第9話 習慣
冬の朝には、
理由のない手順が生まれることがあります。
第9話では、
男がいつの間にか身につけていた
冬の朝の動きと、
その中で出会う光と香りを描きました。
習慣は、
意識より先に体が覚えるものです。
今日も、扉は同じ場所にありました。
真立てのガラスが、霞んだ冬の朝日を受けていた。
鋭い光ではなかった。
遠くが白く煙るような、輪郭の柔らかい光だった。
ガラスの面が、均質に薄く輝いていた。
像は完全には消えていなかった。
白い膜の奥に、女の輪郭が透けていた。
* * *
いつからそうなったのか、男には答えられなかった。
朝、目が覚める。
天井の色を見る。
晴れていれば起き上がる。
曇っていれば、もう少し待つ。
それだけのことが、気づけば冬の朝の手順になっていた。
着替えて、マフラーを巻いて、扉を開ける。
外の空気の質を確かめる。
光の角度を確かめる。
それから歩く。
商店街の抜け道を通る。
惣菜屋の前を通る。
金物店の前を通る。
引き戸の扉の前に着く。
手をかける。
引く。
開けばいい。
開かなければ、来た道を戻る。
それだけだった。
それだけのことが、なぜ習慣になったのか、男は考えなかった。
考えても答えが出ないことを、男は経験として知っていた。
だから考えなかった。
ただ、朝になると体が動いた。
その朝は、霞んでいた。
冷えているのに、空気の中に何かが溶けていた。
水気ではなかった。
光が散乱するような、細かい粒子が空気の中に浮いているような、
そういう朝だった。
遠くが白く煙っていた。
近くはくっきり見えるのに、少し先で輪郭がぼやけた。
扉を引いた。
開いた。
店内に入ると、いつもとちがう香りがした。
深かった。
土に近かった。
焙煎の底の苦みが、そのまま地面まで続いているような、重く長い香りだった。
スパイスとも取れる、判断のつかない複雑な後ろが続いていた。
未織がカップを並べた。
六つ。
横一列に。
男はカップを見た。
手が、分厚い陶器の前で止まった。
土の色だった。
表面に、手仕事の跡が残っていた。
指の跡ではなかった。
道具の跡でもなかった。
誰かが形を整えるときに生まれた、意図しない凹凸だった。
持つと、手に馴染んだ。
重かった。
その重さが、手の中で落ち着いた。
未織はカップを受け取った。
奥へ向かった。
しばらくして、戻ってきた。
コーヒーを注いだ。
湯気が低かった。
高く上がらず、カップの縁から少し上で広がって、消えた。
「深めに焼いてありますわ」
未織が言った。
「後味が長いさかい、急がんと飲んでもらえますか」
男はカップを両手で持った。
重かった。
陶器の厚みが、熱をゆっくりと通した。
すぐには熱くならなかった。
時間をかけて、じわじわと掌に伝わった。
飲んだ。
苦みがあった。
深く、長い苦みだった。
舌の奥から喉にかけて、時間をかけて広がった。
その後ろに、スパイスに似た何かが残った。
消えなかった。
次の一口を飲んでも、まだ残っていた。
窓の外が、白く霞んでいた。
近くの屋根はくっきり見えた。
その向こうが、白い中に溶けていた。
男はコーヒーを飲みながら、その白さを見ていた。
何を考えていたわけではなかった。
ただ、霞んだ白さと、手の中の陶器の重さと、舌の奥に残る苦みが、
同時にそこにあった。
「寒いですね、今日も」
男が言った。
「せやね」
未織が返した。
それで終わり。
それ以上は続かなかった。
続かなくても、何かが欠けた感じはしなかった。
男はコーヒーを飲み終えた。
いつもより時間がかかった。
後味が長かった。
急がなくていい、と言われた通り、急がなかった。
カップを置いたとき、まだ苦みが喉の奥にあった。
立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「おおきに」
扉を引いた。
外に出た。
霞んだ朝の空気が、体の表面に当たった。
光が散乱していた。
影が薄かった。
石畳の目地が、輪郭を少し失いながら続いていた。
男は歩いた。
商店街を抜けた。
朝の人通りが始まっていた。
歩きながら、男は手の平を見た。
陶器の重さが、まだ残っていた気がした。
残っていない。
感触は消えていた。
でも、その重さがそこにあったことを、手が覚えていた。
明日も晴れるかどうか、男には分からなかった。
晴れれば扉は開く。
曇れば開かない。
それだけのことだった。
それだけのことが、冬の朝の手順になっていた。
* * *
霞んだ朝日が、写真立てのガラスを薄く照らしていた。
白い膜の奥で、女の輪郭が透けていた。
カウンターの上の陶器の重さは、男の手の平の記憶の中だけにあった。
店内に、深く長い香りの余韻が残っていた。
この朝は、
光が散乱していました。
その中で、
手の中の陶器の重さと、
舌の奥に残る苦みだけが、
時間の流れをゆっくりと示していました。
未織の言葉は短く、
光は淡く、
香りは長く残りました。
翌朝の光がどうなるかは、
誰にも分かりません。
ただ、
扉を引くという動作だけが、
冬の朝の中に静かに続いていきます。




