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番外編1:マリア夫人の追憶(前編)〜復讐の産声〜

※乱暴される場面あり、苦手な方はご注意ください。

 

 マリア・クルメリオン。イースター・クルメリオンの第一夫人(正妻)であった彼女は、もとは彼の兄、アルコイ・クルメリオンに嫁いだ身であった。

 

 アルコイは、生まれつき体が弱く病弱であったが、穏やかで聡明な人物であった。貴族にありがちな家のための政略結婚であった二人だが、よく尽くしてくれるマリアに、誠実なアルコイに、お互いに惹かれあい、想い合うまでに、そう時間はかからなかった。

 

 聡明で仲の良い二人によって、この先のクルメリオン侯爵家の安定も約束された。誰もがそう思っていた。

 

 しかし、そんな二人の甘い時間は、突如終わりを迎える。

 

「アル……!アル!そんな……昨日まで元気だったのに……どうして……?嫌よ!私を置いていかないで……!」

 

 アルコイの持病が突然悪化し、容態が急変。昨日まで仲良く中庭を散歩していたのが噓のように、アルコイは生死の境を彷徨い始めた。

 折悪(おりあ)しく、当時国内に聖女は公爵令嬢であるリリアージュのみ。おいそれと呼びつけられる立場ではなかった。

 お抱え医もあまりにも急な容態の変化に戸惑いつつ、なすすべなく首を振った。

 

「今夜が山でしょう……」

「そんな……」

 

 せめて最後に一度だけでも声が聞きたい。マリアは眠るアルコイの側で彼の手をずっと握っていた。

 

 そんな思いが届いたのか、真夜中、彼は薄く目を開けた。

 

「マリー……?」

 

 酷く掠れた声で、絞り出したように愛しい人の名前を呼ぶ。

 

「アル……?アルっ!!」

 

 目を覚ましたアルコイに、マリアは大粒の涙を流しながら抱きついた。

 

「マリー……。愛してる」

「ええ……!私も愛しているわ……アル……?お願い、目を開けて?アル!?」

 

 それが彼の最後の言葉となった。

 

 葬儀のことはあまり覚えていない。気づけば彼は、冷たい土の下に眠ってしまっていた。

 

(これから……どうしたらいいの……)

 

 私たちの間に子はいない。次に跡を継ぐのは彼の弟であるイースターとなる。実家に帰るか、修道院に入るか……。しかし彼との思い出が残るこの屋敷をすぐに出ていく決心も付かず、一日、また一日と、遺品の整理と称して屋敷を出ていく日を引き延ばしてしまった。

 

 それがいけなかった。あの時、彼の葬儀が終わったその日のうちにでも屋敷を出るべきだったのだ。これは彼女の人生で最も重い後悔となる。


 *

 

 その夜は、執務室で書類の整理をしていた。

 

 ——ガチャリ

 

 突然開いた扉に驚いて顔を上げると、酒瓶を片手に扉に寄りかかる義弟、イースターがいた。

 

「こんな時間まで兄の尻拭いか、熱心なことで」

 

 マリアはこの素行の悪い義弟に苦手意識を抱いていた。普段は別邸に住んでおり、顔を合わせる機会はなかったが、たまに夜中に本邸に酔った状態でふらりと顔を見せては、アルコイの注意も聞かず酒を飲んでいた。それに、マリアが一番苦手意識を抱いていたのは、この男の不躾な視線であった。物色するように舐め回す視線は、欲の対象として自分を見ている気がしてならず、不快な居心地の悪さを感じるものだった。

 

 二人きりになってはいけない。そんな危機感にマリアは机の上の書類を雑に束ねて引き出しにしまった。

 

「今日はもう終わりましたわ。では、おやすみなさいませ」

 

 部屋を出ようと、そそくさと彼の横を通ろうとしたその時……

 

「どこへ行く?そんなに急がなくてもいいじゃないか」

 

 イースターに強い力で腕を掴まれた。

 

「ひっ……!いや……離してください……!」

 

 掴まれた腕が嫌悪感で粟立つ。咄嗟に振り解こうとするも、彼女の華奢な腕では難しかった。

 

「俺は当主になったんだ!この家のものは全て俺のものだ……!もちろん、お前もな」

「私は、逆縁婚はしませんわ!」

 

 気持ちの悪さに咄嗟に強い口調で言い返してしまった。早くここから離れたい一心だった。

 それがイースターの神経を逆撫でしてしまったのだ。

 

「なんだと!!」

 

 ガシャン!——パリンッ

 

 イースターは持っていた酒瓶を、マリアの頭の横の壁に叩きつけた。酒瓶は割れ、破片が飛び散った。

 

「な……に……」

 

 突然感じた命の危機に、マリアの膝が震える。

 イースターは怯えるマリアの喉元に、手元に残った割れた酒瓶の鋭利な切先を突きつけた。

 

「脱げ」

「……え……、な……なにを……いって……」

「いいから黙って従え!当主の言うことが聞けないのか!?」

「……っ」

 

 喉元に突きつけられたガラスの鋭利な破片が、チラチラと光を反射する。

 その夜、彼女は脅しと暴力によって踏みつけられた。

 

 *

 

 この夜のせいで、マリアはクルメリオン侯爵家を出ていくことを許されなくなった。もし子ができていれば、イースターに嫁がなければならない。彼とは出会わないように避け、拒み続けたが、運命は残酷であった。

 

「おめでとうございます、ご懐妊です」

 

 医師が告げた言葉に、目の前が真っ黒に染まった。恐れていたことが起きてしまったのだ。

 

(私は……この先一生あの男に囚われ続けなければならないの……?)

