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露華ー120314

 寝所のある寝殿の扉を開いたアマーリエが、驚きのためにその愛らしい瞳を珠のように丸くした。忙しく瞬きする間に、息すらも止めていたようで、キヨツグが片手を軽く上げると、ようやく、ほうっと息をこぼした。胸の上に手を置いた彼女の頬は、みるみる喜びの薄紅に染まっていく。

「キヨツグ様」

 早かったんですね、と微笑して、彼女は脱いだ羽織ものを吊るし、弾むような仕草でこちらにやってきた。

 一日を終えて寝間にやってくるのはいつもアマーリエの方が早いが、今日はたまたま、キヨツグが先だった。それがめずらしくて、この様子なのだろう。

 隣の椅子に腰を下ろしたアマーリエは、卓の上に、灯篭の光に淡く輝く緑の瓶に気付き、不思議そうにこちらを見た。雄弁な仕草は、微笑ましい。アマーリエ・エリカという娘は、言葉で心情を吐露できる器用さを持たないが、時折無垢なくらい、表情に思いが現れることがある。それを見逃さないのが己の責務だと、キヨツグは考えていた。

「……三鞭酒だ」

「しゃんぱん? ……あ、シャンパン!」

 ぽん、とアマーリエは手を打った。

「……知っているのか」

「私の知っているシャンパンは発泡ワイン……葡萄酒のことです。しゅわしゅわしたお酒ですね。都市では結構飲まれてます」

 だったら同じものだな、とキヨツグは答えた。

「……馴染みの杜氏が、以前から新しい酒を造りたいと言っていたのだが、その試作品を持ってきた。お前の口に合うか聞きたい」

 すると、アマーリエは不安そうに小さく首を傾けた。

「……すごく偏った感想になりますよ? 私、あまり飲めないので……シャンパンはアルコールが弱いからまだ大丈夫……だと思うんですけど」

 知っている。婚姻の儀の三三九度で涙目になっていた姿は、キヨツグには未だに鮮やかだ。青白い肌も、無理矢理つけられた頬紅や口紅も。涙の膜の向こうに悲痛な叫びを押し込めた瞳も。悲嘆にくれた姿に、この胸をかき乱されたことも。

 だがそれらを決して表に出さず、キヨツグは杯を差し出す。

「……少し付き合ってくれるか?」

「はい。私でよければ」とアマーリエはにっこりした。

 冷えた金属の杯に、三鞭酒を注ぐ。緑の瓶から溢れ出した酒は、月の光のような黄金だ。透き通った泡が杯の内側の闇の中で弾け、その度に、甘い果実と酒精が香る。

 一口含むと、不思議な軽さと甘さを感じた。アマーリエの言う通り、強い酒ではない。リリスでよく飲まれる醸造酒に比べれば、子どもの飲み物かと言われそうだが、それこそが杜氏の狙いらしい。

 騎馬と遊牧の歴史を持つリリスは、定住地を作る前は発酵食品や塩漬けした食材といった日持ちのする強い味のものを口にしてきた。それが、街が生まれ、一部の人間の暮らし向きが変わったことで、多少なりとも食生活に変化が現れた。王宮で出される食事は、現在、どれも食材の味を生かした薄味が主流で、街に暮らす民もほとんどがそうだ。

 それでも、思いきった試みだった。組合が存在する彼ら職人は、やはり伝統を重んじる。反発も強かろう。だがもしこれが成功すれば、リリスの新しい文化となり、酒造関係者に利益をもたらすに違いない。

「いただきます」とアマーリエは両手で持った杯を軽く掲げた。

 淡い色の唇が、未知のものに口付けるように、恐る恐る飲み口に触れる。

 こくり、と白い喉が動く。飲み下すと、は、とわずかな熱を持った吐息が漏れた。堪えるように眉を寄せつつ、もう一口。

「飲みやすい、ですね。爽やかな味で、口の中がさっぱりして……あっ、でも後からお酒が来る……」

 今度は、ふは、と大きくため息をついた。

「こういう軽いお酒って、都市ではあまり量を飲まないものなので、食前酒のように、食事のときに少し、という感じで広まればいいかもしれませんね」

「……お前でも気軽に飲めそうか?」

「まだ飲める方、って感じです。一杯も飲んだら絶対に酔っぱらいます」

 と言いながらも、アマーリエは杯を離さない。ちびちびと飲み続けるのは、奇妙な執着を感じた。

「……無理に飲まずとも良い」

「いえ、大丈夫です。本当に無理そうなら止めておきますけれど……そろそろ、訓練しようかと思って」

 キヨツグは肘掛けにもたれた。妻はまた、そんな真剣な顔をして、何か思い詰めているようだ。

「……訓練」

「公務にしろ、何にしろ、やっぱりお酒の席が多いでしょう? お酒に弱い人って体質で決まっているものですけれど、多少『慣れ』もあると思うんです。飲めたらいいなとずっと思ってましたし」

