第五章④ ソフィー&五人組海賊
それから一週間。
予期せぬ無風状態に、航行は足止めを食っていた。とはいえ食料や水の備蓄は十分で、人数の少なさがここではむしろ利点として働いている。
昼下がりの甲板は、驚くほどのどかだった。穏やかな陽光が降り注ぎ、時折吹く小さな風が船体を撫でる。仲間たちは昼寝をしたり、網の手入れをしたり、思い思いに時間を潰している。
ソフィーは陽のよく当たる甲板の片隅に腰を下ろし、膝の上に古びた軍服を広げていた。今着ているシャツは、この船の元の持ち主——貿易商たちのものだ。針先が布を滑るたび、指先に小さな緊張と集中が走る。……少なくとも、切るよりは好きだ。
「ほう……なるほど。軍人様は、針仕事もこなせると」
聞き慣れた声に顔を上げると、ニールがいつの間にか近くまで来ていた。涼しげな顔で片手には食べかけのリンゴ。
「意外だった?」
ソフィーが手を止めずに訊ねる。
「ちょっとね。てっきり、裁縫は誰かに任せるタイプかと」
ニールは肩をすくめた。
「子どもの頃、仕込まれたのよ」
「ほう……つまり今やってるのは、貴族教育の名残?」
からかうような声音。
「まあ、途中で投げ出したけどね。でも——」
ソフィーは針を進めながら、ふっと笑った。
「身体を縫うよりは、ずっと楽よ」
「身体……?」
ニールが眉をひそめる。
「怪我の治療。私は切断より、針で縫って治す方が得意なの」
ソフィーは淡々と続けた。
「切らずに繋げば、身体も心も少しだけマシになるでしょ?」
「なるほど。確かに、君らしい治し方だ」
ニールはリンゴを一口齧り、しばらく無言で彼女の手元を眺めていた。その視線を追っているうちに、ソフィーは彼のシャツの袖口に気づく。ほつれた糸が心許なく垂れていた。
「……そこ、ほどけてる」
「え? あ、ほんとだ……気づかなかったな」
ニールは自分の袖を覗き込む。
「脱いで。直してあげる」
「えっ、ここで?!」
思わず声が裏返る。
「大げさね。袖だけよ」
ソフィーは針に新しい糸を通しながら言った。
「べつに、全部脱げって言ってるわけじゃない」
観念したようにニールは腕を差し出した。
「こんなふうに手先が器用な人って、なんかずるいよね」
「言い訳しないの」
ソフィーは口元だけで笑う。
「ボタンすらまともに縫えない航海士さん」
「耳が痛いです、先生」
二人は小さく笑い合いながら、ソフィーは丁寧に袖口を直していく。ついでに彼が気づかない程度の小さな刺繍を、一針だけ加えた。
「ほつれ直してくれたの、すごく助かったよ。袖がちゃんと落ち着く」
「……それだけ?」
ソフィーは顔を上げずに言った。
「ん? ……他に何か?」
わざとらしく、ため息。
「ついでに刺繍、入れておいたのに。気づかないなんて、鈍すぎ」
「えっ、どこどこ……」
ニールは慌てて袖を覗き込む。
「あ、これか! ちっちゃいな……何これ? 葉っぱ?」
「よく見なさいよ。ツバメ」
ソフィーは静かに答えた。
「航海の無事を祈ってのつもりだったのに」
「……ああ」
ニールは一瞬、言葉を探すように黙ったが、割とすぐに口を開いた。
「そう言われると、急に大事に思えてきた。ありがとう、ソフィー」
照れたような笑み。いつもの作り物めいた爽やかさはなく、素の表情だった。
ソフィーも思わず微笑み返す。海風が吹き抜け、シャツの裾をふわりと揺らした。その布は、軍服よりずっと軽やかに彼の体に馴染んでいた。
「それにしても、その軍服、ずいぶん手をかけてるんだね。まだ捨てたくないのかい?」
ニールの何気ない問いに、ソフィーは一瞬だけ手を止めた。
「……うん。まだ制服の感覚が抜けないのかもしれない」
そう答えながら膝の上に広げた軍服を見つめる。ほつれた袖、擦れた胸元。何度も縫い直した跡が、かえって未練のように残っていた。
「似合ってるとは思うよ、軍服」
ニールはそう前置きしてから、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「だけど」
