第五章③ スザンヌ……とルキフェル
庭園を彷徨っていたスザンヌは、噴水の縁に腰を下ろしていた。
陽光にきらめく水面を見つめながら、あの日の記憶を追い払おうとしていた。だが、何度目を閉じても、あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
「——あ、いたいた!」
突然、明るい声が背後からかかった。
振り返ると、ふんわりとした栗色の髪を揺らした少女が立っていた。
いつからそこにいたのか、まるで気配を感じなかった。
「リゼーヌ……?」
「こんにちは、スザンヌさん。午後のお茶会にお誘いされてたんだけど、両親が急用で来られなくて。代わりに私が」
リゼーヌ・ボルド。ブルボン家の遠縁にあたる、正真正銘の上流貴族。スザンヌとは幼い頃からの知り合いで、気の置けない友人だった。
「そう……久しぶりね」
「うん、あのね、実は私……スザンヌさんと同じ部隊に配属されたの」
「やっぱり、そうなると思ってたわ」
「しかも、航海天文学士として! もうあんまり必要とされない役職だけど、我儘を通してね」
どうやら、採用担当の手に負えず回されてきたらしい。二人は並んで歩きながら、部隊の近況について話し合った。
「謹慎、長引きそうよ」
「はい……それに、行方不明の軍医さんも」
リゼーヌが重い口調で言う。
「……スザンヌさん。一ヶ月前の任務、相当厳しかったと聞いています。警備隊が全滅、マクシミリアン隊にも多数の負傷者、そして……」
「ええ。地獄みたいだった。私は途中で気を失って……気づいた時には病室にいたの」
「今も体調が優れないそうですね」
「もともと体質的に貧血気味だったの。まさか、任務に支障が出るとは思っていなかったけど。頭を少し打っただけだったのに、こんなにも引きずるなんて」
二人はそのまま、お茶会へ向かって歩を進める。
その直後、屋敷の玄関口で使用人たちが何かにもめている様子が目に入った。騒ぎの中心にいたのは、見慣れた顔だった。
「……ジョルジュ?」
思いがけない再会に、二人は目を見開いた。
ルキフェルは、ひとり静かに本を読んでいた。
月明かりに照らされた洋書のページをゆっくりとめくりながらも、頭のどこかでは別のことを考えている。ふと視界の端に、棚に掛けたままの帽子が映る。
それは、フランソワが生前かぶっていたものだった。
見慣れた形のはずなのに、今日はやけに目に障る。
ルキフェルは本を閉じて息を吐いた。心を落ち着けたくて読んでいたはずの物語は、もはや慰めにもならなかった。椅子を離れてベッドに身を投げる。潮の香りに混じって、船体がゆっくりと軋む音が聞こえてくる。その微かな揺れと音のリズムに身を委ねていると、意識は次第に夢の中へ沈んでいった。
——その顔は、人に見せない方がいい。
かつて、フランソワがふと漏らした言葉が、夢の中で鮮やかによみがえる。
若かった。自分の苛立ちをどう処理していいかもわからず、誰かにすがるしかなかった。
あのとき、彼が海に出ると知った瞬間、理性も誇りも投げ捨てて叫んだ。
——行かないでくれ、俺はあんたについていく!
惨めで、みっともない声だった。夢の中でさえ、そのときの自分が恥ずかしくて、情けなくて、どこかに隠れたくなった。
そして、その声に追い立てられるように現実の意識が急浮上する。
目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗く、外では静かに雨が降っていた。
さっきの夢の細部はもう思い出せない。けれど、胸の奥に残った感触だけは消えなかった。
ルキフェルは、ぼんやりと窓の外に目をやる。
雨粒が船窓を叩いては滑り落ちていくのを、ただ見つめていた。
なぜ、こんなにも雨の日は昔のことを思い出させるのだろう。
濡れた髪、湿った空気、そして……あの人の笑い声。
思考がまとまりきらないまま、ルキフェルは部屋を出る。
甲板にはジャスパーがしゃがみこんでいた。シャツもズボンもびしょ濡れで、雨の中、肩を落としている。
「スコールにやられたか?」
声をかけると、ジャスパーは気怠そうに顔を上げた。
「……あんなに晴れてたのに、さ」
その様子に、ルキフェルはほんの少しだけ口元を緩める。だが同時に思った。
鋭敏な感覚を持つジャスパーですら、天候の変化を読めなかったのか——この世界の気まぐれさには、誰も抗えない。
やがて雨は弱まり、空の色がわずかに明るんできた。
その頃、船底からコリンとニールが姿を現す。濡れた甲板とジャスパーを見て、ニールが軽い調子で言った。
「あらまー、びしょ濡れになっちゃって。朝から水浴びとは元気だこと」
「お前ら、帆を畳むのを手伝ってくれ」
