虎の恩返し?
「戦に勝ったと言うのに、我々はまるで敗残兵のようだな……」
ローゼンハイム伯が嘆くのも、無理のないことだ。
バイエルン王都の叛乱、いやクーデターの一報を聞いた私たちは、アルフォンス様率いるロワール軍と分かれて、急ぎ本国に戻らざるを得なかった。幸いなことに連合軍が完全に王都を制圧し、敵の首魁たるトゥールーズ公を拘束したことで、日和見だった貴族たちも王党派への参加を次々表明しているところだ。バイエルン軍が引き上げたとて、もはやアルフォンス様の優勢は動かないだろう。
だけど、ロワールにおける西教会の影響力は、想像以上であった。他の宗教を弾圧し、唯一無二の教えであったそれは、民衆の生活全てに浸透し、支配していたのだ。
そして今回その西教会は、叛乱側に与している。教会関係者が住民に有形無形の圧力や命令をくだすことで、私たちがバイエルンへの帰途立ち寄る街では門を固く閉められて入城を拒否され、補給物資の購入を断られ、村では水場の利用すら禁じられる。肩を並べて戦ったはずの盟友ベルフォール辺境伯様の領地に入っても、扱いは変わらないのだ……住民たちにとっては、領主より教会長のほうが、より畏怖の対象であるみたいなの。
もちろんこっちは三万の大軍だ。本気を出せば強引に押し通ることも、水や補給物資を奪うこともできるけれど、救援に来たはずの友邦で略奪行為を働くわけにもいかない。仕方なく街を迂回し、アルフォンス様から融通された補給物資で食いつなぎつつ、バイエルンを目指すしかなくなるわけで……「まるで敗残兵」と、伯爵様が自嘲される気持ちは、よくわかる。
「水の問題が、一番深刻だな」
そうなのだ。街や村に入れてもらえないことで、まともな水を補給することができないことが、最大の悩みなの。
「食べ物は保存食で数日何とかなっても、水は毎日必要ですからね……」
私もここ数日、顔を洗うことすらできていない。ビアンカが川の水を浸した布で身体を甲斐甲斐しく拭いてくれているから、臭くはないと信じたいけど……
「川の水は見た目綺麗でも、飲用にはなかなか難しい。昨日も腹を壊した兵が、千人近く出てしまった。このままでは……」
伯爵様の眉間に、深い皺が寄る。歴戦のローゼンハイム伯でも「住民みんなが敵」状態は、きついよね。
解決策のないままに、野営準備を進める兵士たちの様子をぼんやり眺める私たち。あちこちで火が焚かれるけれど、料理の匂いは漂ってこない。
沈んだ気持ちで佇む私の耳に、兵士たちの驚きの声が飛び込んでくる。これは最初遠くからだったけれど、だんだん近づいてきて……やがて兵の群れが割れ、そこから見事な縞模様を持つ魔獣が、私の前に現れた。
「あら、貴方は……」
(覚えていてくれたか、光栄というもの)
「こんな街道に出て来るなんて、どうしたの? 貴方たちの狩場は、もっと南のはずよ?」
眼の前にいるサーベルタイガーは一つ鼻を鳴らすと、背を向け歩き出した。
「ねえ、どうしたの!」
(族長に命じられて来たのだ。ついて来い)
虎さんは、それ以上何も言わず、南の森に入っていく。ロワールの東部は、街道を少し外れれば、うっそうとした針葉樹の森に変わる。五分ほど歩いただろうか、私にぴったり離れず守ってくれていたビアンカが、その虎耳をぴくっと動かした。
「この音は! お姉さん、行きましょうっ!」
鈴を転がすような声で叫ぶなり、私の手をグイグイ引いて前へ進んでいく。なんだかわからないけど、とりあえず転ばないように必死でついていくと……さすがに鈍い私の耳にも、流れ落ちる水の音が聞こえてきた。街道からは木立ちに隠れて見えなかった大きな岩塊の割れ目から、清冽な湧き水が滔々と流れ出しているのだ。
(ここの水は人間でも飲める)
「貴方、これを教えてくれるために、来てくれたの?」
(そうだ、きっと困っているはずだと、族長が言っておってな)
「ありがとうっ!」
私は思わず、虎さんの首に抱きついていた。だって、すっごく嬉しかったのだもの。困っていた水が手に入った喜びはもちろんあるけど、あの族長さんが、まだ私を助けようって思ってくれているのに、とっても感動しちゃったんだ。
(うむ、聖女の考えていることはわかるような気がするが……まあ、これは、族長からの礼だからな?)
「お礼? 何のこと?」
何も、お礼されるようなこと、してないけどな。むしろ私は、彼の息子ヴィクトルを奪ってしまった負い目が、一生忘れられそうもないのだけど。
(もちろん、族長とそのつがいに春を取り戻してくれたことへの感謝に決まっているだろう。もはや彼らはここのところ毎晩……)
うはっ、そっちだったか。私の生き血で若返ってしまった族長夫妻は、せっせと子作りに励んでおられるらしい。なんだかお嫁入り前の令嬢としては、気恥ずかしくなってしまう。兵士さんたちがもう湧き水に夢中で紅くなった私を見ていなかったことだけが、幸いね。




