001 5月にやって来た転校生
「織原くん、私と付き合ってください!」
放課後、校舎裏に呼び出されてこの言葉を繰り出されるのは何度目だろうか?
数を覚えてないほどに俺は告白を受けていたし、そのたびに丁重に断っていた。佐藤さんもその一人に加わるのだと、俺は別に悪いことをしたわけではないが謎の罪悪感を抱いた。
「佐藤さん。気持ちは嬉しいけど、俺、恋愛には興味ないんだ」
そう告げると彼女は目に涙を溜めて俯いた。今回の告白に際して相当の勇気を振り絞ってきたのだろう。そう思うと俺の罪悪感はいっそうのものとなったが、興味のないものだから仕方ない。
「それじゃ、俺は帰るから」
「……あ、待って」
「なに?」
振り返って問い掛けると彼女は「なんでもない」と震える声で言った。特に用がないというのなら早く帰ろう。俺は再び彼女に背を向け、歩き出す。今日の夕食は何にしようかと考えながら歩いていると、校舎の角から様子を見守っていたと思しき大谷さんが俺を睨んだ。そういえば2人は仲が良かったっけ。
「…………」
大谷さんは何か言いたげだったが、結局は何も言わなかった。大方、友人を振った酷い男を詰ってやろうと考えていたのだろう。2人は幼なじみだと聞くし、それも一入だろう。
まあ、そう気にすることでもないや。
俺は努めて彼女見ないようにして校門へと、校外へと向かった。いつも通りの特筆すべきものもない道を歩き、電車に乗り込み、痴漢と間違われないように両手でつり革を掴んで揺られる。そうして数分を過ごすと俺は家の最寄り駅で降りた。それから近くにあるスーパーへと向かう。
昨日は2日連続でカレーだったからな。姉さんも他のものが食べたいだろう。
そう考えながら店内をうろついていると、今日はタマネギが特売日だった。それを見た俺は今日は生姜焼きにしようと思い至った。豚肉とエバラの生姜焼きのタレと、サラダ用にレタスとトマトをバスケットに入れてレジへ向かう。見知った店員が「今夜は生姜焼きかな?」と微笑み混じりに訪ねてくる。
「はい。タマネギが安かったんで」
「そうだね。今日はタマネギを買っていく人が多いんだよ」
そんなやり取りをしながらも店員はバーコードをスキャンして行き、会計に移る。俺は千といくらかを支払うとそれ以上に会話することなく立ち去った。そうして店外に出る頃には空が赤く染まっていた。それに1日の終わりを感じながらも俺は帰路に就いた。
「ただいま」
誰もいない2DKの部屋に挨拶をするが、当然、返ってくることなはない。それが当たり前だから、俺は当たり前の行動を取る。勉強道具の詰まった鞄を自室において俺は夕食の用意をする。自分の分と、いつも遅くに帰ってくる姉さんの分を拵えると俺は1人で食事を摂った。
「ごちそうさま」
それから食器を片付けると俺は部屋に籠もって宿題をこなした。時計を見ると既に7時を回っていが、姉さんが帰ってくる気配はない。俺も将来、こんな遅くまで働かされるハメになるのだろうかと、人生を悲観しつつ、趣味である読書に耽った。
今、読んでいるのはドストエフスキーの名著『罪と罰』だった。
これを読むのは2度目だが、ロシア文学は難解である故、再読した方がいろいろと楽しめて良い。
俺はこの作品の何処が好きかと問われたならば、罪を罪としてそのまま断じるのではなく、情状酌量による罪人の救済と再生を描く作品としての懐の深さだった。もちろん犯罪者を擁護する気はさらさらないが、物事にはいろんな一面があると言うことをこの作品は教えてくれた。
「…………」
読書に集中していたが、ふと時計を見ると既に9時を回っていた。いつもならそろそろ姉さんが帰ってくるだろう。そう思いながら背筋を伸ばすとドアを解錠する音が聞こえてきた。それに反応して廊下に出ると疲れ切った顔をした姉さんと会った。
「お帰り、姉さん」
「ああ、ただいま、紬。今夜は何?」
「タマネギが安かったから生姜焼きにしたよ?」
「やった!」
生姜焼きは姉さんの好物の一つだった。それにしても、姉さんはいつも子供みたいに喜ぶな。もう社会人なのに。ふとそんなことを思いながら俺は話を続ける。