その間にソフィーは視線を上げる。
「そろそろ、その服、脱いでみたら?」
「えっ……」
思わず声が漏れた瞬間、ニールは慌てて両手を振った。
「違う、そっちの意味じゃないよ!」
その必死さにソフィーは吹き出しそうになる。
「僕が言いたいのはね」
ニールは少し照れたように頭をかく。
「君自身が変わろうとしてるなら、それに見合う服を着た方がいいってこと。たとえば、もう少し柔らかくて、風を通すような布の服とか」
「……優しい布?」
ソフィーが小さく聞き返すとニールは頷いた。
「うん。今の君には、そんな服がきっと似合う」
ソフィーは答えず、視線を自分の手元に落とした。
縫い針を持つ指先。これは誰かを治す手。誰かと繋ぐための手。
軍服が象徴していた威圧や誇りとは少し違う在り方だ。
「……考えてみるわ」
そう言うとニールはにっこりと笑った。
「もし作るなら、僕のシャツも一枚お願いね。なんなら、新しい君の服の試作品でもいいよ?」
「自分のは自分で作りなさいよ」
「えー、ひどいなあ」
肩をすくめながらも、どこか楽しそうに言う。
「ほら、針子の指導も貴族教育の一環だったんでしょ?」
その冗談めいた声に、ソフィーはつい笑ってしまった。
昼下がりの光が針先に反射してきらりと光る糸はしなやかに布を通っていく。風が吹き、どこからか海鳥の鳴き声が聞こえた。
針と糸で繋げるのは、布や肌だけじゃないのかもしれない。ふと、そんな気がした。
昼食の後、船長室に集まった六人。海賊たちは、嵐のない静寂の海に足止めされていた。
風が吹かない。帆は膨らまず、船は動かない。広大な大西洋、だがもうすぐでトルチュ島が見えてもおかしくない。それなのに一向に姿を現さない。
雲は薄く、波もない。けれど船の中は、嵐の前よりずっと張り詰めた空気でいっぱいだった。
「……もう五日も無風か。潮もほとんど動いてねえ」
ジャスパーが壁にもたれて口を開いた。
「水と食料、この暑さの中ではすぐに限界がくる」
マテオは唸りながら報告した。
「帆も索具も船体も、異常ありません。整備は……完璧なはず」
コリンが不貞腐れたように言う。
「わかってるぞ、コリン。あんたの仕事に文句なんてない」
そう言ったけれど、ジャスパーの肩はわずかに揺れていた。こんな状況にも関わらず笑える余裕があるとはたまげた。
「…で、ルキフェル。呼び出したってことは、打開策があるってこと?」
ジャスパーが問うと、ルキフェルは机に広げた海図の上をじっと見つめていた。やがて、静かに指を動かす。
「東にいる船だ。今朝、コリンが確認したな? 単独の貿易船。俺たちの船より一回り大きく、帆も多い。性能も上だ」
低く抑えられた声には、慎重な響きがあった。
「ルキフェル、まさか」
ジャスパーは一歩踏み出した。冗談で済ませたい響きは、もう声に残っていない。
「——襲う気かい?」
ルキフェルはゆっくりと顔を上げた。その瞳は真っ直ぐだった。
「正面から挑んでも、勝ち目はない。なら、味方のふりをすればいい」
沈黙が落ちた。誰も、すぐには口を開けなかった。
「つまり、偽装か」
マテオが言った。軽いようで真剣な声。
「どこかの旗を真似て、近づいて、油断させるってわけだな」
「偽るってことは」
コリンは口にせずにはいられないと言わんばかりに喋る。
「ぼくたちは、その海賊団の名を騙すってことだよ」
彼は言葉を切り、拳を握った。
「罪のない乗員から奪うだけじゃなく、誰かになりすますなんて……それって、二重に罪を犯すことになるよね」
「コリンの言う通り」
ニールがコリンに同意した。
「でも、誰かを騙してでも生き延びなきゃいけない時が、ある」
ニールは視線を伏せたまま続けた。
「今回は……たぶん、それ」
その途端、彼は一枚のスケッチを机に置いた。
黒地に、白い髑髏と三本の剣。周囲に舞う羽根のような意匠。
「エドガー・ロジャース海賊団の旗か」
ルキフェルがスケッチを見て呟く。
ソフィーは思わず息を飲んだ。
エドガー・ロジャース。イングランドの大海賊だ。あの旗を…この手で作る?
