LAST KISS
(ジャック第10部)を読んだ文夫はようやく奈緒さんが伝えようとしていた
ことを理解した。モニターを見つめる彼の頬を大粒の滴が流れ落ちた。
後書きには、内容は事実です。とあったが、にわかには受け入れられない。
千尋から預かったUSBのロックを解除した時文夫は舞い上がる様な気分だっ
た。それが綾瀬が自分に送った物だ信じて疑わなかった。USBのキーワードは
自分と綾瀬しか知らないものだと思っていた。(ジャック第5部)はまるで
綾瀬と文通でもしてるかのような気分で描いた。物語を進める事が自分と
綾瀬の物語なのだ、とさえ感じていた。
しかしUSBの送り主は奈緒さんだった。全ての事を知っていて、物語に加わ
った奈緒さんの心情を考えると心が痛む。しかし今はいっぱいいっぱいだった。
「綾瀬さん今・行くよ」
流れる滴を拭いもせず文夫は和室を出た。
「お父さん・・どーしたん?」
驚いた直人が聞いてきたが答えることすらできなかった。玄関を出てエレベー
ターで1階まで降りマンションに隣接する駐車場に向かった。文夫のオフブラ
ックの〈洗車をしないのでナチュラルブラックとも言える)小型のワンボック
スカーは残暑のまだ強い陽射しに照付けられていた。ドアに手を掛けロック
解除ボタンを押したが反応がない。何度も連続で押したがやはり反応がない。
その時やっと文夫は車の鍵を持ってきていない事に気付いた。自宅に鍵を取り
に戻った。流れる滴を拭おうともせず、終始無言で車の鍵を持って出て行った
文夫を直人は呆然と見送った。
運転席に乗り込むと車内は猛烈な暑さだった。何時もならすぐエンジンをか
けウインドーを開けるのだが、今の彼にはそれすらできなかった。助手席に車
の鍵を放り出しダッシュボードを開いた。すぐ中に大きな封筒が目に付いた。
「文夫君へ、必ず読んでください」
奈緒美
と大きな字で書かれていた。いやおうにでも目に付く。開けると奈緒さんの字
で便箋に手紙が認められていた。時間が経つと自分でも読めなくなる文夫の字
と違い奈緒さんの字は美しい
「 この手紙を読んでいる文夫君はもう(ジャック第10部)を読み終えて
いるのだと思います。ここに隠してあったネックレスは封筒の中に入れて
あります。
行くんですね。気を付けて行って下さい。でもお願いがあります。
たぶん(ジャック第10部)を読み終えたばかりのあなたは冷静ではない
はずです。
車の運転は無理です。お墓までは歩いて行って下さい。週2回10km
のジョギングをこなしてる文夫君なら問題ない距離だと思います
がんばってね!
もう一つお願いです、今回の件が落ち着いたら、またピアノの練習を始
めて下さい。レッスンに通ってもかまいません。
そして昔よく弾いていた(スターダスト)をまた弾いて下さい。綾瀬さ
ん、あなたの弾く(スターダスト)がお気に入りだったみたいよ。彼女
曲名は知らなかったみたいだけど、よく病室でハミングしてたわ、急いで
練習して晩秋の星空に綾瀬さんの為に弾いてあげて。素敵でしょ。
「それでは、健闘を祈る!」
そう言って綾瀬は文夫にKISSをした。長く甘いくちづけだった。
な~んてね!
奈緒美
」
封筒を傾けると中から小さなピンクゴールドとシルバーのハート型のリン
グを組み合わせたトップを付けたあのネックレスが出てきた。
ここにある事を奈緒さんは何時から知っていたのだろう。
猛烈な暑さの車内で窓も開けずに手紙を読む文夫の額はらは汗が目からは
涙が止めどなく流れ落ちていた。冷静ではないと書いた奈緒さんの図星だった。
左手にネックレスを握り締め車を降りた文夫はふらふらと墓地に向かって歩
き始めた。
何故(Again)を描き始めたのだろう。霞への気持が白けてきた頃彼女から
最後のメールを受け取った。その直後、綾瀬が枕元に立った。
確かにヘソクリの発覚で金に困っていた、小説を描けば金になるかもという
思いはあった。
しかし描き始めるとそんな事はどうでもよくなった。(Again)執筆中はま
るで綾瀬と過ごしている様な気分だった。綾瀬と過ごした時間が溢れるように
文夫の中で蘇り彼の筆を進めた
歩き辛さにふと足元を見ると文夫はセッタ(関西ではサンダルの事)だった。
その事に気付いた時には歩き始めて30分も経っていた。今更引き返せない。
サンダルを引きずって歩く文夫に残暑の強い陽射しが容赦なく照付けていた
が蝉の声はずいぶん減ったようだった。