第25話 ひと冬の奇跡
写真立ては、もうなかった。
カウンターも、扉も、引き戸の溝の砂も、なかった。
コンクリートの平滑な床に、冬の朝日が四角く落ちていた。
光だけが、まだそこにあった。
届く先のないまま、光だけが。
* * *
春になって、しばらく経った頃だった。
男は久しぶりに会った友人と、昼の大通りを歩いていた。
風が柔らかかった。
冬の乾いた風ではなかった。
湿度を含んだ、春の終わりの風だった。
話をしていた。
何の話だったか、男には後から思い出せなかった。
たぶん、どうでもいい話だった。
商店街の方向を通りかかった。
「そういえば」
男が言った。
友人が顔を向けた。
「ほら、あの商店街の外れにある小さい喫茶店」
男は言いながら、路地の方向を手で示した。
「朝だけやってる——」
そこで止まった。
友人が、「え?」と言った。
「なにそれ? 知らない」
男は口を開いたままだった。
朝だけやってる、という言葉が、口の中に残っていた。
現在形だった。
やっていた、ではなかった。
やってる、と言った。
男はもう一度、路地の方向を見た。
「ちょっと待って」
そう言って、路地に入った。
商店街の入り口を通り過ぎた。
惣菜屋の前を通った。
金物店の前を通った。
白い金属板の囲いがあった。
四角く、均質に、かつてそこにあったものを切り取っていた。
プレートに文字が印刷されていた。
男は今度は、読んだ。
ビル建設予定地。
それだけだった。
囲いの外から、内側を見た。
平らだった。
地面が、平らに均されていた。
石畳はなかった。
扉はなかった。
木の表面に手の跡が染み込んだカウンターも、なかった。
椅子も、カップも、棚も、なかった。
写真立ても、なかった。
春の昼の光が、平らな地面を均質に照らしていた。
影が浅かった。
どこも同じ明るさだった。
男は囲いの前に立ったまま、しばらく動かなかった。
友人が追いついてきた。
「どうしたの」
男は答えなかった。
囲いを見ていた。
囲いの中の、平らな地面を見ていた。
光が均質に落ちていた。
写真立てがあった場所を、男は目で探した。
カウンターがあった位置を、探した。
扉があった角度を、探した。
どれも、もうなかった。
「ここに、喫茶店があったんだ」
男が言った。
「あったの?」
「あった」
過去形だった。
あった、と言った。
「朝だけやってた、小さい喫茶店が」
友人は囲いを見た。
「全然知らなかった」
「俺も、今年の冬だけしか知らない」
それだけだった。
それ以上、言わなかった。
言えなかった、というわけではなかった。
ただ、それ以上に言葉がなかった。
コーヒーカップの軽さが、手の中に残っていた気がした。
残っていなかった。
でも、そこにあった気がした。
木の扉の感触が、指の腹にあった気がした。
長い年月が染み込んだだけの茶色の、冷たく乾いた木の感触が。
焙煎の香りが、どこからか来た気がした。
でも来なかった。
春の昼の風の中に、そんなものはなかった。
男は囲いから目を離した。
来た道を戻り始めた。
友人が隣を歩いた。
商店街を抜けた。
大通りに出た。
車が通っていた。
信号が赤だった。
男は信号の前に立って、囲いの方向を見た。
路地の奥は、商店街の屋根に遮られて見えなかった。
信号が青に変わった。
男は歩いた。
あなたはもう覚えていないだろう。
あなたには、もう何も届かない。
それでも、と男は思う。
それでも。
あなたも、あの光の中に彼女を見たはずだ。
カウンターに微笑む彼女を。
確かに見たはずだ。