「エドガーは、この海域で名の知れた古株だ」
ルキフェルの声に、ふっと皮肉が混じった。
「つまり、あいつらの名を借りれば船乗りどもは簡単に信用する」
「エドガー・ロジャース、か」
マテオが呟くように言った。
「マジかよ、あの人の名を騙るのか?」
その名前は、ただの海賊団の頭ではない。
海に生きる者なら誰でも知っている。
エドガー・ロジャースは、かつてフランソワ船長と並び称された大海賊。
理想を語り、仲間の自由と信念を掲げた誇り高い若者だった。
……だが今は、違う。大海賊フランソワとは最高の悪友であり、親友同士でもあった。
彼が生きている限りヨーロッパの海に平穏は訪れない。
「あいつは今も昔も、力こそ正義って考えだ。支配のためなら、仲間すら使い潰す」
そう言ったのはルキフェルだった。遠くを見るような目で、まるで過去の亡霊を語るように。
「……あの頃のエドガーを知る連中からすりゃ、簡単に名を借りていい相手じゃねえな」
低く受けたのはマテオだ。苦い酒を噛みしめるような声音だった。
「なあ……それ、本当にやるのか?」
ジャスパーが口を開く。彼の声には、珍しく迷いが混じっていた。
「そんな奴の半身の証を、おれたちが勝手に使ったら……」
その旗を掲げるという行為は、ただの嘘じゃない。過去に生きる男の誇りを踏み躙ることにもなり得る。
「……それ、バレたらどうなるかわかってるよな?」
ジャスパーが目を剥く。
「おれたち全員、エドガーに狩られるって話だぞ?」
「そんときゃ」
軽く肩をすくめて、マテオが言った。
「演技が足りねえってことだろ?」
一瞬、場の空気が緩む。
「エドガーの船員ども、どんな奴らか覚えているか?」
全員の視線がマテオに集まる。ソフィーだけ首を傾げた。
「あいつらな……妙に芝居がかってる。口調も態度も、俺たちは恐れられて当然って前提で生きてる連中だ」
「……真似できる、と?」
ニールが静かに問う。
「完璧じゃなくていい。それっぽく振る舞えりゃ、連中は信じる」
そのときだった。
「いざとなったら——」
ルキフェルの低く、凛とした声が落ちた。
「俺も出よう。この顔を見て、従わなかったやつはいない」
……沈黙。誰も、すぐに言葉を返せなかった。
冗談なのか、本気なのか、判断に困るいつものルキフェルの自信。
「…………」
「………………」
空気が微妙に気まずく固まる。その沈黙を切ったのはニールだった。
「……じゃあ」
彼は淡々と、紙と鉛筆を取り出す。
「旗は僕が下絵を描くよ。布地は、この古い帆を切り出せば質感も近い」
現実的な言葉に、場の緊張が少しだけ緩んだ。
「細部の汚れや日焼けも再現すれば、ぱっと見は本物に見えるはずだ」
「針仕事は、私に任せて」
即座に答えたのはソフィーだった。誰よりも早く、迷いなく。
「あ、ぼくも手伝うよ!」
コリンも一歩前に出る。その様子を見て、マテオが小さく眉をひそめた。
「……おい。ソフィー、本気か?」
彼女の横顔を見て、ニールはわずかに笑う。
「大丈夫だよ」
そう言って静かに続けた。
「彼女、本気の目をしてる。生半可な覚悟じゃないって、もう分かってる」
ソフィーの指はすでに布に触れていた。
もう決まってしまったのなら、せめてこの手で。
針先に伝わる緊張。だが、指は不思議なほど自然に動いていく。
黒い旗は、「降伏すれば命は助ける」という暗黙の合図。
だが同時に、抵抗すれば容赦はないという最後通告でもある。
この針が縫い付けるのは、ただの布じゃない。
生き延びるための願いと、誰かの名誉を汚すという罪。
ソフィーはそれらすべてを一本の糸で静かに縫い合わせていった。




