陽の当たる方へ3
*
ナースステーションの看護士に見送りに行ってくる、と心が断りを入れて病院を出た。外に出て病院裏のベンチに腰掛ける。普段は喫煙スペースになっている場所も、今の時間帯は誰も出ていなかった。弱っている彼を一定の温度に保たれている病室から連れ出すのはいけないことなのかもしれない。俺がいないとき、発作も出たりしたんだろうか。
春の夜空に散らばる星が病院から洩れる光と呼応するようちかちか揺れている。
連れ出したのは、あのどろりとした空気に置いておきたくなかったのもあるからだ。俺達二人まで存在が曖昧になる、問題が切り出しにくい空間にぶれてしまう、そんな気がして。
隣では柔らかな髪が微風にふわりと揺れて頬をさしていた。邪魔くさそうに髪をかき、僅かに俯いた彼の横顔が、会っていない間にずいぶん白くなっていたことを知った。
たった一週間で。
小柄ながら元気で、いつも些細なことではしゃいでいた心が、俺の前からどんどんいなくなっている。弱っていく姿は俺がどうあがいたって止められない気がして。細い指は掴んでも、今までと違う、するりと間を擦り抜けていく。
だって、これは心が望まなきゃ。
「タキさん」
呼びかけられてどき、とした。何も知らないような表情が俺と相反していたから。
「ん?」
「無茶言ってすみません」
「ううん」
そうして、何もなかったように照れ笑い。どうして全部一人で溜め込むんだか。手を伸ばして冷えた指先を握ると軽く返してくれた。こうやって本当の中身も全部吐き出せばいいのに。
「心」
「はい」
さっきみたいに泣けばいい。頑なに俺達の未来を決めて、俺のためだって現実ではそうなのかもしれないけど。夢見てあがくのは、俺のためってどうしてわかってくれないのかな。
冷静な思考回路は、先程の涙でショートを起こしかけたらしい。見せられた真意を無いふりにして隠すのはどうしても出来ない。腹の奥から沸き上がるのは焦燥、それを制御できない感情論。
「猫、飼いたいね」
「急になに言ってるんですか」
「欲しくない?」
「欲しいです、けど……」
「俺ね、家で猫飼うの、夢」
ええ?と少し吹き出して心が頬を引き上げる。笑ってくれれば嬉しいけれど、同時に困らせることも知っている。
「猫、飼って。心と一緒に住みたい」
顔は確かめられない。指の感覚がなくなって、頭のてっぺんが茹だっている。この告白がどんなに恥ずかしくたってそれは俺自身のこと。心はたぶん、苦しいはず。
返事はなく、空しさの篭るため息を聞こえないよう零す。
「夢だもん、ただの。どうせ叶わないんだから気にすんなよ」
突っぱねる物言いで手を離し、立ち上がる。当て付けにしてはすごく意地悪だなって、年上のくせに大人げない自分が余裕なさすぎて嫌になる。だけど、どうしたら同じ方向に向いてる気持ちを無理矢理にでも引きずり出せるかって考えてるんだからな。どうせそう、か細く呼ばれれば罪悪感で一杯になるくせに。
タキさん、と小さく震える音にやり過ぎたんだとすぐに後悔して振り返る。お互いいっぱいいっぱいで真意をまともに伝えられない。
「いかないで」
涙みたいにぽつり、と零してまた腕を掴んでいた。途端に姿を現したのは被せた元気を拭い、顔を出した不安。
弱っている彼にそうさせた、無理矢理に掘り起こすのはただ傷をつけただけで。
どうしようもない。
そう自分を責めながらも、掴まれた腕は無意識に薄い背中へと回っていた。
