第30話 処分済み倉庫、開封
「処分済み」の倉庫から、人の名前を呼ぶ声がした。
鉄扉はまだ閉じている。
声は厚さ十五センチの向こうから、換気口を通って地下通路へ漏れていた。
男、女、子どもの声が、一語か二語で途切れ、同じ調子では繰り返さない。
相崎は呼ばれた名前を記録しなかった。
それ自体が個人情報だった。
午前四時四十分。
第三地下区画の十七号室前には、相崎、ねむ、課長、真鍋、外部監査官二人が揃っていた。
警察から共有されたカウントダウンは、十一分前にゼロになっている。
移設が始まった形跡は、表の通路にはない。
「存在しない部屋にしては、よく喋る」
課長が鉄扉へ手を当てた。
指先が一度滑る。
ねむが支えようとしたが、課長は先に体勢を戻した。
「開ける前に、手順を確認します」
外部監査官が読み上げた。
映像記録を三系統。
入室者の装備番号を固定。
発見物へ単独で触れない。
庁内ネットワークへ接続しない。
資料の撮影、番号付与、封緘は二人以上で行う。
「遺失物課より規則が多いですね」
ねむが言った。
「こちらは、規則を守らなかった人を調べる部署です」
「業務量の自給自足だな」
相崎は携帯記録機の時刻を合わせた。
鉄扉には電子錠が二つある。
創設責任者と、決裁担当。
兄の偽造証が突破できなかった組合せだ。
課長が古い職員証を差し込む。
相崎は現在の証を読み取らせた。
二人の職員番号が同時に表示された。
だが解錠灯は赤いままだった。
《搬出処理中》。
「誰かが中にいる?」
ねむが鉄扉の温度を測る。
人の体温は検出されない。
代わりに、床下の搬送レールが動いていた。
倉庫内部から別区画へ、棚ごと送る設備だった。
「非常停止は」
「廃止時に撤去したことになってる」
課長は腰の鍵束から、黄銅の小さな鍵を出した。
「なくした鍵ですか」
「台帳ではな」
「現物は」
「告発するまで、なくせなかった」
課長は扉脇の塗装をナイフで剥いだ。
非常停止口が現れる。
黄銅鍵を入れて回すと、床下の振動が止まった。
表示が《搬出中断》へ変わる。
電子錠の赤が緑になった。
「開ける」
課長が言った。
「開けた時点で、あんたも被疑対象だ」
真鍋が答えた。
「閉めてても同じだ」
四人で扉を引いた。
冷気ではなく、ぬるい空気が流れ出した。
知らない名前を呼ぶ声が口の内側から響き、相崎の舌が返事の形を作りかけた。声にはしなかった。
倉庫の奥まで、金属棚が並んでいる。
第二種は乳白色の容器、第三種は黒い遮光瓶、第四種は二本以上の端子を持つ透明ケースに収められ、棚札はすべて《処分済み》だった。
数えられる範囲だけで、千を超えていた。
声は人格片の瓶から出ていた。
一定温度を越え、保存状態が崩れ始めている。
「搬出じゃない」
ねむが制御盤を見た。
「温調を切って、劣化させる命令です」
画面には午前四時二十九分の遠隔指示。
発信元は本庁設備管理の共通アカウントだった。
「証拠を物理的に読めなくする」
外部監査官が回線遮断を命じた。
ねむが制御盤の通信ケーブルを抜く。
温調は戻らない。
遠隔指示で冷却ポンプそのものが停止していた。
「携帯冷却器を入れます」
「先に現況撮影」
「待てば壊れます」
ねむは監査官へ言い切った。
「壊れる過程を撮影して証拠にするか、止めて残すか。私は残す方を申請します」
相崎が時刻を記録し、緊急保存措置に署名した。
真鍋が通路の携帯冷却器を二台運び込む。
低い稼働音が立ち上がり、棚の声が少しずつ減った。
地下三階の冷凍保管庫とは異なる、不規則な低周波音だった。
入口から三列目で、透明ケースの留め具が一つ外れた。
第四種。
二本の端子の間に、成人二人分の生体署名が表示されている。
品目欄は《雇用関係》。
処分日は二年前。
ねむが冷却器の送風口を向ける。
ケースまで三メートル。
その途中に、温度警告の出た瓶が十一本あった。