ジャスパーが呆れたように言うと、三人は顔を見合わせ、肩をすくめてマストへ向かった。
ルキフェルも黙って後に続く。シュラウドを渡り、帆へ手を伸ばす。水を吸った布は重く、足場は滑りやすい。それでも、風の匂いと雨の冷たさが、胸のざわめきを少しだけ遠ざけてくれた。
四人で帆を畳み終えるころ、空にはまだ薄い雲が残っていた。
ジャスパーがシャツの裾を絞ると、ざばっと水が甲板に落ちる。
その沈黙を破ったのは、ニールだった。
「そういえばさ、最近ルキフェルの顔、あまり見てなかった気がするな」
少し間を置いて、今度はコリンが続ける。
「ずっと部屋にこもってたよね? ……なんかあったの?」
ルキフェルは雨の向こうをしばらく見つめてから答えた。
「いや、悩みってほどでもない。ちょっと、昔のことを思い出してただけだ」
「昔のこと?」
コリンの問いに、ルキフェルは小さく頷く。
「うん。フランソワが聞かせてくれた話がある。今日みたいな雨の日だった」
雨音がぽつぽつと甲板を叩く。その中で、ルキフェルは静かに語り始めた。
「……東の国に、こんな話があるらしい。空の一番高いところに住む神には、娘がいた。彼女は織物を織るのが仕事だったんだ。ある日、神はその娘に婿をとらせた。けれど二人は恋に溺れて、仕事をすっかり怠けるようになった。怒った神は、二人を天の川の両岸に引き離してしまった——」
「えー、自分でくっつけといて引き離すとか、神さまってワガママだな~」
コリンが素直な感想を漏らす。
「ねー。遊びすぎた二人も悪いけど、そんな仕打ちって」
今度はニールが肩をすくめた。二人の声を聞きながら、ルキフェルは小さく息を吐き、続ける。
「……けどさ。二人は離れ離れになってから、悲しみのあまり泣き続けたらしい。仕事どころじゃない。見かねた神は、年に一度だけ二人が会える日を与えたそうだ」
「へえ……ロマンチックじゃん」
ジャスパーが濡れた髪をかき上げながら言った。
「その年に一度って、いつ?」
「さあな」
ルキフェルは空を仰ぐ。
「詳しい日は忘れた。けど、雨の多い時期だったのは覚えてる」
ジャスパーが首をかしげる。
「でもさ、雨が降ってたら会えなくね?」
ルキフェルは少しだけ笑みを浮かべた。その問いは、かつて自分もフランソワに投げかけたものだった。
「あいつは言ってた。『天の川は雲より上にある』って」
雨音に混じるようにルキフェルは続ける。
「地上では雨が降ってても、雲の向こうでは二人はちゃんと再会してる。嬉しすぎて、思わず涙を流してる。だから、雨はふたりの涙——再会の雨なんだとさ」
しん、と空気が静まる。しばらくの間、聞こえるのは雨が甲板を叩く音だけだった。
最初に口を開いたのは、ニールだった。
「……素敵な話だね」
その余韻を壊すように、肩をすくめてコリンが言う。
「詩的だなぁ。まあ、ルキフェルには似合わないけど」
さらに畳みかけるように、ジャスパーが笑いを含んだ声で続く。
「んー、なんだろ。朴念仁のルキフェルくんが涙の雨とか言ってると、妙にこそばゆいねぇ」
三人がクスクスと笑い出すのを見て、ルキフェルはむすっと顔をしかめた。
「お前ら、さっきから俺のことを弄ってるだろ?」
「えー? 気のせいだって」
コリンがとぼけたように返す。
「ただの感想だよー」
ジャスパーは口笛でも吹きそうな調子だ。
「ジャスパーが一番ひどい気がするけどね」
ニールがさらっと追い打ちをかける。
「よし、後でしばく」
ぼそりと呟いたルキフェルの横で、ジャスパーは何事もなかったかのように口笛を吹いて誤魔化した。
ちょうどそのとき、甲板の下からソフィーの声が響いてくる。
「おーい、ご飯できたよー!」
「お、朝飯だってさ」
ジャスパーがぱっと表情を明るくする。
「ジャスパー、着替えてきなって。風邪ひくぞー」
ニールが軽く忠告する。
「へいへい、わかってらぁ!」
ジャスパーは軽く手を振り、ニールとコリンは一緒に小走りで階段を下りていった。ジャスパーも少し遅れて、振り返りざまに声が飛ぶ。
「ルキフェルも来るよな?」
「ああ、いただこう」
ルキフェルがそう答えると、ジャスパーはニカッと笑って走り去った。
……しばくのは、やめておくか。
その背中を見送りながら、ルキフェルはふと空を見上げる。
雨はまだ細く降り続いていた。
雲の向こうで、あの二人は再び出会えているのだろうか。
そんな詩的な考えが、不意に胸をよぎる。そして、心の奥で静かに呟いた。
「……フランソワ。お前の最後の姿を、見ておきたかったよ」
濡れた前髪が額に張りつく。
ルキフェルはゆっくりとそれをかき上げ、歩き出した。
もうすぐ、トルチュ島が見えてくる。




