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廃墟(3)

 しかし、私は駆け出してから二秒もしない内に立ち止まってしまう。

 依然として背後からは崩場さんの「鍵が無いとドアは開けられませんよ!」という訴えが聞こえてくるばかりであり、ドアを叩く音がしなければ部屋から出てくる様子も無いのだが、そのために油断し切って立ち止まったのではない。

『どこに行けばいいのか分からないよね、これじゃあ』

 すると、銀の声が私の内側から聞こえてくる。

『逃げるだけならとにかく下の階を目指せばいいけど、今回の目的は落合君の救出だ。でも、これだけたくさんの部屋の中から落合君の居る部屋だけを探すのは至難の業だよね』

 どういう意味か。

 すなわち、部屋を出たすぐに私が二度見した、季節外れの蜃気楼を疑った驚愕の建造物。

 何のことはない、二階建ての一戸建て。

 それが横に五軒並び建って、その上にそれぞれ三軒ずつが垂直に乗っている…………建築基準法どころか、物理法則までも無視したような、異形な建物群。それが青空の下で悠々と(そび)え立っている。

 今はそれ以上の考察を無理矢理に中断しつつ、とにかく、これだけで三×五の十五軒ある。

 そして、二階建ての棟を正面に据えて、向かって左側の棟。

 こちらの棟は、造りそのものは団地のような単純な構造をしているのだが、材質は何故か木材で出来ており、しかも遠目で見て分かるほどに黒色に腐っている。階層は六階建てで、一階当たりの部屋数は六つだから、あの棟だけで三十六部屋がある計算。

 そして、私が今立っているこの棟と、腐った木の棟は通路が繋がっている。

 つまり階層の数は対応していて、部屋数も大雑把に確かめた限りでは大差無いように思われるので、こちらも三十六部屋程度であると仮定出来る。

 すると、この空間上に存在する部屋数は、その数なんと八十七部屋。

 とてもではないが、時間制限付きの中で一挙に調べきれる数では無い……どこから探していいのかも見当が付かず、途方に暮れていたのである。

『とりあえず、あの家の内から適当なのを一つ選んで、そこに入ろうか。落合君を探すのは後回しにしておいて、今は一旦隠れることにしよう。そこで偶然落合君を発見出来たら万事解決だしね。じゃあ、走ろう』

 すると、銀のハンドリングによって私の体は走らされる。

 私はその肉体を自分での制御に移行させつつ、足の全体に鈍痛を感じる……普段より長く歩いた通学路、体育館での準備体操無しの全力疾走……そういったものが着実に私の足を駄目にしたのだろう。

 ただ、足の痛みに観念して手近の木やコンクリートの棟に逃げ込むよりは家の棟の方が良いという判断については、遅まきながら賛同していた。穴だらけで遮蔽物に乏しい部屋々々は、身を隠すのには向いていないだろうから、といった具合に。

 通路の角に備わっていたエレベーターを無視しつつ直角に曲がり、腐った木の棟の通路に差し掛かる。

 案の定、床の方も腐っており、感触柔らかく軋む音がするので、私は底が抜けないように小走りをしつつ考える。

 ……ここは一体、何のための施設なのだろうか。

 監禁をするための施設だと結論付けたところではあるが、どうもその一言で片付けていいような気はしない……そもそも、当初はこの建物を廃墟とばかり考えていたが、廃墟然としているのは黄ばんで黒ずんだコンクリートの棟と腐った木の棟の二つであり、冗談のような家の棟はどれも新築のような白い輝きを放っていて、明らかに廃墟ではない。

 他には、廃墟然としている二つの棟が違う材質で出来上がっているのも分からない。一般的には、こういった複数の棟を擁する団地やマンションは、どれも決まった材質と造形で統一されているはずなのだが……。

