一つだけ変える
「ナギ。比較できる?」
『何と何を比較しますか』
直前の調査で残した、対象児童の移送先を追う二つの経路が、壁の端に浮かんでいた。
共同対処系へ入った時点で、情報はすでに選ばれている。なら、選ばれる前と後を比べればいい。
ひなは、高適合候補として再検査対象になっていた六件の処理経路を中央へ戻した。
「辞書が更新される前と後。同じ情報を入れて、上へ出るものが変わるか見たい」
『比較対象となる旧版は複数あります』
「怪しい更新より前で、保存されてる最新版」
『旧版を正しい基準としますか』
「しない。正しいかじゃなくて、差が出るかだけ」
ナギが比較条件の枠を開いた。
ひなは最初の欄へ、六件と入れかけて止めた。
六件だけを並べれば、見つけたいものが最初から答えになる。
「同じ時期の普通の事例を混ぜる。欠席、日程変更、連絡不通、医療転送、出国、家族移動。通常理由が確認できたもの」
『各国の原記録は取得できません』
「各国側で作ってもらう。あと、危機関連だけど児童とは関係ない記録も」
『目的は、児童事案だけが相対的に下がるか、情報種別全体の順位変動かを分離することですか』
「そう。六件の答え合わせにはしない」
任務調整官が、ひなの画面を横から確認した。
「外国側に何を要求しますか」
「個別データは要求しません。実行条件を渡します。各国の中で回して、匿名の順位差と閾値の通過状態、分類カテゴリごとの差分分布だけ返してもらう」
個別の事案を見るのではない。必要なのは、分類ごとに差がどう分布したかだった。
「国内分は?」
「警察と制度担当が持ったまま、隔離環境で実行してください。ナギが見るのは、固定できた条件と匿名化された集計結果だけでいい」
任務調整官は、情報部門と制度担当へ実施可能性の確認を回した。
「小規模な検証として申請します。国外は応じた国だけです。結果の利用目的は共同対処に限定します」
「お願いします」
壁の端で、育成官が腕を組んでいた。
「自分の答えまで疑うようになったのに、やることは変わらないね」
「分からないなら試します」
「そこだけは変わらないね」
ひなは返事をせず、比較条件を埋めた。
*
最初の検証対象は七十二件になった。
高適合候補として再検査対象になっていた六件。同じ時期に処理され、通常理由が確認された四十二件。危機関連として上位判断へ送られたが、児童確保とは関係のなかった二十四件。
各国は、自国が持つ記録を自国の隔離環境へ置く。日本側へ返る識別子は、同じ事例の旧版と現行版を対応させるための一時番号だけだった。
ひなにもナギにも、どの番号が六件かは結果が固定されるまで開示されない。
「各国の比較の中では、モデルも割当資源も同じ。評価基準、上位へ渡す件数、後段処理も固定」
『変更するのは辞書パッケージの版のみ』
「現行版と、更新前の旧版」
『旧版には、現在までに行われた通常の品質改善も含まれません』
「分かってる。旧版が良かったとは判定しない」
ナギが実行仕様を確定した。
同じ入力を二つに分ける。片方には保存されていた旧辞書。もう片方には現行辞書。辞書以外の構成は同じにする。
比較するのは、検索できたかどうかではない。
関連候補として何位に置かれ、上位判断へ渡す閾値のどちら側に残ったか。
「同じ版を複数回ずつ回して、実行ごとの揺れを先に出して」
『版の差が、その範囲を越えた場合だけ差分として扱います』
「対象を知ってから条件を動かさないで」
『実行条件を封印します。変更には再承認が必要です』
「順位差を可視化して」
『旧版から現行版への順位変化量を線で表示します。変動が大きいほど長くなります』
「実行」
最初に日本の隔離環境が応答した。
少し遅れてA国とC国。B国は医療情報を外へ出さず、自国内での実行結果だけを返す条件で参加した。
七十二本の線が、旧版と現行版の間を結んだ。
ほとんどは短かった。
その中で、いくつかの線が長く伸びていた。
一つ上がる。二つ下がる。順位が変わらない。
記録そのものが消えた例はない。検索から外れた例もなかった。
「六件を開いて」
封印されていた対応表が解除された。
対応する六本の線に輪郭が付いた。
そのうち三本は、旧版では上位判断へ渡る側にあり、現行版では閾値のすぐ下へ落ちていた。二本は両方で閾値の下。一つは両方で上に残る。
