決めごと1
浅く積もった雪を踏み付けて、べしゃべしゃの泥水に変えてやった。水に変わる瞬間を見るのは、発泡シートを潰すみたいに無意味な楽しみだ。
刺すような寒さにきゅ、と心臓が絞まると、臓器じゃなく胸がどきっとする。
最近少し、苦しくなってきた。
心臓の異常はずっと落ち着いていたから日常生活に支障は全然無くて。心電図検査のは、あんなの本質の持病では無いから疾患でも何でもない、気になんかしていない。
ただ、前から持っていた方が少しでも悪くなるんじゃないかって思うとどうしようかな、って。
あんまり医者に行きたくなくなる。あそこの先生とはちょっと検査して、異常無いねって、毎回お喋りして終わるから。
微妙な異変でもそれが壊れるんじゃないかって考えたらただ、不安。
ああ、なんか変な感じ。
血が逆流って、図を交えて医学的な説明をされると擬態語として使うぐるぐる、とかぎゅっとなる、とか。慣れた言葉が嘘のものみたいに感じる。
春が近付いてきた。三月まであと二日。空気の冷たさは全然実感を伴わないんだけど、学校でのどこかたまに喧騒が遠くなる一時の騒がしさとか、就職が決まり三年生のいない校内だとかがああ、そろそろ別れの季節なんだなあって。三年生が卒業して、今の二年生が進級したらカウントダウンが始まるんだ。
タキさんとのサヨナラ、までの。
口にしたらきっと、あの人のことだからバカだなって言って何もなかったことにするんだろう。
だけどそれは嫌なんだ。まだまだ人生って先が長いよ。あと何十年ある?僕より長く生きるはずだ、ちゃんと後継いで、タキさんは立派な会社守って。
いい人生があるんだから僕でふいにしたくない。心臓の荷物をあの人の荷物にもしたくない。
むっとしたけどあの人、ユイさんが言ってた言葉は本当だと思う。いつまでそうしてるのって、僕らのこと。
ちゃんと、高校卒業までって決めたんだ。それ以上を続けたらきっと離された時に辛くなる。区切れる場所でって、決めておいた。
それまでは楽しく過ごす。あんまり文句言わないようにするし、タキさんが僕となんかしたいって言うなら拒まない。別れてもいい思い出ばっかで充たされてればいいな。
そんなことを思いながら、土曜の病院は終わり、恒例のお泊りのためにその足でタキさんちに向かった。
「こんにーちわー病院行った?」
「行った行った。お邪魔しまーす」
インターホンを鳴らすと下は灰色のスウェット、上はTシャツ姿の部屋着のタキさんが出てきた。重厚な扉を押し開けて部屋に入るとぬくい空気が冷えた耳や頬を暖めてくれる。
もうこの部屋に来るのも慣れたもので、なんだか家デートって言うより感覚としてじいちゃんちか親戚んちに帰って来たみたい。
てゆーかタキさんもう家族みたいだもんなあ。
マンネリ……は無かったらいい。最初からこんなんだししようがなさそうだけど。
けど、もちょっと格好くらい気をつけてくれたって。気にしなすぎだろ……。ホラ、腹なんて掻いてるし。
「タキさん、買い物しに行こう」
「夕食の食材?」
「はい」
ホントはそれを口実にちゃんとしたカッコしてほしかっただけ。外は寒いからちゃんとした服を着るはずだ。いいよ、と告げられ玄関で待っていると出て来たのはさっきとほぼ変わらないその人だった。変わったのは、ただ黒いジャケットを上に羽織っていただけで。
「適当……」
「いいじゃん、近いんだし」
そんなもんなのかな、僕に対して手抜きだって思うのは気にしすぎ?
気を遣うとか、そういうのがどんどん薄まってくのが僕への気持ちだったらと不安が募る。財布を手にしてマンションを出ると冷たい風が吹いて、盛大なくしゃみが出た。そんな時はいつもタキさんがティッシュを差し出してくれるのだけど、今日はそれがなかった。平生が優し過ぎるからだろうか、そんな細かい所作が無いだけで怖くなる。心配になる。
寒いから喋りたくないのかな。スーパーに向かうまでずっと無言だったから声をかけるのが躊躇われた。
一方的に不安の雲が立ち込めると、もうダメ。なかなか自分では直せない。
「夜何食べる?」
カゴを持って店内をぷらぷら歩いて見て回る。タキさんに聞かれたけど晩御飯は何にするか決めていなかった。
「うーん、シチューとか?なんか最近汁物多いですよね」
「お好み焼きー、タコ焼き?もんじゃは」
安くなっていた粉物をチラ見したタキさん。週一ですら何にするか困るのに、毎日毎日献立考えて、母親って大変なんだなあと思う。勿論僕らに作れるメニューが少ないってのもあるんだけど。
「あ!じゃあ鍋は?寒いしさあ」
「いいかも。じゃあ鳥肉買うか、野菜まだあるし」
ぐるりと方向転換して肉のコーナーに向かった。高校生男子がスーパーで買い物ってどうなんだこれ。回りのお客さんは土曜の夕方のせいか家族連れや夫婦が多い。食材を選びながら何か話している様子、こういうのが幸せって言うんだろうな。
これ買おう、と玩食コーナーでタキさんがミニチュアの昭和名物シリーズを一通りカゴに突っ込もうとしていたので止めさせながら、じゃあこういうのも幸せなんだろうなあってうっすら考えていた。すっかり夫婦みたいだとか思ってるあたり相当恥ずかしい奴。




