第9話「国家の要求」
資料庫を出た頃には、帝煌学園の校舎はすっかり夕暮れに沈んでいた。
窓の外には赤く染まった空が広がり、昼間まで多くの生徒が行き交っていた廊下にも、今はまばらに人影が残っているだけだった。普段ならば一日の終わりを告げるような穏やかな景色のはずなのに、司たち七人にとって、その日の夕暮れは妙に重かった。
頭から離れない。
資料庫で表示された、あの一文が。
《参与者は、国家の要求に従うことを拒否した》
そして、その前に表示された言葉。
《第0期は、国家を運営するための制度ではなかった》
七人は委員会室へ戻っていたものの、誰もすぐに帰ろうとはしなかった。いつもなら穰介が適当な冗談を挟み、燈縭がそれに乗り、暁が話をまとめる。そんな日常的な流れが、この日はどこにもなかった。
学だけが端末を操作し続けている。
何度も、何度も同じ資料を確認していた。
「……やっぱり駄目だ」
やがて学が画面から顔を上げた。
「資料庫から取得できたのは、あそこまで。第0期の参与者名簿も、役職も、失敗に関する記録も残ってる。でも、その『国家の要求』が具体的に何だったのかについては、完全に切り取られてる」
茜が椅子の背に身体を預けながら、静かに考え込む。
「記録が途中で欠落しているというより、意図的に削除された可能性が高い」
「私もそう思う」
燈縭が頷いた。
「だって、失敗した理由だけは残ってるんだよ。普通なら、そこまで書くなら何を要求されたのかも書くでしょ」
「逆に言えば、そこだけ消す必要があったってことですね」
颯が資料を見ながら言った。
「第0期が何を拒否したのか、それを知られると現在の制度に都合が悪い。そう考えることもできます」
「でも、まだ断定はできない」
暁が口を挟んだ。
「私たちが見たのは一部分だけ。記録を消した理由が政府にあるのか、学校にあるのか、それとも第0期そのものに関係しているのかも分からない」
「そうだね」
司は机の上に置かれた資料を見つめていた。
「だからこそ、本人たちが何を考えていたのかを知りたい」
その言葉に、学が顔を上げる。
「第0期の参加者?」
「うん。名前は消されてる。でも、役職は残ってた。だったら、その七人が何をして、何を拒否したのかを別の記録から探せるかもしれない」
「学校史なら、当時の新聞記事や議事録が残ってる可能性もある」
茜が続ける。
「政府が公式記録を削除していても、すべての記録を完全に消すのは難しい。特に帝煌学園は当時から国との関係が深かったなら、別系統の記録が残っている可能性がある」
「だったら調べよう」
暁が立ち上がった。
「第0期が何を拒否したのか。それを知ることが、今の私たちに必要なことだと思う」
その直後だった。
委員会室の扉が開いた。
「そう思うなら、先に私に聞けばいい」
聞き覚えのある声に、七人全員が振り向いた。
そこに立っていたのは、兵頭和久だった。
政府側との窓口を務める男は、いつものように気負った様子もなく委員会室へ入ってくる。しかし、その表情には普段とはわずかに違うものがあった。
七人が何を見たのか。
それを、すでに知っているような目だった。
「……兵頭さん」
司が立ち上がる。
「第0期について聞きたい」
「だろうな」
兵頭は椅子を引き、勝手に腰を下ろした。
「学校の資料庫まで行ったんだろ?」
「どうして分かるんですか?」
颯が尋ねる。
「君たちが昨日申請した資料閲覧権限の動きは、政府側にも記録される。国家参与制度の一部だからな」
「私たちが何を調べているのかも、政府には全部分かるということですか?」
学の声が少し低くなった。
兵頭は否定しなかった。
「少なくとも、制度上必要な範囲では把握される」
「必要な範囲って、どこまで?」
燈縭が尋ねると、兵頭は彼女を見た。
「それを聞くってことは、君はもう気づいてるんだな」
「何に?」
「この制度が、単に学生に権限を与えてるだけの仕組みじゃないってことに」
委員会室の空気が変わった。
兵頭は続ける。
「第0期も、今の君たちと同じように国家参与の権限を持っていた。政府の会議に参加し、行政機関へ意見を出し、必要なら政策そのものに介入する。今の制度と大きく変わらない」
「でも、第0期は失敗した」
茜が言った。
「ああ」
「国家の要求に従わなかったから?」
兵頭はしばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「そこまで見たか」
「資料に書いてありました」
司が答える。
「だったら、聞きたい。第0期は何を拒否したんですか?」
兵頭はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの空は、先ほどよりも暗くなっていた。
「……第0期に出された要求は、ある国家機密に関するものだった」
「国家機密?」
颯が聞き返す。
「当時、政府の中で大きな問題になっていた案件だ。国家としては、それを公にするわけにはいかなかった。だから第0期の学生たちには、政府が決めた方針に従って行動するよう求めた」
司は黙って兵頭を見る。
「具体的には?」
「情報を外に出さないこと。関係する調査を止めること。そして、政府が指定した範囲を超えて独自に調査しないこと」
その瞬間、学が顔を上げた。
「……それって」
「そういうことだ」
兵頭が答える。
「第0期の学生たちは、それを拒否した」
誰も言葉を挟まなかった。
兵頭の話は、これまで聞いてきた第0期の印象を大きく変えるものだった。
失敗した制度。
問題を起こした学生たち。
だから現在の制度では、より厳格な監督が必要になった。
これまでなら、そう理解することもできた。
しかし、実際には違う。
第0期の学生たちは、国家から与えられた権限を利用して、自分たちが見つけた問題を最後まで調べようとした。