「……それとも、全部の棟が、別々の人によって建てられた、とか?」

 息切れをしつつ無意識に思考が口に出ると、滔々とあしらうように銀は言う。

『それは無いと思うけど。廊下は繋がってるんだし、管理者は一人だと思う。まあ、今はそんなことを考えてる場合じゃないよ。ほら』

 すると、私は彼女の言葉に呼応する如く、肩を上下させて足を止める。

 日本式(和風という意味ではない)の家、その二階の部分だけが目の前に存在する。

 そして、その家の前には通路が無く、中に這入る経路が見付からなかったのだが……よくよく考えてみれば、それもそのはずだった。

 私が立っている階層は、地上四階。

 二階建ての家はそれぞれの一階にしか玄関が無く、すなわち他の棟に換算すれば奇数階の階層としか通路は繋がっていないことになるからだ。

 私は大きく深呼吸し、深く息を吸い込むと隣の階段を駆け上がる。腐った木で出来ており、所々に大小さまざまの穴が開いていたので、足が落ちてしまわないように飛び越して上った。

 五階に到着すると、果たして廊下は繋がっていた。

 私はコンクリートで舗装された黒色の廊下(一戸建ての玄関前に存在する通路は基本的に道路だからだろうか)を渡って、一番手前の家の玄関の前に立つ。

 ……さて。

 この、見るからに一般的な一戸建てで、特筆するような点は何一つ無さそうな建造物。

 しかし、この建造物は、今まで通り過ぎたどの棟の一室よりも奇異だった。

 この一戸建ての下に建っていたのは、ごく平凡な三角屋根の家。

 その三角屋根が、どのようにして一戸建て一つ分の重量を支えているというのだろう。

 寸分の狂い無く計算された、この家の重心が下の家の三角屋根の座標と見事に合致する方程式……もしそうなのだとしたら、私が中に入った途端に家は傾き、この棟全体は連鎖的に尽く倒壊して、その先にあるのは落下死か圧死のいずれかではないだろうか…………。

 やはり、腐った木の棟かコンクリートの棟の一室で隠れるべきだろうか、と思い直し始める。

 そちらの構造はまだ建物としての原型を保っており、不安定ではない。しかも、腐った木の棟だったら、廊下に出ずとも腐った壁を壊して隣の部屋に移動出来るかも知れず、逃げられる範囲はかなり広いように思えるのだが……。

 しかし、逡巡は強制的に破られた。

『時間切れだよ、この優柔不断女』

 私の内側から若干の苛立ちと焦りを滲ませた声が響き、それに呼応する如く私の体は動作し、

玄関のドアを開いて中へと入って行ったのだった。



 まず安心するべきなのは、私が玄関を開け、ドアを半開きに支えたまま侵入したにも拘わらず、家は平気の平左で直立不動していたことである。

 ゆえに、私は全く別の理由でもって室内への侵入を躊躇していた。

 銀も無理に急かすことは無く、両者の意思が合致する形の、ごく正当な躊躇い。

 まず、外は快晴だというのに、室内は夜中のような薄暗さ。

 自然光は私の背後からのみ降り注いでおり、日光を遮断した室内には細長い燭台に乗せられたロウソクが、ぼんやりとした灯りの島を玄関の両脇に作っていた。ロウソクの周りの木材は赤黒く照らされていて、豪奢さと物々しさを同時に演出している……あるいは高級な旅館のようであり、あるいは妖怪の住まう怪しい宿のようでもある、といった具合に。

 そして、その奥。

 玄関の真正面に位置する、一つだけしかない障子。

 一つだけということは一般的な障子ではない。よく見てみると障子にはレバー式のドアノブが付いており、ならばこの障子は障子風のドアなのだろう。

 しかし、障子としての機能が完全に損なわれている訳ではない。

 障子は、本来の白さを忘れたかの如く赤々としている……こちら側のロウソクの灯を受けて赤くなっていると考えるには色味が強く、これは向こう側の光源の色を反映しているのだな、と思う。