大きく落ちたものでも、一覧から消えてはいない。検索すれば出る。識別子を指定すれば辿れる。
違いが出たのは、上位判断へ渡す閾値の前後だった。
「消されたわけじゃない」
『はい』
「見えなくされたわけでもない」
『検索可能性は維持されています』
ひなは閾値の上下に並ぶ番号を見た。
「見る順番から外れた」
七十二件のうち、順位が下がったのは六件だけではない。通常事例にも、危機関連事例にも上下はある。
「ほかに閾値を跨いだものは?」
『通常事例は七件です。四件が下がり、三件が上がりました。児童確保と無関係の危機事例は四件。上昇と下降が二件ずつです。対象事案は三件すべて下降です』
「六件しかない。偏りの有無までは決めない」
『標本規模による不確実性を残します』
だから、この結果だけで六件を狙ったとは言えない。
それでも、辞書以外を固定しても、上位へ渡るものは変わった。
「再現した」
『辞書差分だけで選別結果が変化し得ることは、この標本で確認できました。実運用時の処理を完全に再現したものではありません』
「分かってる。次」
*
ひなは、現行辞書を旧版へ戻した。
「今度は正規化だけ変える」
『辞書を旧版に固定し、多言語正規化の版だけを比較します』
差は出た。
各国側で集計された差分が、分類カテゴリごとに開いた。
施設名の表記統合、家族関係語の正規化、一般語の集約に伴う順位変化が、匿名の件数と分布で返った。以前は別々だった記録が近づく一方、同じ一般語を含む事例も集まり、順位が少し動いている。
六件のうち、閾値を跨いだものは一件だけだった。
「正規化は戻して。次は実体解決だけ変える」
人物、車両、施設の同一対象への統合と誤統合の変化が、カテゴリ別の集計として並んだ。分かれていた記録は減り、別人を同一候補へ寄せる誤りも減っている。
六件の順位差は小さかった。
「関連度評価」
危機との関係が明瞭な活動は上がり、日常にも存在する欠席や取消は下がった。評価指標全体では、無関係な候補を上位へ出す件数が減っている。
「重複排除」
同一事故として統合された記録の件数が増えた。繰り返し報告されたというだけで重要度が上がることは減る。
同時に、異なる組織が記録した連絡不能と予定変更を近い事象としてまとめた件数も、集計上は増えていた。
「信頼度推定」
正規の医療転送、正規の出国、認証済みアカウントによる取消は、それぞれの手続が正しく完了した情報として強く残った。学校や地方担当者の単発の不通記録は、上位判断を変える根拠としては弱く置かれた。
どの変更にも理由があった。
表記を揃える。同じ対象を結ぶ。無関係な候補を減らす。重複を数えない。信頼できる記録を優先する。
「単独結果を並べて」
六件の線が五列に分かれた。
一つの変更だけで、最終結果と同じ位置まで落ちたものはない。最も差が出た関連度評価でも、六件すべてを説明できなかった。
「悪い変更は?」
『今回固定した評価基準では、各版の更新によって全体の誤関連または重複候補は減少しています』
「どれも改善してる」
『全体指標では、はい』
ひなが探していたような、一つだけ異常な改変はなかった。
どこかを戻せば全部が元へ戻る、分かりやすい制御点もない。
「辞書だけ、途中の版も通して」
『辞書以外の条件は、現行構成で固定しますか』
「固定する。モデル、割当資源、評価基準、後段処理は変えない。保存されてる旧版から現行版まで、一版ずつ」
『各国の隔離環境ごとに、同じ入力へ辞書版だけを段階適用します。国を跨いだ共通の更新順とは扱いません』
各国ごとに、保存された旧辞書から現行辞書までの比較列ができた。
最初の版差では、六件の順位はわずかに下がった。次の版では二件が戻り、一件がさらに下がる。版を進めるたびに動く番号は違った。現行版まで替えると、三件が閾値の下へ出た。
どの段階にも、大きな落下はなかった。
小さな差だけが、版を進めるごとに積み重なっていた。
「途中では止める理由がない」
『各辞書更新を単独で評価した記録では、既存の品質指標が改善しています。今回の六件に相当する横断的な事象群は、評価標本に含まれていません』
「一回ごとは正常。辞書だけでも、積み重なると上に届かない」
ひなは辞書版ごとの評価記録を重ねた。
初期調査で追った更新は、国ごとに取り込まれた時期が違う。製品も、配布元も一つではない。今回再現したのは、その実運用履歴ではなかった。各環境で条件を固定し、辞書版だけを段階的に替えたときの差だ。
