第五幕 泉美と圭・命と月下 その8・和泉
近づいてくる圭さんの唇。
頬にかかる、熱い吐息。
わたしはギュッと目を閉じて、それを受け入れる覚悟を決めました。
………決めたはず、でした。
「う、うぅ」
神社の境内に設けられた住居。その中の自室で、わたしは膝を抱えて蹲っていました。
「ひっく、ぐす……」
頭の中はさっきの事でいっぱい。何故だか涙も止まりません。
あの時わたしは、圭さんのデートの最後にキスをしようと言う話を断わりきれず。圭さんがあの人かもしれないからと自分を納得させて受け入れる事に決めました。
姉さまに言われたように圭さんとデートしてみて、少なくとも圭さんが悪い人じゃないって事が分かったので。きっと、それくらいは大丈夫だと思ったんです。
「うっく、ぐすっ。……ひっく」
でも、ダメでした。
怖かったから。……じゃ、ありません。もちろん怖くなかったと言ったら嘘になりますけど、それが理由じゃありません。
あと少しで圭さんの唇が触れる。そう感じた時、わたしの心を占めたのは強い拒否感と罪悪感でした。
その気持ちが何処から来たのかとか、どうしてそんな風に思ったのかとか、頭が考えるより前に、わたしは圭さんを突き飛ばして駆け出していました。
その後の事は、何も覚えていません。
何処をどうやって帰ってきたのか。気が付いたら、わたしはここでこうしていました。
コンコン。
「泉美……。おるか?」
遠慮がちに襖が叩かれます。
「姉さまっ! ……はい、居ます」
わたしは慌てて目元を拭うと、姉さまに返事をしました。泣いている所を見られて、姉さまに余計な心配をかけたくはありません。
「うむ、入るぞ」
スーっと襖が開けられ、外の明かりが室内に入ってきます。
「どうした、明かりもつけずに……」
「えっ?」
姉さまに言われて、わたしは初めて気が付きました。何時の間にか太陽はすっかり沈み、月が夜空のかなり高い位置まで昇っている事に。
「あっ、すすみません。いまつけますっ!」
わたしは急いで部屋に置かれた蝋燭に火を灯します。街と違ってこの神社には電気なんて通っていないので、暗くなってからの明かりは蝋燭だけです。
「うむ、泉美もだいぶ慣れたようじゃのう」
妖術で作った火を蝋燭に灯すわたしを見て、姉さまは満足そうに頷きました。
元々が野生の狐だったわたしは火が苦手です。
それを妖術で作ったり、火を灯した蝋燭のそばで怖がらずに居られたり。姉さまが褒めてくれたのは、そんなところの事でした。
「いえ、そんな……。それより何か御用ですか、姉さま?」
温かな姉さまの声に、先程まで塞いでいた気持ちが軽くなるのを感じながら、わたしは姉さまに用件を尋ねました。
「ふむ。ちょうど今帰ったんでのう。お主の様子を見に来たのじゃ」
「今、ですか?」
時間感覚がなくなっていたいたので、今が何時か分かりませんが。月の位置から言って、もうかなり遅い時間のはずです。
「ずんぶん遅かったんですね、姉さま」
「うん? ………ふふふ、まぁな」
姉さまは何故だか怪しげな笑みを浮かべて微笑みました。
「………今日は、私の事を見守ってくれてたんですよね?」
姉さまの事は信頼していますが、その笑みに不安を感じて。わたしはついつい、聞いてしまっていました。
「もちろんじゃっ!」
力強い言葉が返ってきて、わたしはホッと胸を撫で下ろします。
やっぱり、この不安は杞憂で……。
「命と一緒に、しっかりと見守っとたぞ」
「………………………え」
姉さまは、今、何て? ………命、さんと、一緒に?
「な、何で……」
「わしが誘ったのじゃ」
「何でそんな事するんですかっ‼」
わたしは思わず姉さまを怒鳴りつけていました。今までそんな事した事もなかったのに、この時だけは抑えられませんでした。
「なんじゃ、ダメじゃったか?」
「当たり前ですっ! 美琴さん達ならともかく、命さんになんて」
遊園地で圭さんと一緒に過ごしている姿や、お化け屋敷で手を繋いだ事。そして何より、デートの最後でキスしようとしていたのを命さんに見られてたなんて。
「そんなのダメに決まってますっ‼」
「そうか? わしはデートのようで楽しかったがのう」
「っ!」
「お主らが帰った後、興が乗ったので本当にデートして来たぞ? おかげでずいぶん遅くなってしまったが。いや、中々に楽しい一時じゃった」
デー、ト?
命さんと姉さまが、デート……。
―――い、や。いやいやいやいや。聞きたくない、聞きたくない聞きたくない。
「命の奴はほんに優しいのう。わしの事を色々と気遣ってくれてのう」
「いやですっ! 聞かせないでください姉さま‼」
姉さまはわたしに構わず話を続けます。それが命さんとのデートを姉さまが楽しんでいた事を物語っているようで、わたしはますます固く耳を閉ざしました。
でも、元々聴力に優れた狐耳はそんな事では姉さまの声を断ってはくれず。止まっていたはずの涙が、何時の間にか頬を伝って流れ落ちていました。
「だが、最後にキスをしたのはさすがにやり過ぎたかのう?」
「―――キス?」
その言葉で、わたしの全身から力が抜けてしまいました。
「うぅ、ひっぐ……ぐすぅ。うぁあああああん、あああぁああああああああっ!」
涙が止まりませんでした。声が抑えられませんでした。
何がそんなに悲しいのか、自分でも分からないけれど。悲しくて、痛くて、どうしようもなくって。
「…………」
そんなわたしを、姉さまは月のように静かな瞳で見詰めています。
その瞳が何を訴えているのか、心がいっぱいのわたしには分からず。悲しみと痛みに、ただただ震えているばかりでした。
……やがて、泣き続けるわたしを抱きしめて姉さまは言いました。
「……嘘じゃ」
「うえっ、ぐず。………ふえ?」
「だから、嘘じゃ。……命と一緒に泉美の事を見ていたのは本当じゃが、それ以外は全部嘘じゃ。デートなどしとらんし、もちろんキスなどせん」
「ふええぇ⁉」
急な話の流れについて行けず、わたしの頭は混乱してしまいます。
「ふふふっ。それに、命はわしと居っても、お主の事しか目に入っておらんかったぞ?」
「ふうぅ!」
悪戯っぽく耳元でささやかれて、ようやくわたしの涙は止まりました。でも、代わりに頬が信じられないくらい熱いです。
「ふふ、ほんに可愛い子じゃ泉美。……だがな」
「あっ……」
姉さまはわたしを抱きしめていた腕を解き、そのしなやかな指でそっと涙の残りを拭ってくれました。
そして、本当に嬉しそうに。でも何処か寂しげに、姉さまはおっしゃいました。
「わしの話を聞いて、何故涙を流したのか。何故聞きたくないと思ったのか。その訳を、よ~く考えるんじゃぞ」