 

 絶望に染まったマリアは、その日の晩、深い闇に誘われるようにふらふらと屋敷のバルコニーへと歩を進めた。

 眼下には冷たい石畳が広がっている。ここから身を投げれば、この絶望からも、あの悍ましい男からも逃れられる。アルコイのいる場所へ行ける。

 

(アル……今そちらへ行くわ)

 

 手すりに手をかけ、身を乗り出そうとした、その時だった。

 ふと、強い向かい風が吹いて、押し戻されるように一歩後ろによろけた。その拍子に、胸元に忍ばせていたペンダントが冷たく肌に触れた。そのペンダントには、彼の遺髪が封じてある。突然の風と、その後に感じたペンダントの感触は、まるで「まだこちらに来るな」とアルコイに言われたようで。

 

『マリー……。愛してる』

 

 脳裏に、彼が最期に遺した掠れ声が蘇った。

 

「……アル」

 

 バルコニーの冷たい風に吹かれながら、マリアは一筋の涙を零し、手すりから手を離した。生きなければ。アルの迎えが来るその日まで。


 *

 

 それから数日後、イースターとの正式な婚姻の手続きが進められる中、マリアはあることに気がついた。

 貴族の婚姻において、様々な書類のやり取りの中で「男性側の生殖機能に問題はないか」を確認した証明書を提出する暗黙の了解がある。しかし、イースターはそれを出そうとしなかったのだ。

 

 それとなく尋ねると、彼は鼻で笑って言い放った。

 

「俺の種がお前の腹にいるのが、何よりの証明だろう。そんな紙切れなど出す必要はない」


 そもそも、そうした検査は青年期に受けているはずだ。なぜその提出を拒むのか。不自然に思ったマリアは、侯爵家の書斎をくまなく探し、過去の記録を遡った。

 ——しかし、その書類が見つかることはなかった。彼は、実の母親から跡取りには不適合とされ、検査すら受けていなかったのだ。

 

 その事実に辿り着いたマリアは、一筋の希望を見出した。

 お腹の子は、あの悍ましい一夜で授かったとばかり思い込んでいた。アルコイに嫁いで数年が経過していたが、一度も妊娠の気配が無かったからだ。

 だが、アルコイが亡くなる直前まで、二人は愛し合う夫婦として肌を重ねていた。そしてアルコイは、結婚時に何の問題もないと証明書を提出している。

 もし、イースターには何か証明書を出したくない理由があるのだとしたら。

 

(この子は……アルの子かもしれない……!)

 

 うっすらと湧いた希望は、マリアに絶大な生きる活力を与えた。

 彼女は再び「クルメリオン侯爵夫人」として立ち上がり、屋敷の管理を始めた。

 

 そして、しばらくの後、マリアはアルコイの死因に気づくことになる。

 

「……あら?これは……どうしてこんなところに……?」

 

 仕事で過去の帳簿が必要になったマリアは、書類を探していた倉庫で見慣れた瓶を発見した。それは亡き夫アルコイが飲んでいた持病の薬の瓶だった。しかし、アルコイが処方された薬は執務室の引き出しと寝室に置いていたはずであり、こんなところでその瓶と出会ったことに、マリアは違和感を拭えなかった。

 中を確認したマリアは、その違和感を確信へと変えた。

 

「変色してる……まだ使用期限内のはずなのに……」

 

 この国で処方される薬は、特殊な技術によって使用期限を過ぎると黒く変色するように作られている。外側のラベルに記載のある使用期限はまだ期間がある。つまりこれは、中身が入れ替えられているものだ。

 

 ふとマリアの脳内に、アルコイが亡くなる前日の記憶が甦る。その日、イースターが本邸を訪れてはいなかったか。マリアはその瓶に入った錠剤を、秘密裏に鑑定へ回した。

 

 結果として、その薬はよくある風邪薬だった。

 

 しかし、アルコイの持病の薬と合わせて飲むと、高い確率で副作用をもたらすものであった。

 

「アルは……イースターに殺された……?」

 

 真実に辿り着いた頃には、マリアの目から涙は枯れ果てた。

 

(あの男……!愛する夫を殺し、侯爵位を奪い、私を……!!)

 

 その日、マリアの心にどす黒い復讐の炎が宿った。

 

 手にした証拠は、あくまで一般的な風邪薬。騎士団に突き出しても、殺人罪に問うことはできない。

 

 しかし、幸か不幸か、そのころイースターは、違法賭博に傾倒し始めた。

 マリアは止めなかった。冷静に、我が子が家を継げずとも困らないだけの資産を、賭博に食い潰される前に密かに実家へと移し始めた。そして、イースターの賭博に気づかない都合の良い妻を演じ、泳がせた。あの男が完全に腐りきり、どうしても言い訳のできない証拠と破産で、救いようのない破滅を迎えるその日まで。

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