「夕飯、温めておくから先にお風呂、入っちゃって」
「ありがと。そうするわ」
そんなやり取りの末、俺たちは別れた。姉さんに言ったとおり夕食を温めながら『自分もいずれは社畜になるんだ』と将来を悲観した。俺は何かやりたいことがあるわけではない。なにか、自分が人生を捧げたいと言えるものがあれば良いのだが、生憎と見つかっていない。
「はあ……」
無意識にため息をついてしまう。すると廊下の方から声がした。
「何ため息ついてんのよ?」
「俺も社畜になるんだなって」
「俺もって、まるで私が社畜みたいじゃない」
「実際そうでしょ?」
すると姉さんは後ろ手に扉を閉じながら苦笑した。
「私はプログラミングするのが好きなのよ。だから社畜なんかじゃないわ」
と、システムエンジニアの姉さんは言い切った。全く以て、羨ましい限りだ。
「アンタも何かやりたいこと見つければ良いじゃないの? 読書好きなんだし、作家を目指すとかさ」
「俺は読む専門だ」
「あっそ。なら精々拘ることね」
そう言いながら姉さんは席に着いた。いただきますもなしに食べ始めるのを俺は良く思わないが、そんな些細なことで言い合いはしたくない。だから俺はその様子を尻目に、「食べ終わったらシンクに入れといて」とだけ言って自室へ戻った。そうして再び読書をした後、俺は洗い物をして眠りに就いた。
俺の朝は早い。家賃や生活費、小遣いなどを姉さんが負担してくれている分、俺は調理や掃除、洗濯といった家事のあらゆるを引き受けてるからだ。そうして諸々を片付けた頃、タイミング良く姉さんが起きてくる。
「ふぁ……おはよ」
「おはよう。今朝は和食だからね」
味噌汁に焼き鮭、それに納豆とたくあんのごく標準的なセットだった。しかし、魚嫌いな姉さんは「うげっ」と汚いものでも見たかのような声を出す。
「紬。私が魚嫌いなのは知ってるわよね?」
「28にもなって好き嫌いしないの」
「けっ!」
姉さんは舌打ちしながらも席に着くと真っ先に焼き鮭を片付け、残りを腹に詰めし込んだ。
「ちゃんと噛んでる?」
「噛んでるわよ。それより、私、もう出るから」
「今朝はやけに早いんだね」
「納期が迫ってるからね。それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
そうして姉さんを見送ると俺は食器を片し、洗濯ものを干した。そうして諸々の家事を終える頃には登校する頃になっていて、俺は読みかけの本を鞄に詰め込むと玄関に立ち、誰もいない屋内に「行ってきます」と呼び掛け、外へ出た。
施錠をすると俺は深いため息をついて通学路を行く。
学校が特別嫌いという訳ではないが、昨日、佐藤さんの告白を振ったものだから、相応の目に遭うのだろうと俺は憂慮していた。
そうして学校までやって来た俺を待ち受けていたのは嫌悪するような視線の数々だ。佐藤さんと仲の良かった女子たちはもちろん、彼女に好意を寄せる男子たちまでもが恨めしい視線を投げ掛けてくる。
「…………」
俺は努めて気にしないようにして自席に着き、読みかけの『罪と罰』を広げる。そうして読書に浸っている間は俺の心は静謐を保っていられた。しかし朝のチャイムと柏木先生の声によって現実に引き戻される。
その瞬間、俺は異変に気付いた。
老齢の柏木先生の隣には丸メガネを掛けた小柄な女子が立っていた。
具体的に言えば身長は150センチを下回っているのは明らかで、スカートの裾から覗くふくらはぎは容易く折れてしまいそうだ。そんな虚弱そうな彼女はその体格に相応しくおどおどしていた。綺麗な茶髪の合間から覗く胡桃色の瞳はあちこちと忙しなく視線を振り回している。
誰もが彼女に注目する中、柏木先生は喉を鳴らしてから言う。
「え~、本日からこのクラスでもう一人生徒を受け持つことになった」
先生はそこまで言うと彼女の方を見た。
「自己紹介をしなさい」
その他愛もない一言に彼女はビクリと肩を跳ね上げた。
「あ、えど、あの……わたし、こ、小森……あ、くる、み……胡桃です。……します」
『たどたどしい』という言葉では些か足りないほどに訥々とした自己紹介に俺はもとより、クラスメイトたちも目をぱちくりさせていた。