 こくり、こくり、とゆっくり飲み下していく。だが飲み慣れないのと緊張のためか、口を離す度に息が溢れた。

 キヨツグは肴にしていた、塩炒り豆や木の実の皿を押し出す。胃に何か入れれば、多少酔いは軽減するだろうと思ったのだ。アマーリエは素直に応じ、小さな指で小粒の木の実を摘まんでいく。かりかりと実をかじる姿は、赤ん坊か童女のようで、やけに可愛らしく映った。

 静かな夜の時間が流れていく。ぱちん、と火鉢の中で熾火が鳴り、天井の梁がみしりとした。古い建物なので、家鳴りは生活音だ。しかし、ここでの暮らしは彼女にとって住みづらい環境なのだろうな、と考える。

 着慣れない夜着は当初乱れがちだったし、寝ているときも身を小さくするようにしていて、眉を寄せて苦しげだった。最初の夜、姿を隠していたことは忘れられない。根に持っているわけではないが、忘れてはいけない、と思うのだ。

 居場所を、与えることはできたのか。笑うばかりでなく、泣きたいときに泣き、嫌なものは嫌だと、寂しいとわがままを言える場所にしてやれるのか。誰かのために、という献身は否定しない。ただそのなかで、願いを殺さないでほしいと願う。

 それがたとえ、明確な望みでなくとも。『幸せになりたい』、ただそれだけでいいのだ。

「キヨツグ様」

 小さな声で呼ばれ、眼差しを受け止めたキヨツグは、椅子に軽くもたせかけていた身体を起こした。

「もしかして、お酒、我慢してましたか?」

 質問の意図を捉えかねて、首を傾げた。

「……何故そう思う」

「必要なとき以外にキヨツグ様が飲むところを見たことがありません。でも、お酒を少し飲んでから寝る人って多いでしょう? お酒が嫌いじゃないなら、飲みたいのを我慢してるんじゃないかって」

 飲まなかった理由は、色々ある。

 酒は飲めるが、リオンのように好んでいるわけではない。しかし、嫌いでもない。だから飲まなかったのがひとつ。

 飲みたいと感じるときもあるが、忘れられる程度だ。そうするのは、確かに、アマーリエが下戸だからだった。付き合わなければ、と思わせたくはなかったし、放っておいたところで疎外感を覚えるかもしれない。考えすぎだと言われても、数多の心配が駆け巡ってしまう。それが二つ目。

 キヨツグは手を組んで、言葉を探しつつ、理由の三つ目を口にした。

「……飲むのを我慢したわけではなく、必要なかったからだ。酒を飲んで忘れたいことも、緩めたいと思う箍もないゆえに」

 視線を投げた杯は、とうに空になっている。だが、胃が多少温まった程度で、酔いなど微塵も感じない。

 一方のアマーリエは、澄んだ瞳を熱に潤ませ、眠気を覚えた者特有の緩やかな瞬きを繰り返していた。頬は瑞々しい果実のように染まり、首、鎖骨、耳にもその色が広がっている。夢を見ているようなあどけない顔で、キヨツグの言葉を咀嚼し、ぽつりと呟いた。

「……全部、覚えてるんですか?」

「……忘れたいと思ったことはない、何一つ」

 これまでは、違った。すべての命に等しく死が訪れ、命の流れを、少し離れたところで眺めやる、それがキヨツグの人生のはずだった。平等でいて、しかし生まれや能力に不平等があり、多くの者がそれを受け入れつつ抗おうともがくこの世界で、己のあるがままに生きていくだけだと。

 アマーリエ・エリカが現れるまでは、心が欲しい、その存在を繋ぎ止めて手に入れたい、それが永遠に続かないことを悔やむこともなかった。

「……愛している。アマーリエ・エリカ」

 泡沫が弾けた。

 ぱちぱちしゅわしゅわ。アマーリエの手で大きく揺さぶられた杯の中身が、盛大に床に零れ落ちたのだ。キヨツグはすぐさま布巾を取り、一枚を床に投げ、もう一枚は手に持ち、アマーリエの前にひざまずいた。

「ききききよつぐさまっ」

「……濡れたな」

「それはいいんですけど! ご、ごめんなさい……」

 咄嗟に身を退いたおかげか、わずかに濡れた程度で済んだようだが、アマーリエが椅子の上で身を縮こまらせる。

 全身を小さくし、懇願するように両の手を握り合わせている。裾から覗く裸足の足を不揃いに浮かせ、目の前にいる人間に触れてはいけないとばかりに、小さな爪先が揺れていた。その姿に。

 嵐のような欲が襲い、くらりと目眩を覚えた。

 濡れた夜着の裾を払い、白く冷たい足首を掴み、爪に口付けたいと思うが、キヨツグが手を動かすと、アマーリエは怯えたように身を固くする。つい、言っていた。

「……謝るなら、逃げるな」

 びくり、とアマーリエは身を震わせる。そうして、少しはそこに留まろうとするのだが、いたたまれなさからか、反射的に逃げそうになり、余計に力を込めて足の指が丸くなる。

「……まだ逃げて、ますか」

 真剣な響きに、キヨツグは顔を上げた。

 揺れる瞳。膝の上で握りしめられた手。

 キヨツグは、自身の言葉の迂闊さに、わずかな後悔を覚えた。なるほど、彼女は以前起こした自らの行いを再び叱責されたように感じたらしい。そのように取られてもおかしくない状況ではあったが、あのときの振る舞いを決して忘れていないことは悲しくも、キヨツグに薄暗い愛おしさを呼ぶ。

 愛していると幾度告げても、いつまでもその言葉を己に馴染ませることができない、寂しい少女。

 ――いっそ、手折ってしまえばいいか?