そして国家が止めようとした。
「……それなら」
司が静かに口を開く。
「第0期は、何かを守ろうとしたんじゃないですか」
兵頭は司を見た。
「どういう意味だ?」
「国家の要求に従わなかった。でも、反政府だったわけじゃない。むしろ、自分たちが国家参与の立場にいるからこそ、政府が止めようとしたことを調べた。だったら、彼らが拒否したのは国家そのものじゃなくて、国家が隠そうとした何かだったんじゃないですか?」
司の言葉に、兵頭は何も答えなかった。
その沈黙が、答えのようにも見えた。
「……司」
暁が小さく呼ぶ。
司は振り返らない。
視線は兵頭へ向いたままだった。
「俺たちも、同じことをする可能性がある」
「そうだな」
兵頭は否定しなかった。
「だから私は君たちに何度も言ってきた。原資料を見れば全部分かるとは限らない。権限があるからといって、すべてを知ることが正しいとも限らない」
「でも」
颯が言葉を挟んだ。
「権限があるのに、知ることを止められる理由も、私は納得できません」
兵頭が颯を見る。
「国家が法に基づいて権限を与えたのであれば、その権限を行使する学生に対して、国家が恣意的に制限を加えることは許されないはずです。もちろん、国家機密そのものを無制限に公開しろという意味ではありません。でも、なぜ制限されているのか。その根拠まで含めて示される必要があります」
颯の声には迷いがなかった。
「そうでなければ、制度そのものが法より上にあることになってしまいます」
兵頭はしばらく颯を見つめたあと、ふっと息を吐いた。
「……やっぱり、君は法務官だな」
「褒められているのでしょうか」
「もちろん」
兵頭は苦笑した。
しかし、その表情はすぐに消えた。
「ただし、ひとつだけ言っておく」
全員の視線が集まる。
「第0期が拒否したのは、国家の命令そのものじゃない」
「……?」
「彼らが拒否したのは、『国家のためなら真実を隠していい』という考え方だった」
委員会室に沈黙が落ちた。
その言葉は、これまでの調査で積み重ねてきた疑問の中心を、一気に突き抜けるものだった。
国家のため。
国民のため。
安全のため。
機密を守るため。
そうした言葉はいくらでも正当な理由になり得る。
だが、その正当性を誰が判断するのか。
国家自身が「国家のためだ」と言えば、それで終わってしまうのなら、学生に国家へ参与する権限を与える意味はどこにあるのか。
司は、その矛盾に気づいていた。
そして、たぶん他の六人も同じだった。
「……第0期は、その矛盾を問題にしたんですね」
司が言う。
「そうだ」
兵頭が答えた。
「そして、その結果として制度は一度壊れた」
「だから今の制度がある?」
暁が尋ねる。
兵頭は頷いた。
「第0期の失敗を受けて、制度は作り直された。政府との連携を強化し、監督を置き、権限の扱いを整理した。今の制度は、第0期の反省の上に作られている」
「……それなら」
燈縭が呟く。
「どうして、私たちが今、第0期と同じ七つの役職で活動してるの?」
兵頭の表情が止まった。
その反応を、燈縭は見逃さなかった。
「やっぱり、そこが変なんだよね」
彼女は椅子に座ったまま、兵頭を見つめる。
「第0期は失敗した。だから制度を作り直した。それなのに、役職は同じ。しかも学校には第0期の記録が残されていて、政府の記録にはSTATE;0がある。私たちが調べ始めたら、昨日の資料閲覧履歴まで記録されてた」
燈縭の口調はいつもと変わらない。
しかし、その目だけは笑っていなかった。
「だったらさ。もしかして今の私たちって、第0期の続きをやってるんじゃない?」
兵頭は答えなかった。
その沈黙を破ったのは、学だった。
「待って」
彼は突然、端末へ向き直った。
「第0期の失敗記録に、まだ一つだけおかしなところがある」
「何?」
茜が立ち上がる。
学は資料を拡大した。
「第0期の活動記録。最後の項目だけ、削除されてない」
画面には、古い記録の一部が表示されている。
そこには、わずかに残された項目名があった。
《最終参与判断》
「……最終参与判断?」
颯が読み上げる。
学はさらに拡大する。
しかし、その内容は表示されなかった。
代わりに画面の下部へ、ひとつの文字列が浮かび上がる。
《STATE;0》
そして、その直後。
《現参与者七名の判断を待機中》
全員が凍りついた。
「……待機中?」
穰介が呟く。
学が何度も操作するが、画面は変わらない。
「違う。これは第0期の記録じゃない」
「じゃあ何?」
司が聞く。
学は画面を見たまま答えた。
「第0期の記録を表示した瞬間に、現在の私たちへ向けて更新された」
誰も動けなかった。
第0期の記録は、過去の出来事ではなかった。
少なくとも、このシステムにとっては。
過去の七人が何を選んだのか。
そして現在の七人が何を選ぶのか。
その二つを比較するために、まるで最初から用意されていたかのように、画面には一つの項目が表示されていた。
《最終参与判断》
《第0期:拒否》
《現参与者:未確定》
司は、その文字を見つめたまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……俺たちは、まだ何も決めてない」
兵頭は答えなかった。
ただ、静かに七人を見ていた。
その目には、政府側の人間としての警戒と、何かを知っている者だけが持つ複雑な感情が入り混じっている。
そして最後に、画面へ新しい文字が表示された。
《現参与者による第0期再現可能性――監視を開始します》
七人は、誰もその表示を消すことができなかった。
国家が、自分たちを見ている。
そう思っていた。
だが、違う。
もっと正確に言えば――。
国家は、かつての七人と同じ場所に立った現在の七人が、同じ選択をするのかどうかを見ている。
そしてその問いに、まだ誰も答えていなかった。
――第9話 完




