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第六章① ソフィー

「これは報酬だ。この金で酒場にでも行け。ただし、俺たちもそこにいるかもしれない――それだけは、覚えておけ」

 貿易船の甲板。ルキフェルは船長をはじめ、船乗りたちに一袋分の金貨を分け与えた。

 先ほど、横領した船長室で帳簿を確認したから、働きに見合った以上の金額は出したつもりだ。

 だが、念のため脅しも添えておく。

 船乗りたちは元より怯えていたが、その一言でさらに縮こまった。

「は、はいっ……あの、あなた様には頭が上がりません……どうかご勘弁を!」

 かつては高圧的だった船長でさえ、今は見る影もない。

 ルキフェルは踵を返し、縄梯子を軽やかに伝って船を降りる。仲間たちは先に桟橋で待っていた。横付けされた小さな貿易船——自分たちの足代わりにしていたそれは、もはや不要だ。貿易商たちに譲ってやることにした。

「悪い、待たせた」

 縄梯子を降りてきたルキフェルが短く言った。

「いんや。ところで、奴らにはなんて言ったの?」

 ジャスパーが肩をすくめる。ルキフェルは縄梯子の先を見上げて一言放った。

「御礼を言っただけだ」

 その御礼の意味を察して、マテオが鼻で笑った。

「あー、やっと着いた! 思ったより長旅だったなー」

 真っ先に伸びをしたのはコリンだった。

「まずは宿を探さなきゃね。やっぱカルロータさんのところかな?」

 ニールが当然のように言う。

 コリンとニールを先頭に、一行は市場通りを抜けてゆく。

 トルチュ島の市場通り——キャプテンストリートは、かつての戦利品市の名残を残す賑やかな商業地区だ。各国の食料、香辛料、装飾品、武器まで何でも揃う。ここでは通貨よりも物々交換が主流。島には世界中からあらゆる言語と文化が持ち込まれており、それぞれが売り買いに長けた手段で応じている。

「カルロータさんって?」

 ソフィーが問いかける。

「昔から世話になってる宿屋の主人だ。この市場を抜けて、少し歩いた高台に宿がある。景色もいいんだぜ」

 マテオが笑う。長らく海上にいたせいか、陸に降りたソフィーはしばらく足元がふらついていた。

 日がまだ沈まぬうちから、トルチュ島は夜の首都の名に恥じない喧騒を見せ始めていた。酒、音楽、踊り、女——浪費を愛する海賊たちがこの歓楽街に活気を与える。だが一方で、遠くには旧砦跡地があり、今も見張りたちが屋上に篝火を焚いて秩序の灯を守っていた。