 何処を振り向いても不気味さを放つ空間、異界への扉でも開いたかのような物語的光景。

 その雰囲気に尻込みしていたのだが、それだけではない。

 障子の向こうから聞こえてくる、音階の高く、それでいて落ち着き払った調子の男性の声。

 私はピクリと肩を震わせつつ、半ばしがみ付くように玄関のドアノブを握りながら話の内容を盗み聞く。

「それにしても中々戻らんな、崩場は。キサメと出て行きよったが、よもや道草でも食っておるのではなかろうな。あの年頃の子供といえば、漏れなく青春家と決まっておるものなぁ」

 矢鱈に口数の多く陽気な、知らない声。

 そして、色々の考察を掘り下げようとする前に、別の人間の話し声がする。

「女を取り逃した、と考えるのが普通だろう。あいつのことだ、下手を打って逆に閉じ込められたに違いない」

 声音から滲み出す不愛嬌の、唸るような重低音。

 聞き間違えるはずもない。最悪の死刑囚、ハジャと呼ばれる男の声だった。

「…………」

 総毛立つような気分がしつつ、生唾を呑んでドアノブを握りしめる。

 ……これは流石に、別の家か部屋を当たった方が賢明だろう。無謀にも程がある。

 などと考えつつ、私は若干の後ずさりをしながら、会話の続きに耳を澄ましていた…………折角見付からずに接近出来たのだから何かしらの収穫は得ておくべきだろうという逞しさが、土壇場になって本能式に発動されたのである。

 そして、盗み聞きの内容。

「そんな大胆な行動に……いや、出るのかも知れんなぁ。まあ、それならそれで致し方あるまい、キサメに向かわせるとするかな。戻って来たらそう伝えよう」

「初めからそうすれば良かっただろう。崩場が妙な催し事などしなければ一度で済んだ」

「妙な、と一蹴してやるなよ。遊び心を知らん人間に遊び心を否定する権利は無かろうに」

「本分も全う出来ない人間が遊び心とやらを発揮する意味は無いだろう。お前は遊び心という言葉について誤った認識をしている。言葉の通じない人間と会話する趣味は、俺には無い」

 それからも貶し合うような話し声はしていたのだが、私は途中からその内容を聞いておらず、別の所に意識を向けていた。

 キサメという人物、それが新たな追手となって私のことを探し回る。

 ただでさえ崩場さんからの追跡も控えているというのに、事態は更に逼迫していくという展開を知らされて、背中に一筋の冷や汗が伝う。

 しかし、これは恐怖に夢中になって話が聞けなくなった、という趣旨のことではない。

 とある逆転の発想。

 ともすれば現実逃避的で、自棄や捨て鉢の根性にも思われてくる奇策だが、私はそれを思いつくや否や、もはや会話の内容に耳を傾ける気などは毛頭無くなったのである。

「…………」

 私はドアを可能な限り無音のままに閉じ、いつの間にか履き替えさせられていた白地のスニーカーを脱ぐと(連れ出す途中でローファーが脱げた代用品だろうか)、框に上がりながらスニーカーを片手に持つ。

 発想の内容はこうだ。

 キサメという人物が現在どこに居るのかは知らないが、恐らくは私が監禁されていた部屋まで行き、その周辺を探しているはず。

 全部で三十六部屋ある、黄ばんで黒ずんだコンクリートの棟。

 そこに彼が向かっている間に……相対的にこの家の中の警備が薄くなっている時に……私はそこを物色して回るのだ。

 収穫さえあれば、内容の是非は問わない。

 落合君が居る部屋を探し当てるか、それとも自分が隠れる空間を見つけ出すか……いずれにせよ、何かしらの収穫を探して家の端から端までを探検して回る。その方法が最善であるかのように、次第に思われてきたのである。

「…………」

 私は足音がなるべくしないように、突き当りの障子を左に曲がって廊下を進む。依然として言い争っている二種類の声音を聞きつつ、まだ自分の存在は発覚していないのだと確認しながら…………。

 視線を障子から、進行方向へと移す。

 廊下は折れ曲がることを知らない真直線をしていて、左側の壁にはさっきと同様の障子式ドアが間隔を空けて二つ並んでおり、その真向かいに位置する右側の壁には、こちらもさっきと同様の燭台式ロウソクが灯りの島を作っている。四つほど灯されているが、廊下の明度はさして明るくない。