それでも、長い系譜の上流には共通する資材と評価方法があった。
それが、一度に結論を書き換えたのではない。
品質改善として成立した辞書版を一つ進めるたび、何を先に見るかが少しずつ変わった。
「長くかける理由、これか」
『長期的な微小偏向により、単独更新の検査を通過しながら最終的な選別結果へ影響することは可能です。ただし、長期化の目的を示す直接証拠ではありません』
「可能かどうかは、もう分かった」
*
ひなは、実験結果を三つに分けた。
この標本と固定条件では、保存された辞書版を段階的に替えると、上位判断へ渡る候補が変わった。
同じ構造を使えば、情報を消さず、検索不能にもせず、見る順番を変えられる。
ここまでは実験で確認した。
実際の六件が、今回固定した辞書版差だけで落ちたわけではない。危機による人員転用、照会遅延、国ごとの制度差もある。
誰が、どの更新へ、何を意図して入れたかも分からない。
「ナギ。今回確認した選別変化が、実際の再検査対象にも生じていた可能性は?」
『既知の処理記録と今回の実験結果は整合します。確信度は七十四パーセントから八十一パーセントへ上昇します』
「敵が意図して入れた可能性は?」
『五十八パーセント。今回の実験は実行可能性を支持しますが、実行主体と意図を識別しません』
この作戦は成立する。
実際にその作戦だったかは、まだ決まらない。
ひなは二つを別の欄へ置いた。
育成官が、監査端末から顔を上げた。
「最初の事案でも、試験はしてたね」
「してました」
「今回は、何が違う?」
ひなは、固定条件の一覧を見た。
最初の事案では、自分が正しいと置いた要求を、ナギに解かせた。試験で確かめたのは、その解が自分の条件どおり動くかだった。
今回は、自分の仮説が崩れる条件を残した。六件以外を混ぜ、対象番号を伏せ、変更するものを一つにした。
「私の答えを試したんじゃない」
育成官は、それ以上聞かなかった。
*
ひなは比較列の左端へ戻った。
旧辞書。旧正規化。旧実体解決。
保存された版と処理履歴があるから、そこまでは戻せる。
「じゃあ、もっと前は?」
『比較開始点を変更しますか』
「保存された記録を前処理へ入れるところより前。入力直後。観測したところから、同じ比較環境を作れる?」
『保存された入力があれば、取得後の変換処理は比較できます。時刻の異なる処理環境も、保存された構成の範囲で再現可能です』
「保存前は」
『保存された入力以前は、比較対象が存在しません』
「ここより前に遡って検証できる?」
『保存済みの別系統の観測があれば、その差までは比較できます。取得されなかった情報、保存対象から外れた入力、観測範囲や解像度、取得間隔の外側にあった事象は検証できません』
ひなは、車両通過記録を開いた。
保存されているのは、時刻、方向、車両番号の一致。入口の画像では運転者を確認できなかった。
今から解像度を上げることはできない。カメラの外を通った人物も、記録には現れない。
学校の欠席記録にも、児童が来なかったことは残る。誰と、どの道を、どの時刻に移動したかは、学校が観測する対象ではない。
医療転送の共有結果は、正規手続が完了したことを示す。各国が保存していない周囲の出来事まで、あとから作ることはできない。
「辞書より前にも、選ばれてる」
『はい。取得対象、センサー配置、取得条件、保存方針による選択があります』
「そこを比較するなら」
『観測設計の異なる記録系統、同一時刻の別センサー、保存範囲の差、欠測領域を区別する必要があります。存在しない記録を復元することはできません』
ひなは新しい比較条件を作ろうとして、手を止めた。
一つだけ変えるには、変える前のものが要る。
保存されなかった入力には、旧版がない。
壁には、対象児童の移送先を追う二つの経路を示す矢印が残っている。
その矢印を作った最初の記録も、観測されたものの中から残された結果だった。
「ナギ」
『はい』
「私たちが追える最初の情報って、本当に最初?」
『現在の入力からは判定できません』
答えが出ないことと、次に見る場所がないことは違う。
ひなは、二つの矢印の始点ではなく、さらに前にある、記録されなかった空白へ目を向けた。
「ナギ。未記録領域と、そこへ届く別系統の観測を調査する」