 今や海賊はヨーロッパ中で忌み嫌われる存在だ。

 フランスでは害獣扱い、スペインにとっては目の上のたんこぶ。イングランドは内政に追われて無関心。私掠船許可証の失効以降、海賊は正真正銘の無法者となった。

「着いた、ここだ」

 坂道をうねるように登った高台の上に、ルキフェルが指差したのは水色の外観が印象的な中規模の宿屋だった。ソフィーが看板をちらりと見上げる。


 BUENAS NOCHES SOL

 おやすみ、太陽さん


 太陽に込められたバックボーンを想像して思わず吹き出しそうになる。

「このネーミング、分かってくれる人がいて嬉しいねえ」

 看板を見上げて吹き出しかけたソフィーに気づき、ジャスパーが笑った。

「僕らがトルチュに来る時は、いつもここなんだ」

 ニールが言った。

「ここの女将さん、誰にでも優しいんだよ。元々、亡くなった旦那さんと二人で始めた宿なんだって」

 コリンが少し誇らしげに補足する。

「先に休んでいてくれ。俺は管理人の屋敷へ顔を出す」

 ルキフェルが淡々と言った。いつもの調子だが、その声にはわずかな緊張が混じっているようにも聞こえた。

「管理人って……?」

 ソフィーが小さく首をかしげる。

「トルチュ島の運営を担ってる一族さ」

 説明したのはニールだった。いつも通り穏やかで、どこか誇らしげな声音。

「元バッカニアの末裔で、中立を掲げて秩序を保ってる。島の裏の顔も表の顔も知ってる人たちだよ」

 ニールは一瞬考えるように視線を上げ、やがて納得したように微笑んだ。

「そっか……フランソワ船長も、彼らとは仲良しだったもんね」

「そういうことだ」

 ルキフェルは短く頷く。

「ちゃんと、俺の口から報せておかねばな」

 そう言い残すと彼は踵を返した。

「部屋は早いもん勝ちだからな!」

 マテオの声が飛ぶ。

 ルキフェルは振り返りもせず、片手をひらりと上げただけだった。知るか、と言いたげな背中が坂道の下へと消えていく。

「カルロータさーん! こんばんはー!」

 宿の扉を押し開けた瞬間、コリンの弾んだ声が建物の奥まで響いた。間もなく奥の部屋から軽快な足音がして、日焼けした勝気そうな女性が勢いよく姿を現す。腰に手を当て、こちらを見渡すその目は鋭いのに不思議と温かかった。

「あらまあ! 久しいねぇ!」

 ぱっと顔を輝かせ、声を張る。

「今日はあんたたちしかいないから、好きな部屋を取ってっていいよ! 夕食の準備もすぐするからね!」

 その場の空気が一瞬でほぐれた。強くて、朗らかで、迷いがない。包容力があるのに、甘やかしすぎない。

 ソフィーはなぜか胸の奥がふっと緩むのを感じていた。

 ——アニータに似ている。でも、どこか違う。この人は守る側の人だ。

 ぼんやり見つめていると女性と目が合った。

「あら?」

 カルロータはにやりと笑い、視線をソフィーに向ける。

「そちらの美人さんは?」

「新しい仲間だよ」

 間に入ったのはジャスパーだった。

「お医者さんなんだ」

「まあ!」

 カルロータの目が興味深そうに細められる。

「はじめまして」

 ソフィーは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。

「ソフィーといいます」

「こちらこそ。私はカルロータ」

 カルロータの声は驚くほど柔らかい。

「困ったことがあったら、遠慮なく言ってちょうだい。ここはね、疲れた人間が一息つく場所だから」

「……ありがとうございます」

 その一言を交わしただけで、ソフィーの肩から力が抜けた。

 久しぶりに同じ年頃の女性ではなく、大人の女性と話した気がした。自然と笑みがこぼれる。

 その後、一同は二階へと上がり、案の定、部屋の取り合いが始まった。

「レディーファーストだろ!」

 マテオが胸を張って言い放つ。

「はいはいはいはい!」

 すぐさまジャスパーが軽く手を振り、話を畳みにかかる。

「ちょ、ちょっと待って」

 ソフィーが慌てて割って入った。

「そんな……悪いよ。私はどこでもいいから……」

 遠慮がちな声に、四人が一斉に振り返る。

「だめだめ」

 ニールが即答した。

「ここ、一番いい部屋だから」

「ベランダ付きだし」

 コリンも頷く。

「風通しもいいし、街も海も見えるしさ」

「それに」

 マテオが付け足すように言った。

「ここまで無茶な航海に付き合わされて、文句一つ言わなかったのはソフィーだろ?」

「医者は体力勝負なんだよ」

 ジャスパーも肩をすくめる。

「休める時に、ちゃんと休ませないと」

 言い逃れの余地がない。

 ソフィーは一瞬言葉を探し、やがて小さく息をついた。

「……わかった」

 少しだけ頬を染めて頭を下げる。

「ありがとう。……本当に」

「よし、決まり!」

 コリンがぱっと笑う。

 こうしてソフィーには、ベランダ付きの部屋があてがわれた。木の温もりに包まれた寝室。磨かれた床板は柔らかく、潮の匂いを含んだ風がカーテンをわずかに揺らしている。窓の外には海と街が一望できた。紫陽花色を含んだ夕陽が、ゆるやかに街の上へと広がっていく。白い家々の屋根が淡く染まり、遠くの港では、まだ一日の名残を惜しむように人の声が弾んでいた。

