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23話:仮初の婚約者への独占欲

 公爵家の馬車に揺られることしばし、私たちは舞踏会の主会場である王宮の大ホールへと到着した。

 

 案内人の手によって、重厚な両開きの扉が左右に厳かに開かれた瞬間、目も眩むような煌めきの洪水が視界に飛び込んできた。同時に、オーケストラの華やかな演奏が私の鼓膜を心地よく震わせる。

 

「さあ、行こうか。クラリッサ」

 

 正装に身を包んだライオス様が優しく微笑み、エスコートのために温かい手を差し出してくれる。私は深く息を吸い込んで緊張を落ち着かせると、その手の上に自身の右手をそっと重ねた。


 足を踏み入れた会場は、まさに息を呑むほど絢爛豪華だった。

 天井に並ぶ巨大なクリスタルシャンデリアが、万華鏡のように幾千もの色彩をきらびやかに散りばめている。私たちは大理石の階段を一段一段、ゆっくりと下り、熱気に満ちたホールへと降り立った。

 

 ホールにはきらびやかな衣装を身に纏った、国中の若き貴族たちがひしめき合っている。しかし、その空間にあっても、ライオス様の美貌はやはり群を抜いてまばゆい光を放っていた。彼が歩くだけで、周囲の視線が吸い寄せられるように集まっていくのがわかる。

 

 やがて、慣例通りパートナー同士で踊るファーストダンスの時間がやって来た。

 

「君と踊るこの瞬間を、ずっと楽しみにしていたんだ」

 

 ライオス様は私の手を優しく握り、もう片方の手をそっと腰に添えた。

 彼の淀みない完璧なリードに導かれ、私たちの身体が滑るように大理石の床の上を踊り出した。

 

(ダンスなんて、一体何年ぶりかしら……)

 

 前夫のイースターに嫁いでからの五年間、私はただの一度も舞踏会や夜会といった華やかな場所に連れて行ってもらえなかった。

『お前のような地味で価値のない女を連れて歩くのはクルメリオン家の恥だ』

『準備にかかるドレス代も化粧代も、すべてドブに捨てるようなものでもったいないわ』

 そう前夫やベリリアス様たちに罵られ、薄暗い離宮から出ることはなかった。

 

 久しぶりすぎるダンスに、最初は体中が強張ってステップを踏み外してしまうのではないかと生きた心地がしなかった。けれど――私の不安をすべて溶かすようなライオス様の手の温もりと、丁寧でスマートなリードのおかげで、気づけば嘘のように自然と足が動いていた。

 

 翡翠色のドレスの裾がふわりと宙に美しい弧を描く。

 

 楽団が奏でる優雅な旋律に合わせてライオス様と視線を交わすたび、私を見つめて優しく微笑む彼の笑顔に、胸の奥がぎゅうと甘く締め付けられた。

 

 そんな私たちの周囲では、さざ波のようなざわめきが静かに、しかし確実に広がっていた。

 

「ご覧になって……!ライオス様よ!お相手はどなた……?」

「翡翠色のドレス……あんな素晴らしい仕立て、どこのアトリエかしら」

「ライオス様が婚約されたという噂は、本当だったのかしら……」

「嘘でしょう!?まさかあの方が、最近ライオス様と一緒にいるところをお見かけするという……?」

 

 踊りながら耳に届く、周囲のひそひそ話。

 しばらく社交界に顔を出していなかったことと、公爵家の侍女たちが総力を挙げて施してくれた見違えるようなドレスアップのおかげで、今のところ私だと正確に分かっている人は少なそうだ。

 

(けれど、もし私が、子を成す能力がない石女として離縁された女だとバレてしまったら……)


 そんな人をパートナーとしているライオス様の評判を落としてしまうし、向けられるであろう冷たい目線を思うと恐怖で指先が冷たくなっていくのを感じた。

 願わくばこのまま正体がバレないで欲しい。私の視線は顔を隠すようにどんどん下へ向いていった。

 