手を回せばよく知ったあたたかみ、吸い込むと、ゆるく香る心の子供みたいな匂い。取り戻したのは御託を並べる向こうの、ほんとうの思い。どうしてこの言葉が今まで出てこなかったんだろう。
「俺は、頑張りたい」
最初からこうすればよかったのかも。抱きしめて、本当の気持ちを伝えれば。
「……う」
「心と、頑張りたい。これから、ずっと」
それって、諦めるより困難なことだよ。悔しさで仕方なく別れるより、ずっと。
諦めたくない。
首のあたりに頭を埋めて、皮膚の下にある血流で鼻先をあっためた。肌寒い風に対抗する上着で体を包む。こんなにくっついたって、服の上からじゃ心臓の音はわからない。今、血が心臓を逆流しているのだと思うとまるで壊れ物を抱えているみたいだった。背中をなぜて、答えなくてもいいと制する。
俺の我が儘。言いたかったことを口にするとすっきりした。下手な駆け引きも当て付けも、ただ内側に篭らせる苛立ちを増幅させただけだったから。
「た……」
語尾を詰まらせ、うろうろ言葉を巡らせたのちに燕下させる。ごくん、と喉の音が聞こえてきた。
それから、表情が歪んで変わるのは我慢していた糸が弾ける瞬間。苦しくなるのを予想して、ぐ、と胸が詰まった。
ごめん、泣かせたくないのに。
じわりじわり、土に浸透する水のよう。微弱に、八ミリの映画のようにぎこちない動きで心が肩を震わせて頭を垂れた。握りしめる服の皺の数が多くなる。
「ぅ……っく、えっ」
途中でつっかえた言葉は喉の奥に消え、代わりに洪水を起こしていた。怒りながらバシバシ胸を叩いて、少しそうした後に力の入らない手で、恨みでもあるよう服の裾をぎりっと握る。
涙でぐちゃぐちゃの顔を腕で拭うとえづきながら俺を罵る。ひくひく肩を震わせて、それを抑えようとするもんだから呼吸が困難になる。親指の腹で目尻を拭うのを許してくれた。
「なんでっ、そういう、こと……っ!」
溢れたものは涙だけでなくて。
「僕だって、一緒、いたい……っ! ご飯一緒に食べたいし一緒に寝たいよ! でもタキさん、家戻れなくなんじゃん!言わないの、あんたのためなのに、なんでっ、なんで!」
ああ、卑怯だって、後でまた怒られるかな。
俺には何回もずっと一緒にいるのは無理だと言いながら、今、嘘を突き通せず零してしまったように気持ちはそうじゃなくて。突き通そうとする嘘をちくちく突いていたら、傷口の痛みに感情を弾けさせた。
彼を今の痛みに訴えさせることでしか、俺は未来をつくれなかった。
「一緒にいたい?」
その言葉が、どんな約束を作り上げるか。心配しいな彼に手術後も負担をかけるんだって、これでよかったのかって疑問を背負わせると知っていた。
思わず吐き出した言葉を見逃さず拾い、反芻する。これで確約ができた。自分が何を言ったか、心はぼんやり滲んだひとみで探し、そうして涙の痕を一筋つけた。下等星のひかりが目の中に吸い込まれている。
「いようよ。俺のために」
「だから……っ」
「家のことも全部、今から諦めんじゃなくてさ。心にはすごく迷惑かけるけど、俺は諦めたくない」
どんなに重いのか、突っ走っているのか。押し付けになっていたとしても心の“同じ気持ち”ってのを腹の底に沈めて落ち着けている。
いつの間にか互いに熱くなっていた体を離しそっと目を合わせると、涙は止まっていた。どうしたらいいかわからないと訴える瞳に答えるのは、勿論心臓に訴えて流す、俺の卑怯さ。
心はどうしたいの?