 何も考えなくさせれば。彼女をこの暗い衝動に溺れさせてしまえば。

 キヨツグはゆっくりと立ち上がり、覆い被さるようにして、正面から椅子の背もたれを掴んだ。これで、アマーリエは立ち上がることも逃げることもできない。ぎし、と椅子が鳴く。覗き込んで視線を絡め取り、そこに彼女を縫い止めた。

「……逃げるな」

 低い囁き声に、か細く震えるアマーリエの顎を捕らえ、口付けた。

 なんて、甘い唇なのか。

 泡の弾ける酒と、柔らかい花びらの唇が重なると、それは紛れもなく美酒となった。角度を変えて啄む。貪るのを堪えて、少しずつ少しずつ吸っていくと、あまりの心地よさに陶然としてくる。

 そしてふと気付くと、アマーリエが目を回していた。

 いまにも倒れそうな赤い顔で、う、う、と小さく呻いている。浅く吐かれる息に、酔いと蕩けた熱を感じたが、キヨツグも似たようなものだった。

「……エリカ」

「う……あ、あの……よっ、酔ってます、よね? その、すごくお酒の味がして……甘くて、その……………いつもと、違う……」

 呼気が混じり合う距離で、アマーリエが目を逸らしつつ捲し立てる。息が上がっていて、なのに平常でいようとするために、不意に、はあ、ふう、と悩ましげに吐息を漏らす。呼気に混じる酒精は、どんな強い酒よりも香り高く、キヨツグを酩酊させようとする。

 そこで、突然、理解した。

「……なるほど。わかった」

「……え。え、なに、何がです?」

 狼狽えるアマーリエから一度身を離し、逸らした熱を唇の代わりに耳へ吹きかけた。ひゃぁっ、とアマーリエが短い悲鳴を上げる。つい顔が笑みを作りそうになったので、見られないよう俯くと、アマーリエはその隙にキヨツグを押しのけ、椅子の檻から逃げ出した。ぴゃっと飛び出し、壁に背をつけて、ぷるぷると震える姿は、また、キヨツグの笑みを誘う。

 まるで初な乙女そのものの反応に、おかしさが込み上げる。これで自分たちは夫婦だといっても、にわかには信じがたいだろう。この純粋さはどこからくるのか。もしや、ずっとこのままなのだろうか。

「……キヨツグ様っ!」

 からかわれた、と思ったのだろう。引きつったアマーリエの叱責が迸る。

「……違う、からかってはいない。杜氏に、この酒をどのように広めればいいか、思いついただけだ」

 花びらと、あるいは愛する者と飲むための酒。

 酩酊を避ける者は多い。ゆえに、愛する者同士で分け合い、ほろ酔いになって、夜を過ごす。そういう売り文句はどうか、と提案することを決める。

 すぐそこにあった温もりが遠ざかったために、キヨツグは寒さを覚えた。ぽっかりと、空白ができてしまったような、物寂しさで身体の中を冷たい風が吹き通っていく。そうして、反省した。

(……逃げていたのは、私だな)

 己のものにしたい。こちらしか見えなくしたい。この世の苦難のすべてから遠ざけて、永遠に閉じ込めてしまいたい。キヨツグは、幼い頃から、ほとんどの感情を涼しい仮面に隠して生きてきた。だから、認めるべきだ。

 私は歪んでいる。そして、だからこそ、誰よりも彼女を愛している。

 狂おしい欲求を叶えたところで、キヨツグは己を一生許せなくなるだろう。何故ならそれは、陽だまりの花のような微笑みや、安心して寄せられる温もりの喪失を意味する。捕らわれてしまえばいいと思った一方で、彼女が自らの力で輝き、咲き誇ろうとする姿もまた、愛おしいと思うのだ。

 じっと視線を注ぐ。すると、アマーリエはおずおずと距離を縮めてきた。大型の動物を前にしたかのように、万が一飛びかかられてもすぐ逃げるため、どこか腰が引けている。

(……可愛らしい)

 キヨツグは唇の端にわずかな笑みを乗せた。

「……愛している」

 健やかに、生き生きと咲いてこそ。

 アマーリエは軽く目を見開き、心臓の位置を確かめるように右手を胸に置いた後、一度、くしゃりと甘苦い顔になってから、微笑んだ。

「私も……愛しています」


 今度は、逃げなかった。

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