 すると、そんな私の心の見透かしたかのように、ライオス様の手にきゅっと力がこもった。

 

「クラリッサ、大丈夫。自信を持って。せっかく綺麗にしてきてくれたんだ。僕に顔を見せてくれないかな?」

「も、申し訳ありません……!」

 

 耳元で甘く囁かれ、私は弾かれたように顔を上げ、彼を見つめ返す。彼の神秘的な翡翠の瞳は、まるでこの世界に私だけが存在しているかのように、真っ直ぐに私だけを写していた。

 

 舞踏会のダンスは男女が密接に寄り添って踊る。当然といえば当然なのだが、顔を上げた先でライオス様の微笑みを至近距離でくらい、私は思わず赤面して狼狽えてしまった。

 そんな私とは対照的に、余裕の微笑みを絶やさないライオス様は、悪戯っぽく目を細める。

 

「全身、僕の贈り物でいっぱいだね、クラリッサ。いつもの落ち着いた装いも大好きだけど、こうしてドレスアップした君の姿は、いっそう綺麗だ。誰の目にも触れないように隠してしまいたいくらいだよ」

「……っ!あ、ありがとうございます……。ラ、ライオス様こそ、正装が本当によくお似合いになりますね。とても、素敵です」

 

 社交界において、めかし込んだ相手の装いや装飾品を褒めるのは一つのマナーだ。そう自分に言い聞かせるけれど、褒められ慣れていない私は思わず嬉しくなってしまう。

 ライオス様への言葉は、本心から出た言葉だった。彼の凛々しい正装姿はあまりにも格好良くて、直視できないほど眩しい。

 

 すると、私の言葉を聞いたライオス様は、それまでの余裕な大人の仮面をどこかへ放り投げ、パッと子犬のように表情を輝かせて言った。

 

「本当かい!?色々悩んで選んだ甲斐があったよ!実はね、クラリッサの綺麗な琥珀色の瞳に合わせて、僕のこのブローチとピアスには琥珀を使っているんだよ。どうかな?」

「はい、とてもお似合いですわ。本当に素敵です」

「よかった……!君にそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ」

 

 さっきまでの完璧な公爵令息の微笑みはどこへやら、まるで宿題をよくできたと先生に褒められた少年のような、無邪気な笑顔。その不意の可愛らしさとギャップに、私の心臓はキュンとときめいてしまった。

 

 ライオス様との楽しいお話に夢中になっていると、気づけば一曲目の演奏が終わっていた。

 鳴り響く拍手の中、ライオス様は重ねた手を名残惜しそうに見つめ、伺うように訊ねて来た。

 

「もう一曲、ご一緒してもいいかな?」

「はい、よろこんで!」

 

 この甘くて楽しい時間を、もう少しだけ――。そんな贅沢な欲が出てしまった私は、彼の提案に、弾んだ声で快く頷くのだった。

 

 *

 

 結局、ライオス様からの熱烈なアンコールにより、続けて三曲を踊りきり、私たちは一度休憩のためにホールの脇へと逸れることにした。

 

 しかし、脇に逸れた瞬間、休む間もなく周囲からライオス様の元へ、我先にと令嬢たちが殺到した。

 

「ライオス様!素晴らしいダンスでしたわ!」

「次の演目はぜひ、私と踊っていただけませんか?」

「まあ、私の方が先に順番をお待ちしておりましたのよ!」

 

 社交界のスターたる彼とお近づきになろうと、次々に群がる若く可憐な令嬢たち。

 あっという間に人の波に押され、輪の外側へと追いやられた私は、それを見てすっと現実に引き戻された。

 

(……ええ、そうよね。彼は、社交界から離れていた私の元にまで噂が届くほどの、誰もが羨む人気者。どんなお相手でも自由に選べる立場の方なのだわ。私はあくまで大量に届くお見合いを効率的に断るための盾。仮初の婚約者よ。ずっと彼の側にいて、将来の相応しいお相手を探す邪魔をしてはいけない……)

 

