犠牲
リヴァイアサンの咆哮が、天を突くように響いた。
黒き波動が渦を巻き、ダンジョン全体が崩壊寸前にまで歪み始める。
「まずい、全員——!」
エギルが指示を飛ばすも、すでに全員の結界は限界を超えていた。
そして、その中心にいるアルノアの腰の短剣が、再び白と黒の双光を帯びて輝き出す。
「これは……?」
アルノアが思わず短剣に手を伸ばそうとした、その瞬間。
「——待て、アルノア」
背後から伸びた手が、短剣を抜き取った。
「カイアス……?」
振り返ると、そこにはボロボロの身体を立たせるカイアスの姿があった。
血まみれの顔、だがその目には覚悟が宿っている。
「これは……お前じゃなくて、俺が使うべきだ」
「なぜ……?」
「一年、俺はこの場所で生きてきた。ただ出口を探して、ただ生きるために……。
でもな、やっとわかったんだ。ここに俺が残ったのは、たぶん——こいつを倒すためだってことに」
短剣を手にしたカイアスの全身が、光と闇の粒子に包まれる。
その輝きは、まるで魂そのものが刃へと変わっていくようだった。
「それに、これは……あいつらの仇だ。あの船で死んでいった、俺の仲間たちの。
——最後に、あの男が笑ってたんだよ。死ぬ瞬間に……その顔、俺は忘れてねぇ」
リヴァイアサンが再び口を開き、巨大な黒の魔力球を収束させる。
「来る……!」
シエラが構え直す。だが、アルノアの隣で彼女は気づいていた。
カイアスが、もう戻ってこられない覚悟をしたことを。
「やめろ、カイアス! お前がいなくなるなんて——!」
「黙って見てろ、小僧。これが俺の戦いだ」
風が吹いた。
カイアスの足元が、風の魔力で跳ね上がる。
「風よ……“最後”の剣となれ」
短剣が、まるで大剣のような輝きを放ち、白と黒の双極のオーラが収束する。
——その一閃は。
「おおおおおおおおおおッ!!」
リヴァイアサンの口腔めがけて、突っ込む。
スプラグナスが何かを叫ぶ声が、もはや遠い。
「うおおおおおおッッッ!!」
刹那、ダンジョン全体が白光に包まれた。
そして——
沈黙が訪れた。
黒い波動が、リヴァイアサンの体から霧のように剥がれ、空中で消えていく。
崩れゆくリヴァイアサンの巨体。
だが、そのすぐ近くに、カイアスの姿はなかった。
アルノアの手の中に、再び戻ってきた短剣だけが、静かに揺れていた。
「……ありがとう、カイアス」
誰かが呟いたその声に、答える者はいなかった。
ただ一つ、風が優しく頬を撫でていった。
⸻
リヴァイアサンが崩れ落ちた瞬間、空気が変わった。
ダンジョンに漂っていた重圧が、まるで海が引くように一気に消えていく。
けれど、安堵の色は誰の顔にも浮かばなかった。
「……まだ、終わってない」
アルノアが、短剣をゆっくりと鞘に収めながら、視線を一点に定める。
そこには——スプラグナスが、立っていた。
あの胸の十字架が淡く、だが不気味に光っている。
「……さすがにやってくれましたね。まさかリヴァイアサンが負けるとは」
顔を覆っていたフードが風で脱げ、その表情がはっきりと見える。
笑っていた。あの時と同じ——カイアスが語った、“最後に笑っていた顔”が、今、そこにある。
「お前……!!」
エギルが剣を構える。だが、スプラグナスは動じなかった。
むしろ楽しげに、ゆっくりとこちらに歩を進めてくる。
「カイアス……ふふ、まさか生きていたとは。ま、どうでもいいことですけど。彼の最後には“意味”があった。そう思いたいでしょう?」
「……お前、何が目的だ」
アルノアの声が鋭く響く。
スプラグナスは、その問いに答えず、代わりに空を見上げた。
「まだまだ“彼”の目覚めには時間がかかるでしょう。けれど、今日で確信できました。やはり、あの“器”はあなたでしたか」
