「道場は休みですね」

「はい……」

「それは好都合。朝餉を食べたらわたくしと参りますよ」


 弓江がいなくなると、大きなため息がこぼれた。

 姉を止めることは、父にも弓江の夫にも出来ないことであった。


 従うしか道はない。


 半之丞はのそりと起き上がり、支度に取りかかった。




 遅い朝餉を食べ、姉に従い成沢家へ向かったが、休みだというのに忠弥は道場へ行っていた。ここで弓江が諦めてくれればよいが、と期待したが、姉は済ました顔で、


「そうでしょうね」


 とはっきり云った。


「あの、剣術しか脳のない男が屋敷でのんびりとしているようには思っておりませんでした。さ、参りましょ」


 道場の方へ足を向ける。


「姉上、家のほうは空けて大丈夫なのですか?」


 弓江は大番頭の家に嫁いでいる。相手に見初められ、相思相愛で嫁いでいった。


「あなたは気にしなくてよいのです」


 取り付くしまもなく、道場へついてしまった。玄関に入り、すぐに体を庭の方へ向ける。


「姉上、そちらは外……」


 庭から道場の中を覗く算段らしい。

 半之丞は黙ってついて行った。枝折しおりり戸の前で止まり、そっと道場の方を伺う。

 弓江の背後から見ると、忠弥が素振りをしていた。


 一人かと思いきや、兵馬が一緒に汗を流していた。


 思わず、あっと声が出そうになった。




 弓江は様子を見届けると、静かに戸を開いて庭へ入って行った。


 兵馬が手を止めて驚いた顔をする。弓江と半之丞を見て笑顔になった。


「半之丞っ、お前も来たのか」


 そう云う兵馬の横で、忠弥は険しい顔をしていた。

 弓江がずいと前へ出て深くお辞儀をした。


「おはようございます。朝からお二人で稽古ですか」

「なにか御用ですか」


 忠弥の尖った声に半之丞は身がすくんだ。


「ええ、成沢殿にお話がございますの。少し、お時間をいただけますでしょうか」


 忠弥は一瞬、顔をしかめ、それから半之丞のほうをじろりと一瞥した。


「よかろう」


 手拭で汗をぐいと拭くと庭のほうへ下りてくる。

 弓江は汗のにおいに顔をしかめ、袂から手拭を出した。


「まさか、そのままでお話なさるおつもり?」

「そのつもりだが」


 毅然とした態度に圧倒されたのか、弓江は少し後ずさりした。


「話とはなんです?」


 忠弥が聞いてくる。弓江はきゅっと口を引き締めた。


「かねがねからお詫びしたいと思っておりました」

「え?」


 急に弓江の態度が軟化して、忠弥が怪訝な顔をした。


「半之丞が六歳のときでございます」


 姉が静かに語りだす。半之丞は急に息が苦しくなった。


「あの時、わたくしは中間ちゅうげんと半之丞のみを連れて町方まで茶菓子を買いに参りました。その時ございます。わたくしが菓子を選んでいる間、この子がかどわかしにあいました」


 それを聞いて忠弥が目を丸くして、あの時の…、と呟いた。そして、半之丞を見つめた。

 半之丞は唇を震わせると、うつむいた。


「慌てて探したときには、どこかに連れ去られた後でございましたが、あなたさまがこの子を救ってくださいました。当時、わたくしは十歳で、我を失いあなたさまにも辛く当たり、お礼にも参らず無礼を働いたこと深くお詫び申上げます」


 忠弥の表情は微妙だった。

 立ち話する内容ではない、今さら場所を改めてとは云いにくい情況だった。


「あの時、家の者があなたさまにお約束をしたと思います。覚えていらっしゃるでしょうか」

「うろ覚えだが……」


 忠弥が、どうでもよさそうに答える。

 弓江はムッとした。


「わたくしどもの不手際で成沢さまに御迷惑をおかけいたしました。この不始末、我が家で半之丞を一人前の男に育て上げ、恥じることのない男にしてみせると、父はあなたに約束いたしました。ところがっ」