 そして、その最も奥の突き当りに位置するのが、もはや上の方の段は暗くて分からない、階段と思しき木製の数段。

 ただの感想を語るのであれば、先の見えないその段差は豪奢さなど微塵も感じさせず、怪しさ一辺倒の配置物だったので、何等の収穫も無かった場合の最後に上ることにしよう……と後回しにしつつ、手前の障子式ドアのレバーを掴んだ。

 障子の部分は暗くなっている。

 ただ照明が点いていないだけで、中に何者かが潜んでいる可能性は考えられるが、形振り構ってはいられない。

 私はレバーを回し、手前に引いた。

 ……果たして、開かない。

 レバーは握ったまま今度は押してみるものの、それでも開かない。

 私は安堵と失望の溜め息を一挙に吐くと、再び廊下を歩き、次のドアに向かう。

 そして、レバーを回し、押して引く。

 だが、こちらも残念に終わった。

 レバーにはそれぞれ鍵穴が付いていたので、単に施錠しているということなのだろう……だからこそ何者かが中で監禁されている可能性は考えられるのだが、ここでは居なかったと見做す。何等かの反応が中からすれば別だったが、それは確認されなかったので、さっさと通り過ぎてしまった。

 そして直進すること、約五メートル程度。

 とうとう私は、例の静的な不気味さを放つ階段の前に直立してしまっていたのだった。

「…………」

 手前に立って見上げても、上の方の段がどうなっているのかは暗さのために分からない。

 辛うじて隣に階段の裏側が見えるので折り返し式の階段であることは分かるものの、そうなると今度は、踊り場に何か待ち伏せてはしないだろうか……というような気がしてくる。

 何か。

 というのは、豪奢さを感じ取れ無い階段を前に、怪しさのみを感じつつ、そこから連想されるのは当初に抱いていた比喩的な考察。

 すなわち、妖怪の住まう、世にも珍しい怪奇の宿なのではないのかと、そう思われてきたのである。

 無考えに思っている訳ではない。

 むしろ、そう考えてくるほどに色々な辻褄が合ってくるのだ。

 第一に、建築基準法と物理法則を同時に無視したような建造物が、妖怪の持つ妖力(?)によって為された芸当だったのではという考え。

 あるいは、空棺の構成員が妖怪の類だと考えると、建物の七階相当からの飛び降り・無事な着陸を可能にし、死刑囚を白昼堂々と脱獄させることまで実現可能のような気がしてくる。

 それと同時に、私は自分の身がどの立場に置かれているのか、再考せずには居られなかった。

 すなわち、私は恐るべき犯罪者集団によって物理的に拉致されたのではなく、怪奇の妖怪一味に心霊的に、神隠しか何かに遭わされているのでは…………と。

 その時だった。

 最初に起こったのは、ドアの開く音だったと思う。

 ガチャリ、という、何の変哲も無い日常的な音が鳴って、砂利を踏むような音が二三度。

 そしてドアの閉まる音を聞きながら、一瞬の内に様々な思考が脳内で行われる。

 妖怪変化、キサメの来襲。

 玄関から入って来るそれに対して、私は他に出入りする場所を知らない。

 逃げないといけない、隠れないといけないのに、逃げる場所が無い、最悪だ。隠れる場所も無い、見つかればどうなる。階段を上るべきか、それとも縮こまってロウソクの灯りが届かない影に身を潜ませるか、無茶だ。あるいは、それとも、もしくは…………。

 痛み出す頭にも構わず、自然と目は見開いて奥歯が震えながら立ち尽くしていた、次の瞬間。

「…………!」

 私は、その怪奇千万な出来事の数々に叫んでしまわないよう、反射的に口元を手で押さえていた。

 背後から照らされていたロウソクの灯りが、ほんの一瞬の内に全て消え去り、廊下は暗黒と化す。

 その出来事に驚愕している暇も無く、時をほぼ同時にして、私の横を何者かが超高速で通り過ぎる。

「それ」は床を踏み鳴らしながら跳躍したかと思うと、もはや最下段でさえ視認するのが難しくなっている階段の、私よりも高い位置の段に一息に着地した…………音だけが聞こえた。