 私は空気を読み、これ以上ライオス様の社交の障壁になってはいけないと、彼らに背を向けてそっと華やかな人だかりから離れた。

 少し喉を潤そうと、会場の隅、最も目立たない壁際の影へと下がり、給仕から受け取った冷たい飲み物を手にする。

 

 ふう、と小さくため息を吐いた、その時だった。

 

「おや、一人ですか?美しい方」

「パートナーに置いていかれてしまったのかな?よければ僕達と、順番に踊ってくれないかい?」

 

 不意に背後から声をかけられ、私はびくりと肩を揺らした。

 振り返ると、そこには華美な衣装を着た、見知らぬ若い貴族の青年が二人、私の退路を塞ぐようにして品定めの視線を向けて立っていた。

 

「あ、あの、申し訳ありません。私は、その……」

「おや、遠慮することはないよ。君のような美しい人をこんな隅っこに放っておくような甲斐性なしのパートナーなんて、気にしなくていいさ。僕たちと別で楽しんだって、何の問題もないだろう?」

 

 ぐい、と男の手が、私へと伸びてくる。

 この舞踏会はいくつかの会場に分かれて行われており、今私がいる場所は最高位の貴族が集まる第一会場だ。つまり、目の前の青年たちはかなり格上の爵位を持つ家柄の可能性が非常に高い。どうにか失礼のないようにお断りしなければ、と身を強張らせたその時。

 

 視界の端から、早足でこちらへと直進してくるライオス様の姿が見えた。

 

「――私の婚約者に、何か用かな?」

 

 ライオス様は、青年が私の腕に伸ばしていた腕を掴み取り、鼓膜を芯から凍りつかせるような、冷ややかな声を響かせた。

 

「ひっ、ラ、ライオス様の……こ、婚約者……!?ご婚約されていたとは知らず、大変失礼いたしました……!」

 

 青年たちが一瞬にして真っ青になり、ガタガタと震えながら数歩後ずさる。

 ライオス様は私と青年たちの間に割り込むように立ち、私を背後に隠した。その表情は確認できないが、彼の全身から放たれる凄まじい威圧感に、青年たちは震え上がっている。

 普段の優しいライオス様からは到底想像もつかない気配だった。

 

「彼女は私の婚約者だ。君たちの女性を見る目は確かだったようだが……あいにく私は一度のダンスだって譲る気はなくてね。私と張り合うつもりというのであれば相手をするが?」

「ひ、ひぃっ……!と、とんでもございません……!し、失礼いたしました……っ!」

 

 ライオス様の、氷の刃のような牽制に、腰を抜かしそうなほど怯えた青年たちは、脱兎のごとくその場から一目散に逃げ去っていった。


 彼らの姿が見えなくなったのを見届けると、ライオス様はくるりと振り返り、私の肩を優しく抱き寄せた。さっきの恐ろしい気配は嘘のように消えており、その顔にはいつもの穏やかで優しい微笑みが湛えられていた。

 

「大丈夫だったかい、クラリッサ?ほんの少し目を離した隙に、不快な羽虫が寄ってくるなんて……。君が魅力的になりすぎるのも、僕にとっては嬉しいけれど困りものだね」

「い、いえ、私は大丈夫ですわ……。ですが、ライオス様はよろしかったのですか……?てっきりどなたかとダンスをご一緒されているかと……」

「うん?僕が君以外の女性と踊るわけがないだろう?……それに、ちょうどアレンに呼ばれたんだ。ここは少し騒がしいし、サロンへ移動しよう」

「ま、まさか……アレン王太子殿下でいらっしゃいますか!?」


 当然のようにさらりと告げられた、この国の王太子の名に、私は思わず息を呑んだ。

 

「そうだけど、彼とは学生時代からの気心の知れた幼馴染みたいなものだから、何も緊張しなくていいよ」

 

 ライオス様はそう言うと、私の手を優しく引き、王太子直々に許されたものしか入室できない、プライベートサロンへと私を導いていったのだった。

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