「窓際の1番後ろに空席があるだろう? そこを使いなさい」
それは奇しくも俺の隣の席だった。
「は、はい……」
怖ず怖ずと答えると小森さんは身を縮み込ませてトコトコと歩き、俺の隣の席に着いた。それから大きなため息をするが、それがやけに大きく響いた。そのせいか、彼女は赤面して項垂れた。
……変わった子だな。
俺がそんな感想を抱く間にホームルームが終わった。それと入れ替わる形で始まったのは――
「小森さんってどこから来たの?」
「なんで5月なんて半端な時期に転校してきたの?」
「趣味はなに?」
「恋人とかいるの?」
――と、変な時期にやって来た転入生への質問攻めだった。
その中には昨日俺が振った佐藤さんとその親友の大谷さんもいた。ホームルームでの振る舞いから察していたことだが、小森さんは「あ、あ……」と繰り返すばかりでまともな会話にならなかった。そうして微妙な空気が漂うのを余所に、俺は読書を再開する。
そうしてしばらく、キンコンカンコンとチャイムがなると、一同が三々五々に散っていった。俺はその様子に辟易しながら本を閉じた。
ふとその時、視線を感じた。
振り向くと小森さんが俺を見ていたが、俺が振り向くと同時に目線を落とした。まるで恐ろしいなにかを見たかのように。
まったく、変わった子だ。
それから俺たちは一時限目を迎えた。教科は歴史。俺は文学好きである故、国語は好きだがそれ以外の科目には特に関心を抱かないでいた。それは言い換えるならば、同級生たちと同じように『こんなことを教わって何になるんだ』という理屈になる。
俺は早くチャイムが流れるのを心待ちにしながらペン回しをしたが、失敗して机の下に落としてしまう。反射的に拾おうとしたその時、隣に掛ける小森さんの表情に思わず目を留めた。
彼女はまるでおとぎ話を聞かされる幼子のように目を輝かせていていた。授業を楽しんでいるとか、そういうことを抜きにして、俺は彼女が知識欲が強いのだと思わされた。
ほんと、つくづく変わっている。
感心するうち授業は終わった。すると彼女は自分に対し興味津々なクラスメイトと自分とを隔絶するように文庫本を開いた。フクロウの刺繍の入ったブックカバーのせいで何を読んでるのか知れない。それが俺に関心を抱かせた。俺は僅かに椅子を引いて、なんともない調子で尋ねる。
「小森さんって本が好きなんだね?」
途端、彼女はビクリと小さな体を跳ね上げて俺の方を向く。まるで盾でも構えるかのように本で口元を隠している。そうして数秒の間を経て彼女は頷いた。
「そうなんだ。俺は今、ドストエフスキーの『罪と罰』を再読してるんだけど、小森さんは何を読んでるの?」
「……あ、『アンの青春』……」
「ああ、モンゴメリのあれね。俺は『赤毛のアン』だけは読んだよ」
そう言うと彼女は僅かに警戒を解いたのがわかった。
「アンを通じて世界を鮮やかに書き綴ってるのが良いよね」
「う、うん……!」
「でもギルバートを石板で殴るシーンは無茶があるよね?」
戯けた調子で言うと彼女は本で口元を隠しながら笑った。
「ふふ、あんなことされたら死んじゃいそうですよね?」
「そうそう。俺は読みながら自分の頭を抱えてたよ」
そんなことをした覚えはないが、今が楽しければ多少の誇張も許されるだろう。現に彼女は笑っているわけだし、それでいいじゃないか。
そんなやり取りをする中、俺は背中に視線が刺さるのを感じた。クラスの人気者を振った翌日に転校生を口説いてるのだから(俺にその気はないのだが)それもそうか。その視線の束に小森さんも気付いたようで、彼女は途端に俺から目を離し、耳を真っ赤に染めて本に視線を落とした。俺も彼女に倣ったが、同好の士との交流を阻まれて若干だが腹立たしいものを感じた。
それからというもの、俺と小森さんが言葉を交わすことはなかった。集団の中にあって彼女は自分の心を開くのが怖いらしい。俺はそういった傾向にないが、今日の経験からその気持ちに僅かな共感の念を抱いた。
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