「…………っ」

 声も出せずに、後ろに倒れながら尻餅をつく。

 呼吸の仕方も忘れるほどに驚かされ、途切れ途切れに息を吸って吐きながら「それ」を見上げようとするが、その姿は暗闇に全身を包まれており、視認することは叶わない。

 ただ、見えようが見えなかろうが、私が次にする行動は決まっていた。

 私は震える両足を(もつ)れさせながら無理矢理に立ち上がり、「それ」に背を向けて玄関の方に駆け出そうとする。

 ……妖怪に違いない。

 私はそう確信して、命からがら逃げ延びようとしたのである……なまじ銀という前例を知っているばかり、そのような霊的な存在に対して真正面から否定することも出来ず、すっかり怯え切っていたのだ。

 闇に溶け込む真黒の妖怪、それとも透明色の実体無き妖怪。

 いずれにせよ、私は一刻も早くこの家から飛び出して、快晴の下に身を投げ出してしまいたかった……晴天の下では、百鬼夜行がたちまちに出現しようとも恐怖心はいくらか紛れるだろうと期待して…………。

 ただ、その試みは全くの失敗に終わる。

 私が駆け出そうと一歩か二歩を駆け出そうとした途端、背後で床を踏み鳴らす音が一度して、次に鳴ったのは真後ろの距離。

 そして、背中の辺りに、指で押されたような感触がする。

 攻撃的な属性の接触ではなく、ボタンでも押すような程度の感触。

 だが、体勢も滅茶苦茶な状態で突かれたのだから、私は駆け出した勢いのままに床に倒れてしまった。

 ……逃げなければ。

 しかし、私が床に手を突いて立ち上がろうとすると、今度は後頭部を上から指のようなもので押さえられてしまい、ビクともしなくなる。

 予想もしていなかった展開だ。

 人間を相手取っていたと思いきや相手は妖怪変化で、最後は金縛りに遭って為す術も無くされてしまうとは……。

 そして、万策尽きた私が次に起こした行動。

「ごめんなさい」

 私は地面に手を突きながら、謝罪の言葉を次々に並び立てる。

 命乞いの通用する相手かは分からず、そもそも言語が通じるのかも定かでは無いものの、もはや私に出来ることといえばその程度の悪あがきだったのだ。

「許して下さい、すみませんでした、命だけは……命だけは助けてください」

 何を謝っているのかも分からないが、とにかく謝る。

 そうしていればいつか助かると、無根拠に妄信しながら…………、と。

 突然に、顔と床との距離が、グンッと引き離される。

 床に突いていた腕の肘は上から引っ張られるように伸び、勢いは腕から肩、肩から首へと連動して、顔が下から前を向いた。

 後頭部に加わっていた力がスッと消え、起き上がろうと藻掻いていた私の力が、途端に解放されたのである。

 私は目を丸くして、訳も分からないままに周囲を見回しながら起き上がろうとする。

 だが、その動作は自発的に中断された。

 いつの間にやらロウソクの灯りは四つとも元の通りに灯っており、その一番奥に佇む人影。

 彼は最奥の燭台を今しがた点け終えると、背を向けたまま緑透明のライターを鎮火した。

「これだけやれば流石にもう逃げねえよな。全く、崩場は舐められ過ぎだ。友好的に振舞い過ぎるから、こうも出し抜かれる」

 障子の奥から聞こえていた声ではない、掠れた男性の声。

 彼はこちらを振り向きながら、迷彩柄でハイネックのパーカーのポケットにライターを突っ込みつつ、ついでにもう片方の手もポケットに仕舞う。

 茶色に染めたパーマの隙間から覗く真黒の瞳、右目の方はロウソクの灯りで赤く反射している。

 如何にも人間的な、妖怪らしさを微塵も感じさせない風采。

 そのことによって、彼に対して抱いていた妖怪としての恐怖は減退する。

 だが、それによって同時に感じられてくる重圧。

 すなわち、生身の人間が到底出し得るとは思えないほどの凄まじい速度、しかも妖怪の類では無い。

 つまり、目の前に立った彼もまた、崩場さんのような超人なのだな……と悟り、言い知れぬ無力感に陥っていた時。

