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ダンジョン遺失物課――その心臓を返せば、持ち主は五年前に死んだことになる  作者: 他力本願寺


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第32話 ダンジョンは何を望むか

八重樫の論文草稿は、読む人数によって結論が変わった。

一人で開くと「判定主体は個人である」。

二人で覗くと「判定主体は関係である」。

三人目が監査官だったとき、末尾は「判定主体は制度である」と書き換わった。

「学術論文に多数決機能は付けていません」

八重樫は透明な文書ケースを持ち上げ、裏側まで確認した。

「査読者に媚びる機能なら、研究費の申請前にぜひ欲しかったですが」

地下三階の奥で、冷凍保管庫の低周波音が一定の間隔を刻んでいる。

机には八重樫、相崎、ねむの三人。

草稿の結論は「関係」から動かなかった。

「第一種で返却申請、でいいんですか」

ねむが尋ねた。

「紙は第一種。書かれた仮説は、今のところ誰の所有物でもありません」

八重樫が答える。

「誰のものでもないなら、国家が持っていっても窃盗にならない。学問と遺失物には、同じ弱点があります」


草稿には、過去十年の再排出時刻が並んでいた。

子供靴が排出されたのは、行方不明届の再提出から十一分後。

葛西の心臓が二度目に現れたのは、本人ではなく元同僚が事故記録の開示を請求した夜。

000001番のラベルが相崎の机に出たのは、ねむの職員証が地下三階の入退室機に初めて触れた時刻から、四分後。

「欲しがった本人が、品物の持ち主とは限らない」

ねむが時刻を指で結んだ。

「第三則ですね」

「半分は」

八重樫は別紙を重ねた。

返却申請が一件もないのに排出された事案だけを集めた表だ。

SNSで事故が話題になった直後に出た制服。

国会で謝罪が要求された夜に出た議事録。

遺族会が追悼碑を建てた日に出た、名前のない骨。

「大勢が同時に『返せ』と思えば、誰も申請しなくても判定主体が成立する。私はそれを、集合的な忘却の合意と呼びました」

「返せと思うのに、忘却なんですか」

「返したことにして、忘れたいからです」

八重樫の指が、草稿の一文を隠した。

隠された箇所だけ、結論は変わらない。

国家は、個人の喪失を分類した瞬間、判定主体の一部になる。


「国家が欲しがる、というのは比喩ですか」

ねむが職員証を首から外した。

机に置いた瞬間、草稿の結論が「関係」から「個人」へ変わる。

八重樫も顧問証を外す。

変化はない。

相崎が決裁印を草稿から遠ざけると、結論は「未確定」になった。

「人の人数ではない」

相崎が言った。

「役割の数だ」

ねむが職員証を戻す。

結論は再び「制度」になる。

「国家が一つの巨大な心を持つわけじゃない。申請者、受付者、決裁者が同じ方向を向いたとき、ダンジョンからは一人分の判定に見える」

八重樫はその場で草稿の一節を削除した。

《ダンジョンの意思》という見出し。

代わりに、《人間がダンジョンへ作らせる意思》と書く。

「論文の題名から、主語を一つ減らす必要がありますね」

「売れ行きも減りそうです」

「研究費には影響しません」

「それは元から少ない」


監査班から、論文の提出延期要請が出ていた。

公開すれば、処分品横流しの被害者が一斉に返却を望む。

公開しなければ、管理局だけが仮説を利用できる。

「返却条件は二つです」

相崎は申請書を八重樫へ向けた。

「原資料を監査へ複製する。公開時期は、被害者への個別通知が終わるまで保留する」

「私の論文なのに、結論を国に預ける?」

「預けるのは時期だけです。結論まで預かるほど、うちは人手がない」

八重樫は申請書を読み、著者欄の横に署名した。

先行発表の権利を失うことになる。

その代わり、原資料は管理局の中だけに閉じなくなる。

「もう一つ」

八重樫は変化を続ける草稿を撫でた。

「これを私へ返せば、所有者が一人に確定する。結論の書き換わりは止まるでしょう」

「異常を残すなら保留できます」

「保留すれば、論文は国家のものになる」

八重樫は、書き換わる原稿を手放さなかった。

「証拠としての面白さより、反証可能な形で公表する方を選びます。学者は怪異を飼う職業ではない」

返却によって、草稿は一つの結論へ固定される。

失われる異常も、返却の代金だった。

「返却で」

監査官が決裁印の管理袋を開き、開封番号と使用案件を記録した。

以後、相崎が印を使うたび、この立会記録が残る。

相崎は決裁印を取り、印面を一度撫でた。

腕を下ろす前に、八重樫が言った。

「000001番の排出を望んだのは、久住ねむさんです」

ねむの指が右耳へ上がる。

「ただし、申請したのは別の人だ」

八重樫は草稿をケースへ戻した。

「000001番の申請者は、あなたの婚約者でした。ですが、決裁したのは、あなたです」

印面が紙に湿る音がした。

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