 ——ここが、海賊の楽園。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ緩む。戦場でも、軍艦でもない。命を選別される場所でもない。ただ「今は休んでいい」と、そう言われている気がした。

 やがて、控えめなノックが扉を叩く。

「夕食ができたよ。冷める前においで」

 カルロータの声だった。その一言だけで不思議と緊張がほどける。

 食堂には、すでに湯気と笑い声が満ちていた。香草の匂い、焼いた肉の香ばしさ、皿を置く軽やかな音。

「今日は魚のシチューさ。航海帰りには、これが一番だよ」

「待ってました!」

 コリンが真っ先に声を上げ、ジャスパーがそれに続く。

「やっぱカルロータさんの飯は違うな。生き返るぜ」

「ほらほら、喋ってないで座りな。パンもあるよ」

 賑やかなやり取りに、ソフィーは思わず笑みをこぼした。気づけば、ここでは誰も彼女を軍医殿とも、捕虜とも呼ばない。一緒に食卓を囲む仲間として扱ってくれる。

「……美味しい」

 素直に漏れた言葉に、カルロータは満足そうに頷いた。

「それはよかった。いっぱい食べな。細い身体してるんだから」

 その一言が胸の奥に静かに沁みる。久しぶりに、誰かに心配される側でいられた気がした。笑って、食べて、たわいない話を交わしているうちに夕陽は完全に水平線の向こうへ沈んでいった。そのうち、ソフィーはふと気づく。

「……ルキフェルは?」

 ソフィーの問いに一瞬だけ間が空いた。

「管理人の屋敷だろ。話が長くなるんじゃねぇかな」

 マテオが気にする様子もなく言い、ニールが穏やかに頷く。

「戻る頃には、夜も深いだろうね」

 それ以上、誰も話題にしなかった。まるで、それが当たり前であるかのように。

 やがて食卓は片付けられ、それぞれが部屋へ戻っていく。

 ソフィーも礼を言って二階へ上がり、ベランダ付きの寝室に戻った。窓を開けると、夜の海が静かに呼吸している。遠くから酒場の音楽と笑い声が微かに届いてきた。ベッドに身を沈め、目を閉じる。張り詰めていた神経がようやく眠りへと落ちていく。

 その夜。ルキフェルが宿へ戻ってきたのは、皆が寝静まった後だった。


 柔らかな光がカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。

 ソフィーはゆっくりと目を開ける。船の上とは違う、揺れのない床。木の香り。遠くから聞こえる人の声と、どこか陽気な音楽の名残。

 ——朝だ。

 昨夜は久しぶりに夢を見ずに眠れた気がした。ベッドを抜け出し、顔を洗い、簡単に身支度を整える。鏡の中の自分は、少しだけ表情が柔らいで見える。深呼吸して部屋の扉を開いた、その瞬間だった。向かいの部屋の扉もほとんど同時に開く。

「ああ、おはよう」

 何の気負いもない声。そこに立っていたのは、ルキフェルだった。

「……えっ」

 思わず声が裏返る。彼の方から、しかも自然に挨拶をしてきた。それが、あまりにも予想外で。

「……お、おはよ」

 慌てて返すと、ルキフェルは一瞬だけ目を細めた。いつもの無表情より、ほんのわずかに柔らかい。

「よく眠れたか」

「う、うん……」

 ソフィーは彼を見上げて首を傾げる。

「……なんか、雰囲気……違うね」

「ん?」

 ルキフェルは短く返事をすると、顔に垂れていた前髪を無造作に掻き上げた。長めの髪が指に絡み、露わになる額と隠しようのない無数の傷跡。オールバックに整えられたその顔はいつも以上に無防備で、この島の空気に妙に馴染んでいた。