 弓江は言葉を切ると、半之丞を睨んだ。


「当時より、あなたが通ってらした堀内道場の試験にことごとく落ち続け、近年までどこの道場にも入ろうとせず、兄の手で少しは剣術を教え込ませて参りましたが、あろうことか半之丞は恩人のあなたのことばかり追いかけて、剣術も学問もなにもかも中途半端! 成沢さまが江戸へ渡っている間も、腑抜けた顔で…。あなたが帰国されてからは浮き足立ち、叔父の家で倒れる情けなさ……。わたくしは育てかたを間違えてしまったと後悔しております」

「それで、あなたはなにが云いたいんだ」


 長話がようやく中盤に入り、忠弥はいらついた顔をする。

 弓江が力強く忠弥を見つめた。そして、


「この子を突き放してください!」


 と、強い口調で云った。


「お前になど興味はない、しつこく付きまとうなと、はっきりと申して下されば、この子も目が覚めるはずでございます」

「姉上っ」


 半之丞は悲痛な声を上げた。


 忠弥は眉一つ動かさず、無表情で弓江を睨んだ。


「俺が云わなければいけないのか、それは」

「え?」

「俺が悪者になって、こいつを傷つければいいのか」

「それは……」


 弓江はさっと気色ばんだ。


「伝えたと思うが、俺はこいつを助けたことなど今まで忘れていた。昔、勘違いであんたになじられたことや三浦家の当主がしつこく家に来て、こいつを男にすると約束すると云った話も、うんざりしながら聞いていた。俺にとって、こいつがどんな生き方をしようが関係ない。あんたらの考えを俺に押し付けるのは迷惑だから、もうそっとしておいてくれ」


 忠弥の云い分はもっともで、弓江は何も云い返せなかった。彼女は、蒼白い顔でうつむくと、申し訳ありませんでした、と小さく云った。

 失礼いたします、と云うと、転がるようにその場を去っていった。

 枝折り戸の外で待っていた女中が大慌てで追いかけていく。


 取り残された半之丞は、姉の無礼に気を失いそうになっていた。


 どうしたらいいのだろう。

 忠弥になんて云えばいいのか、混乱して思考がまとまらない。


 すると、忠弥が息を吐いて半之丞を見た。


「お前はどうしたいのだ」

「え?」

「なぜ、俺の後を追いまわす」


 まっすぐな瞳には真摯な色が見えた。半之丞は今が告げるときだと思った。


「わ、わたしは! あなたにお礼を申し上げたかったのです。けれど、家の者には迷惑をかけるから、お近くに寄ってはならぬ、と云われました。わたしはかどわかしにあったことはあまり覚えておりません。誰かの手が細かく震えていたのは覚えています。冷たい手でどこへ向かうのか分らず不安でいっぱいでした。しかし、あなたが男を倒したとき、腕が力強かったことは覚えています。温かく大きな腕で抱きしめられた時、わたしは安堵いたしました。あの日以来、腕の強さばかり思い出すのです」


 誰にも云えなかった。

 半之丞にとって、大きな手とぬくもりが今の自分を支えていた。


 なつかしくて甘い思い出だ。

 家族の者にも話したことのない大切な記憶。


「成沢さん、わたしを助けてくださいまして、ありがとうございました。今のわたしがこうして生きていられるのもあなたのおかげです」


 お辞儀をした後、ほっと力が抜ける。

 目を上げると、忠弥が真剣な瞳で見ていた。


「忘れたのか…」

「え?」

「覚えていないなら、いい」

「あの、何のことですか?」


 半之丞が不安に思って首を傾げると、


「兵馬っ」


 と忠弥が怒鳴った。


「はいっ」


 兵馬が元気よく返事をする。

 忠弥はくるりと背中を向けた。


「素振りの練習をする。お前もするのなら、着替えて来い」

「は、はいっ」


 言葉をかけられ、半之丞は返事をしていた。側にいてもいいのだろうか。

 忠弥ははっきりと物を云う人だと聞いていた。

 迷惑ならそう云うだろう。


 兵馬と忠弥は道場に上がって、素振りを始めた。

 半之丞はその場に立ち止まったままうつむいた。泣くまいと唇を噛みしめる。

 うれしくてたまらない気持ちになる。ぽつっと少しだけ涙が出た。


 忠弥に嫌われていない。それだけでいい。

 

 ぐいと涙を擦り、着替えるため部屋に入った。





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