「これで分かったよな。俺とお前との距離は、いくら離れようとしたところで結局はゼロ距離と変わらない。お前では俺から逃げられない。何か行動を起こそうとしたとしても、その行動が完了するまでに俺はお前を制圧している。さっき床にへばり付かせた要領で、だ」

 私の心を徹底的にへし折ろうとする、容赦ない言葉の数々。

 ただ、出鱈目では無い。

 私が少しでも逃げようとすれば、たちまちの内にさっきの指が飛んで来て私を動けなくする……その自信が、そして能力が彼に備わっていることを、私は今しがた体験したばかりだった。

 ゆえに私は、閉口のままに打ちひしがれていたのだが…………彼は玄関前の障子まで引き返して振り返ると、更に付け加える。

「この家には裏口というものが無い。そもそもが地上十四メートルだかの高さにある家、裏口なんてものがあったとしてどう逃げ延びるんだって話だ。崩場ならまだしも、お前では逃げられない。お前が脱出するには、この玄関のドアから逃げ出すしか方法は無い」

「…………」

「そして、その前には俺が立ち憚っている」

 位置関係。

 私は玄関から最も遠い燭台の根元におり、彼は玄関の真正面に位置する障子式ドアの前。

 この家から逃げ出すためには、どうしても彼の横を通らねばならない…………。

 万策尽きた。

 余りにも分が悪かったのだ。出し抜こうと考えるのも愚かしいほどの、最悪の誘拐犯グループ……そうガックリしていたのだが。

 次に彼の言った台詞は、今まで私が確信して止まなかった一つの前提を全く覆してしまうような、そういった具合の一言だった。

「お前は客人の体だ、無駄に抵抗して貰わなければ俺は助かる」

「……は?」

 両目と口を一様にポカンと開き、唖然とする。

「客人って……私が、ですか?」

 彼は「その反応も当然だろうぜ」と言いつつ、憐れむように肩を竦める。

 客人。

 誘拐犯がその対象を呼ぶには、全く不適切の語彙……どの口が私をそう呼ぶのだろうと、僅かな余力を振り絞って盛大に訝しんだのだが。

 しかし、思い返せばヒントは有ったのかも知れない。

 崩場さんの、ともすれば慇懃無礼にすら捉えられかねない振る舞い、その礼儀正しさ…………あれが生来の性質ではなかったのであれば、彼女の諸々の振る舞いは客人をもてなすためだったのでは、という再考。

 ……だが、やはり分からない。

 客人として招待するのなら、なぜ拉致監禁といったような粗暴極まる手段を選んだのか……それに、空棺が客人として私を招待したのだとして、その意図とは、目的とは…………。

 ただでさえ意味不明の状況に、折り重なるような意味不明の補足が付けられたことで、処理能力超過的な頭痛がし始めていた時。

「分からねえなら、取り敢えず入ってみろよ」

 彼は障子式ドアのドアノブに手を掛けつつ、続ける。

「どうせお前は、無理矢理に連れ込まれるか自発的に入るかの二者択一なんだから」

「…………」

 腰をさすりつつゆっくり立ち上がって、廊下を一歩ずつ前進する。

 もしくは、階段から一歩ずつ後退する。

 そして、いよいよ私は彼の目の前にまで到達すると、やおら顔を上げて相対する。

 ……テレパシーに、距離はあまり関係が無い。

 対象が何者であるかを認識出来る距離であれば、すなわち私の視力が許す限りの範囲で、相手にテレパシー的な作用をすることは可能である。

 ただ、距離が関係無いのは彼も同じだ。

 疾風迅雷の彼と、遠隔操作の私。

 距離を詰めるという行為が意味を持たない両者、その接近だったのだが、しかし緊張感は次第々々に高まっていた。

 一方的にではなく、明確に相手の存在を認識し合った上での接近。

 私は彼に対してテレパシーを作用させる隙を窺い、向こうも私が何かしらの画策をしていることを見逃しはしていないだろうから、微動だにしないまま私の出方を窺っていたのだろう。