「ああ、多分これのことだな」

 あっさりと言って彼は肩をすくめる。

「この島じゃ、誰も傷だらけの顔なんか気にしない」

「……」

 ソフィーは言葉を失った。心配すべきなのか、何か返すべきなのか分からず、ただ視線が泳ぐ。そんな彼女を一瞥して、ルキフェルは踵を返した。

「ほら、朝飯行くぞ」

「あ、ちょっと!」

 慌てて後を追い、二人は階段を降りていく。

 食堂にはすでに仲間たちが集まっていた。焼き立てのパンの匂い、果物の甘い香り、湯気の立つスープ。

 カルロータが忙しそうに立ち回りながらも、彼らを見てにっと笑う。

「おはよう!よく眠れたかい?」

 賑やかな朝食は思いのほか穏やかだった。冗談を言う者がいる。

「いやあ、それにしてもだ。陸に上がった途端、飯がちゃんと温かいってだけで感動するよな」

 ジャスパーがパンを片手に笑う。

「船じゃあ、朝飯が昨日の名残ってことも珍しくないからな」

「それは言い過ぎだろ」

 マテオが鼻で笑うが、否定は弱い。一方で黙々と食べる者もいる。

 ルキフェルは無言で皿の料理を口に運びながら、視線だけで場を眺めていた。会話の流れ、誰が何を食べているか、誰が手を止めたか。そこに参加するでもなく拒むでもなく、俯瞰するように。

 そして、さりげなく動く者。

「……はい」

 コリンが何気ない顔でソフィーの皿に料理を足した。

「ちょっと待て」

 それを見逃さなかったマテオが、やや本気の声で言う。

「おいガキ。出されたもんはちゃんと食え」

「だって……」

 コリンは視線を逸らし、ぽつりと返す。

「レーズンは、どうしても苦手なんだ」

「出た」

 すかさずジャスパーが指を差す。

「コリンのレーズン嫌い」

「嫌いっていうか、理解できないだけだよ」

 コリンはむすっとしながら続ける。

「なんでさ、新鮮な果物をわざわざ乾燥させたりするの? 水分なくして、甘さだけ凝縮させて……意味がわからない」

「でも、保存食としては昔から重宝されてるよ」

 ソフィーが控えめにフォローを入れる。

「ええ……」

 コリンは露骨に引いた顔をした。

「それ、余計に怖いんだけど」

「ちなみに」

 そこでニールが待ってましたとばかりに口を開く。

「レーズンは古代からある保存食でね。乾燥させることで栄養価が保たれるし、航海中の貴重な糖分源でもあった。ローマ時代には——」

「いや、いい」

 コリンは即座に手を振った。

「理屈は分かった。でも好きになる理由にはならない」

 ニールは少しだけ肩をすくめ、楽しそうに笑う。

「合理と嗜好は、必ずしも一致しないからね」

 食卓にはくすくすと笑いが広がった。

 ルキフェルはその様子を、皿の端を静かに片付けながら見ていた。

 この空気。この距離感。——悪くない、と心のどこかで思いながら。

 食後、誰ともなく話題が切り替わった。

「せっかくだし、今日は街に出ようぜ」

 マテオが椅子に背を預け、楽しげに言う。

「賛成。トルチュは昼も面白いよ」

 ニールが頷きながら補足する。一瞬、皆の視線がルキフェルへ向いた。彼は静かに立ち上がり、短く答える。

「俺は行かん。鍛錬してくる」

「えー?」

 コリンが露骨に不満そうな声を上げる。

「相変わらずだな」

 ジャスパーは肩をすくめ、どこか呆れたように笑った。それ以上、誰も引き止めなかった。

 それがいつものことだから。

 こうして朝食を終えた一同は、ルキフェルを除くメンバーで島の歓楽街へと遊びに出かけた。

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