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ダンジョン遺失物課――その心臓を返せば、持ち主は五年前に死んだことになる  作者: 他力本願寺


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33/33

第33話 課長の選択

黒いカプセルは、触れていない相崎の奥歯を痛ませた。

第二種保管容器の内側で、煙のようなものが収縮している。

ラベルの品目は《疼痛記憶・悪性腫瘍由来》。

所有者欄には、蔵前とある。

「俺のだ」

課長は面談室の椅子に腰を下ろし、カプセルを見た。

病衣の上に管理局の上着を引っかけている。

「私物の持ち込みは、所定の箱へお願いします」

ねむが言った。

「癌は私物に入るか」

「省内規程では、貸与品ではありません」

「なら、退職時の返却対象じゃないな」

机の下で、携帯型保管庫が低周波音を立てていた。

病院への移送前、課長が自分で出した返却申請を審査するための臨時面談だった。


五年前、課長は痛みそのものではなく、痛みを経験した記憶を預けた。

病巣は残った。

神経も痛みを送っていた。

ただ、痛んだ直後から、その経験が本人の中に残らない。

診察では痛みを説明できず、薬も治療も後回しになった。

制度を使って職務を続けた結果、発見時には手術の対象外だった。

「返却すれば、過去五年分が一度に統合されます」

同席した医師の音声が端末から流れた。

「鎮痛処置はできます。しかし、痛みがなかった五年には戻れません」

「戻るつもりはない」

課長が答えた。

「残りを、実感なく使い切るのをやめるだけだ」

「告発後の印象をよくするためではありませんね」

ねむが同意確認票の質問を読み上げる。

「末期患者が痛みに耐える絵は、記者が好きそうです」

「記者は呼んでない」

「処罰を軽くする事情として主張しますか」

「しない」

「返却後、申請を後悔しても再保管は原則できません」

「分かってる」

「痛みを取り戻すことを、責任を取ることだと説明しませんね」

課長はようやく、ねむの方を見た。

「痛い目を見れば帳消しになるなら、監査より拷問の方が安い」

ねむは三つの回答へ確認印を付けた。

返却の目的から、贖罪という言葉が外れる。

ねむが返却同意書を一枚ずつ確認する。

本人意思。

医師立会い。

二十四時間の撤回猶予。

外部監査への申告。

最後の欄で、指が止まった。

「この疼痛記憶、処分済み倉庫の製品番号が付いています」

「ああ」

課長は否定しなかった。

記憶の複製は、鎮痛剤の試験用データとして委託先へ渡されていた。

課長は自分の痛みを消し、その痛みで作られた商品を管理局が買った。

ねむは製品番号と委託契約を、監査対象へ追加した。


返却を許可すれば、課長は被害者になる。

同時に、自分で開けた抜け穴の利益を受けた当事者でもあり続ける。

返却は責任を洗わない。

痛みだけを戻す。

相崎は同意書の署名時刻を確認した。

「撤回猶予は、あと十二分あります」

「役所が人を待たせるのは得意だろ」

「待たせた結果については、さらに得意です」

課長はカプセルへ手を伸ばした。

相崎が先に返却装置の蓋を閉じる。

「決裁が先です」

「最後まで融通の利かない部下だ」

「課長が採用した」


相崎は返却可の書式を引き寄せた。

通常業務で何度も押した印だ。

それでも、自分と同じ五年前を知る者の案件に、迷いを隠さず返却を押すのは初めてだった。

親指が印面に触れる。

一度で離れた。

「返却可」

印面が紙に湿る音がした。


カプセルの封が解かれた。

黒い煙は課長の胸元へ向かわず、目と耳と指先へ薄く分かれた。

課長の背が、椅子の上で折れた。

声は出なかった。

痛みが五年分の時刻を伴って戻り、呼吸の間隔を一つずつ奪っていく。

医師が鎮痛薬を入れる。

ねむは手順書を読み上げ続けた。

返却装置の記録には、五年前の疼痛時刻が一秒単位で追加されていく。

夜間の会議。

移送通知へ署名した朝。

相崎の複製印が初めて承認された午後。

痛みの記憶は、課長が何をしていたかも保存していた。

返却は証拠を消さず、本人の中へもう一部増やした。

一方、委託先の試験サーバには、同じ疼痛波形が残ったままだった。

本人へ返せば、無断複製まで戻るわけではない。

監査官が回線越しに、当該データの利用停止と原本照合を命じる。

委託先は、削除すれば薬事試験の再現性を失うと異議を出した。

課長の痛みを返す手続きと、課長の痛みで作られた利益を止める手続きは、別々だった。

課長は自分の返却同意書には署名できる。

試験データの廃棄には、もう決裁できない。

課長は途中で片手を上げ、読み上げを止めさせた。

「これで、正しかったことにはならん」

「何がです」

「預けたことも。返したことも」

額を机につけたまま、課長は笑う形に口を動かした。

「ただ、俺の時間に戻った」


移送用の担架が来るまでの間、課長は断続的に五年前のことを話した。

000001番を受け付けたのは、事故発生の十一時間九分前。

申請は、深層通信回線から送られていた。

申請者は、これから事故に遭うことを知らない時刻に、自分を消すよう求めていた。

「事故のあとに取り乱して出した申請じゃない」

課長の指が、カプセルの空容器を叩く。

「あの子は、潜る前から決めていた」

担架の車輪が面談室へ入ってきた。

課長は乗せられる直前、相崎の袖をつかんだ。

「受付は俺だ。決裁をお前に回したのも俺だ」

五年前の最初の担当者が、指を離す。

「次は、真鍋に訊け。あいつは申請時刻より前の記録を持ってる」

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