なんて、気持ちを汲み取っていた上での優しさを甘んじた形にする勝手。
心が、俺が。背負い合った自分への負の感情も、いつか相殺しあえば。
薄く、無理に口角を上げて見せる。ぎちり、と噛み合わない歯車が胸の中でかけている。頬にそっとあてられた指がそれを止めさせた。口元をほぐすように細い指が押してくる。無表情の彼はあまり見ることが無くて不思議だ。暗がりに抜けた心の息はゆっくり夜空に消える。近距離に立ち上る梅雨のような湿った空気、もしかしたら泣き出しそうなのは俺だったかもしれない。
「タキ、さん」
湿った声が小さく俺を呼ぶ。いつまでもどろどろしたものを抱える俺を見上げて不安げに。眉を潜めるその表情に、なぜだかほっとした。
「うん」
「泣かないで」
怒っているような、でも悲しそうな。そんな色があったのは小さくしゃくり上げていたからだろうか。
「泣いてないよ」
言い聞かせるよう呟いて、疲弊した背中を摩ると背筋が動いた。
なんでそんな顔するんだ、泣きそうなのは自分じゃないか。
触れていた頬から頭へと、男にしては小さな手の平に頭を撫でられている。色を入れたせいで傷んでぱさぱさになった髪。周りには怖いって囁かれて、心には好きだって言われた。
背伸びをして、俺を宥めようとする彼も自分自身を落ち着けられてはいないようだった。
「大嫌いだよ」
髪の隙間にちらっと見えた耳のピアス。夜にもわかる銀でよかった。熱がじり、と頭に向けて浮いていく。泣かないで、と言ったときと同じよう優しい響きがあったのは勘違いだろうか。
「がんばろうとか、一緒に、とか。んな顔したあんたにそんなの言われたらどうすればいいんですか」
怒っているのか開き直った泣き笑いなのか。頷いてよ、と低く唸ると、既に遠回しな肯定を浮かべていた彼は、とうとう決定打を俺にくれたのだった。
黙って首を縦に振る心の姿に絞り上げられてく胸の奥、罪悪感と隣り合わせのそれより強い安寧。
俺は、嬉しい、勿論それもあるけれど。言葉にならない緩やかな時が紡がれていくのだと、ここ数日のせわしなさと現実とに反比するようにどっと流れ込む安心。
安定感、基盤をやっと作れたら。先は見えないけれど、たくさんのよろこび、裏にある無視できないざわめき。全部を込めて建設的に積み上げられる気がするよ。
直接的にではないけれど、交わされた約束は、良いものも悪いものも植え付ける。
だけど。
“どうしたいか”
心に言ったのは自分への肯定を口にしたくて。
俺は今が欲しかった。見えない未来より、少しずつ重ねる心との現在を。
そうして層になったものが、将来、現在になってくれる。
甘いって言われるかな?
「ありがとう」
我が儘聞いてくれて。
ぶすっとして、返事がない。ある意味プロポーズみたいだった、なんて思いながら剥き出しにした内情の後の微妙な恥ずかしさと苦くて複雑な肺に篭る空気が落ち着くまで、じんわり体温を伝え合いながら、紺の雲が渡る空に目を向けていた。
なんとなく銀河鉄道の夜を思い出したけれど、もう、クリスマスのときみたいな気分にはならなかった。
*
面会時間はもうとっくに過ぎて、病室の明かりもぽつぽつ消え始めている。あれからやっぱり思い詰めたよう終始無言でいた心、ぼうっとベンチに腰かけていたけどそろそろ部屋に戻さないと。連れ出してごめん、と手を引っ張って立ち上がらせる。俺はもう病室まで行けないからここでお別れ。
「明日また来ていい?」
「…………」
返事はない。本気でないごめんを呟いて離れる。病院にゆっくり歩を進めるのを確かめて、背を向ける。家に着いたらもう、あとは寝るだけかな。夜飯はいいや。
明日来たら、口聞いてくれるかな。すごく疲れさせたし、何回も泣かせた。それで心臓に負担をかけたなら、俺は相当心の悪弊になっている。粘って、意固地で、今日のことを考えたら先輩面なんてきっとしばらく出来ない。
過ごす時間はあっという間で、濃縮した分離れれば詰まっていた時が溜めていたダムの水みたいに流れ出ていく。
小さく名前を呼ばれた気がして足を止める。幻聴かと思ったけど、それはたしかに俺の言葉を聞いてくれてた証拠。
「……猫、飼おうね」
喉の奥を詰まらせた声に耳を傾けて。きっと仏頂面でいるんだろう彼に聞こえるようにうん、と答える。背中を向けたままだけど、きっとわかるよな。
だってこんなにあたたかな痛みが肺を締め付ける。ゆるゆると柔らかな糸に繋がれているよう、それはずっとこころにある愛おしさ。
形にならない不変はまるで土曜の夜のように、部屋に持って帰ろう。