その言葉に、アルノアとシエラがピクリと反応する。
“器”という言葉——それが何を意味するのか、本人たちもまだ完全には知らない。
けれど、それがただの悪意や皮肉ではなく、確かな脅威と因縁を伴う言葉であることを本能で察していた。
「貴様……!」
ラウドが炎を纏い、今にも放とうとするが——
「無駄ですよ、ラウドさん。今の私はここで戦う理由がありません。
むしろ、今この瞬間こそ“彼”の真価を知る貴重な材料です」
にやりと笑うと、スプラグナスの足元に黒い魔法陣が広がり始める。
「さぁ、そろそろ失礼します。近いうちにまたお会いしましょう。今度はもっと……大きな舞台で」
スプラグナスが消えかけたそのとき——
「待て……!」
アルノアが一歩踏み出す。だが、魔法陣が閃光を放ち、スプラグナスの姿は完全に消失した。
残されたのは、微かに揺れる黒い残滓と、言いようのない不安だけだった。
静まり返った空間。
「……行っちまったか」
ゼルドが呟いたその声に、誰も言葉を返せなかった。
勝利の代償として大きすぎる喪失。
そして、確かに何かが始まろうとしている気配。
アルノアは短剣を見つめたまま、静かに呟いた。
「“彼”ってのは……やっぱり、俺の中の“何か”なんだな……」
彼の言葉に、誰も返せなかった。
ただ、シエラが隣に立ち、静かに彼の肩に手を置いた。
風が再び吹く。だが、それはさっきの優しい風ではなかった。
まるで、嵐の前触れのように、冷たく鋭い風だった。
⸻
リヴァイアサンが絶命した直後、辺りに満ちていた黒きオーラは霧が晴れるように消え、空間には静寂が戻っていた。
激戦の余韻が残る中――そこに、カイアスの姿はなかった。
「……カイアス?」
真っ先に駆け寄ったミアが、言葉を失う。
そこにあったのは――彼が戦いの中で振るっていた、巨大な大剣だけだった。
地に突き刺さるようにして立つその剣。
血も傷もついていない。けれど、確かに彼がここにいた証だった。
「……消えた?」
エギルが呟く。
「いや、違う……これは、“還った”んだ」
アルノアが静かに言った。
それはどこか確信に満ちた声であり、同時に――切なさを滲ませていた。
「……カイアスさんは、もうこの場所に縛られなくなった。魂ごと、どこかへ還っていったんだと思う」
誰かが涙を流す音がした。
風が静かに剣の周囲を撫で、まるで別れを告げるように囁いている。
「――本当に、最後までカッコつけるんだから」
ラウドが拳を握る。だが、悔しさではない。敬意と、そして喪失の想いだった。
「この剣……カイアスのものなんだな」
ガレスが大きな手で柄に触れようとしたが、アルノアが首を振る。
「彼のものは、彼に返そう。これは、ここに……“置いていこう”」
誰も異を唱えなかった。
それが、カイアスという冒険者への最大の敬意だと、全員が感じていたからだ。
崖の上――海が一望できる場所に、大剣は静かに立てられた。
風が吹き抜け、まるで彼の魂が空へ還っていくような錯覚を覚えた。
「……ありがとう、カイアスさん。あなたが命を賭けて繋いだ道、俺たちが受け継ぎます」
アルノアは小さく頭を下げた。
その言葉に、シエラがそっと隣に立ち、静かに手を合わせる。
「あなたの選んだ未来が、私たちに託された。なら、迷わずに進みます」
エギルやミアたち、そしてガレス、ラウド、エリス、ゼルドも順に剣へ向き合い、それぞれが別れの言葉を胸に刻む。
その誰もが――彼の生き様を、誇りとした。
風に揺れる草花の中、剣は変わらずそこに在り続ける。
それは、ある冒険者がこの世界に生きたという証。
そして、いつか戻るべき場所への“道標”でもあった。
静かな幕が引かれた。
だがそれは、やがて訪れる更なる嵐の、前触れに過ぎなかった。




