1
「おい。待て」
「…」
「待てって。おい」
きつく巻かれたコルセットさえなければもっと早く逃げられるのに。
はあはあと息を切らしながら、オリビアは大股で歩いていた。べつに私は悪い事してないのに。
追いかけてきた彼に手首をつかまれ、私の逃亡は終わった。暗闇の中に映し出された薔薇が本当にきれいだ。涙でぼやけてなければもっときれいだったのに。私の人生の逃亡劇は終わってしまった。ほんの20メートルで。
こんな場面を誰かにみられたら、純潔を汚されたとしてたいへんな事になるだろう。けれど薄暗い庭園を、必死に追いかけてくるのは私の婚約者になる予定のウィリアム。たとえ二人きりをみつかっても別になんのおとがめもないだろう。婚約者の浮気現場に出くわして傷つけられたは私の気持ちだけだ。私が我慢すればいいだけのこと。ささやかな理想は消えてしまった。
もともとこの婚姻は公爵家である彼の父の放蕩の始まりでおこったものだ。放蕩により支出がかさんだ上に領地の小作人の管理が滞り作物の収量が伸び悩んだ。そこに何十年ぶりかの飢饉が重なってしまい、その対応に追われた公爵家が資金繰りに行き詰まった。放蕩者の公爵の解決策は一つ。領地の管理ではなく、裕福な子爵家からの嫁取り。その持参金目当ての結婚を息子にさせ当座をしのぐというものだった。
子爵家の長である私の父は、お金を増やすことにかけては天賦の才能を持つ。領地で作らせた作物を加工し付加価値をつけて販売することで成功した彼は次々に目新しいことに投資し、その分野が大きくなるたび、資財を増やし、また投資するというよい循環を作った。
よって、社交界デビュー以来、私の求婚者は決して少なくなく、むしろ他の子爵家に比べれば、いい方だと思う。けれど、それはあくまでも父の選択肢が広がるというだけのこと。私はというと、結婚後ゆっくりと愛を育んできた両親のように、ただ誠実な結婚生活を送れればそれでよいと、願ってきた。
けれどもそのささやかな願いはどうやら叶わぬものらしい。
それはそうだろう。婚約者は、彼、なのだから。
今宵開かれた舞踏会で信頼の一歩を踏み出せるのかと思えば、休憩に訪れたテラスで私が目にしたのは、人目を忍び熱く抱擁を交わす一組のカップル。その片方は私の婚約者だったのだ。
「離してください。」
掴まれた手首に熱を感じながら、うつむいたままの私は目に涙をため、唇をかみしめた。
そっと手を離した彼は、ふっと息を吐いて、背筋を伸ばし服装の乱れを正す。
「すまなかった。見苦しいものを見せてしまった。」
言い訳はせず、ただそう謝った。
公爵家の長男である彼は、社交界においても有名で重要人物だ。交遊関係も広いし、社交性もある。愛人の一人や二人いても当たり前だろう。それが許される社会なのだから。
けれど、その社会にいて、婚約者にその事実を突きつけられて、動揺しない心を持つほど私は人生経験があるわけではない。
誰かが愛人を持ち、その爵位を保つためだけの結婚生活を維持していると聞いてもいままでは所詮他人事だった。まさか自分がその立場に置かれるなどと思いながら暮らしていない。
ささやかでも、幸せな人生を歩めるだけでよかったのに。
招かれる舞踏会やお茶会においてその花形となる人物を婚約者として受け入れるような人生になろうとは思っていなかった。私の容姿はとくに端麗ではない。特に美しいとちやほやもされないが、べつに気にしない。平凡で困った事などない。
あくまでも静かな人生でよかったし、好きな本に囲まれて過ごせたらそれだけで充分だと思っていた。
こんな容姿端麗で浮気者の人のところに私を嫁がせて、こんな感情を感じなければいけないなんて。
お父様のばか。ばかばかばかばかばか。
手の震えを押さえるためか、いつの間にか握りこぶしを作っていた私の右手を彼はそっと掴み、やさしい手つきで指をほぐしたと思えば、私の手の甲に優しくくちづけ、わたしの注意を引こうとする。
その仕草から彼の顔へと目線を合わせた私は、その真っ青なブルーの目に釘付けになった。柔らかそうな茶色のゆるくウェーブのかかった髪、優しいまなざし、熱のこもった赤い唇。
ああ、確かに、彼に愛人がいるのも納得できる。婚姻が決まるまでにもっとしっかり相手を確認しておくべきだった。もっと近くでじっくり見ておけばよかった。そうすれば気がついたはず。
彼はとても魅力的で、それでいて包み込むような優しさをまとっている。からかうようなそれでいて少し傷つきやすそうな、他人を伺うようなまなざしの持ち主なのだ。
社交界において重要な人物と縁ができると思ってなかった私は、社交界デビューした後もひたすら壁の花であり続けた。別に舞踏会やお茶会が苦手なわけでも、嫌いなわけでもない。着飾ることや美味なるものを口にする事はとても楽しいし、そういった会で交わされる会話を楽しむ事が苦痛でもなかった。
ただ、私のまわりに構成される人の輪は、あくまでも私がおだやかな気持ちでこなすことの出来る交際範囲のものであったから、容姿端麗組の華やかな社交の世界はあくまでも別次元なのだ。高望みもしなければ、逆恨みや感情の駆け引きもそんなに多くない生活。愛人だの正妻だのという憎愛劇はあくまでも鑑賞するものであり体験するものであるという認識はない。
けれど。公爵家の台所事情により、突然社交界の種類が変わってしまったのだ。夜ごと繰り返される男女の駆け引きの舞台に引きずりだされても追いつかない。婚約を決めてきた子爵である父が、私に婚約者になる予定の人物が誰であるか告げたときの、母のうれしさの悲鳴に、わたしの大きなため息はかき消されてしまったことに誰が気づいただろうか。
お父様のばか。ばかばかばかばかばか。