 見えない刀同士の鍔迫り合い、にじり寄り。

 しかし、いよいよ私は隙のようなものを一切見出すことが出来ずに、彼と目と鼻の距離にまで近接してしまったのである。

 ……玉砕覚悟で仕掛けてみる、とは踏み切れなかった。

 対象の精神を操る、精神的な作用……それを精神的に緊張した状態で実行すれば失敗する確率は当然の如く上がり、そして失敗した場合の待遇の落差まで鑑みると、とても勢いのままにとはいかなかったので…………、と。

 そのように、私は奥歯を噛みながら、せめてもの反抗と言わんばかりに睨み付けていた時。

「まあ、せいぜい上手く立ち回れよ」

 彼は流すような目でそう言いながら、ドアノブを掴んだのとは逆の手でドアを三回ノックし、中の人間とは特に言葉も交わさないまま開く。

「連れて来ました」

 そう言いながら室内に入ると、振り返りつつ視線で私の入室を促して来る。

「おォ、いらっしゃったか。まま、どうぞお掛け下され。外は寒かったでしょうからな」

 そして、さっきも聞いた陽気な高い声。

 意外なことに、声の主は背丈や顔の造形からして中学生のようだった……前髪を上品に流した黒髪にはキューティクルが輝いており、その奥の瞳は青白く、黒の詰襟と長ズボンという服装はまさに学生服らしい。その彼が赤茶色をした革張りのソファから立ち上がりつつ、低い机を挟んだこちら側のソファを片手で促す。

 しかし、私は二人からの催促を受けつつも、なかなか部屋を跨げずにいた。

 というのは、今から踏み出さんとしているその部屋の内装が、目を瞠るほどの豪奢さを発揮していたからだった。

 まず、赤赤としていた障子の色からは想像も付かないような、室内の黄色の明かり。

 その光源は、室内の要所々々に設置された白熱電球のライトスタンドやシャンデリアであり、暖かみのある黄色が部分的に洒落た陰影を作りながら室内をボンヤリと照らしている。

 そして、各種調度品。

 見回す限り高級感溢れるものばかりで、本漆塗りの食器棚からその奥の小粋なティーカップ、それと張り合う規格の巨大ショーケースと格納された各種酒瓶、レンガ造りの暖炉はパキバキと枝の折れるような音を鳴らしつつ赤色に燃えており、炉畳を中央に擁した四畳半の畳の間、そこに隣接された床の間に置かれたフラスコ型のガラスの花入れ、入れられた銀杏の枝等々……それらが部屋中に、決して窮屈では無い具合に配置されて和洋折衷式に調和している。

 廊下とは対照的に、豪奢さ一辺倒の空間構成。

 部屋そのものが宝石の如く尊く、そこへ入っていくのが何か許され難い冒涜のように感じられたので……私はその眩さにクラクラしつつ、遠慮がちに立ち止まっていたのだが。

「入るならさっさと入れ、部屋が冷える」

 今まで黙り込みを決めていた、不愛嬌の唸るような重低音。

 カウンターを肘掛けにカウンターチェアに座り、手元の銀色のスライムをこねくり回しながらこちらには目もくれない。

 最悪の死刑囚、ハジャが不愉快そうに言う。

「…………」

 私はこの時、相手が滅多に楯突いていいような存在ではないことを重々承知しつつも、今までのような恐怖感は抱いていなかった。

 私が客人という身であり、軽々に危害を加えられる立場ではないのだと知ったからだろうか。

 いざその立場になってみると、彼に対して湧いてくる感情とは言うまでも無い。

 私は挨拶もしないままズンズンと室内に入り、どっかりとソファに腰掛ける。

 背後でドアの閉まる音を聞きながら。

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