「近い棚からです」
外部監査官が全体保全を指示した。
ねむは従わなかった。
壊れかけた一件へ冷気を集中させる。
十一本の警告値がさらに上がった。
透明ケースの表示は、二人分から一人分へ変わった。
残った署名が、空いた端子を探すように明滅する。
相崎と真鍋でケースを送風口の前へ移した。
重量は保全台帳と一致した。
封緘も切れていない。
それでも、失われた側の署名は戻らなかった。
監査官が処分台帳を開く。
所有者欄には二人分の氏名があった。
一人目は読める。
二人目は、相崎が見ている間に空白へ変わった。
外部保存した画面でも同じだった。
残ったのは棚番号、重量、消失時刻。
誰と誰の雇用関係だったのかを示す物証は、冷却が届く前に一人分失われた。
「全体を撮るより先に、現物を動かしました」
ねむは自分の手順違反を記録した。
「処分は監査判断で」
監査官は答えた。
保存を優先した選択も、救えなかった一件も、同じ映像へ残った。
携帯冷却器を棚全体へ戻す。
十一本の警告値は、赤の手前で止まった。
最初の棚を撮影する。
《第二種・痛覚記憶》。
《処分完了》。
《研究転用・可》。
本人同意欄は空白。
次の棚には《第三種・服従反応》《第三種・疑念抑制》《第四種・所属感》。
用途欄は国家機関向け訓練、治療研究、委託先評価。
どれも最初は公的目的に見える語で書かれている。
その下に、民間商品番号が追加されていた。
「どこから始まった」
相崎が課長へ訊いた。
「探索者の恐怖記憶を、訓練へ使うところからだ」
課長は棚番号を追った。
「本人へ返せば再発する。処分すれば研究できない。なら、匿名化して使えば両方を救える、と決めた」
「匿名化できていない」
「最初は番号だけだった」
「番号は名前を消しただけです」
「そうだ。次に委託先が、価値を測るには背景が要ると言った。年齢、職業、何を恐れたか。情報を足すたび、匿名は元の人間に戻った」
「止めなかった」
ねむが言った。
「俺の痛みも、同じ棚にあった」
課長は自分の職員番号が付いた空き区画を示した。
「制度を止めれば、俺が不正利用したことも出る。先にそれを守った」
告発者という語を、課長は自分に使わなかった。
棚の端に、紙資料用の耐火キャビネットがある。
外部監査官が封印を撮影し、二人で開けた。
中には白紙の決裁書が束で入っていた。
地下書庫で見つけたものと同じ透かし。
同じ複製印の欠け。
違うのは、白紙だった欄に、後から品目と所有者が印字されていることだった。
品目が印字されていた書類は、三十一枚。
一枚目は痛覚記憶。
二枚目は口調。
三枚目は、親子関係。
どの書類にも《相崎》の印がある。
決裁日は、相崎が年次休暇を取った日や、別件の出張日を含んでいた。
「地下書庫の束が予備用紙」
ねむが言った。
「ここにあるのが使用済み。空欄のまま先に印影を複製し、移管する品目が決まってから印字した」
「順序の証明は」
相崎が訊く。
「インクの層を調べます。現時点では仮説」
外部監査官が携帯顕微鏡を当てた。
朱色の顔料が下。
黒い品目印字が上。
決裁が先で、審査内容が後だった。
「仮説から、物証へ変更します」
ねむが監査記録を修正した。
キャビネットの内扉には、搬送コード表が貼られていた。
《処二》は再利用可能な処分品。
《B3―17》は第三地下区画十七号室。
《M04》は第四委託搬送線。
相崎は処分箱で見つかった焼け焦げたメモを透明袋のまま並べた。
三つの記号。
並び順。
区切り位置。
すべて一致した。
メモは、処分箱から十七号室へ送るための移送控えだった。
「焼却済みの腕時計も、ここを通った可能性があります」
「棚番号が要る」
「探します」
ねむは断定を一段戻し、コード表だけを撮影した。
次に、ハルの提出ログをオフライン端末で開く。
商品番号の上六桁を、棚札へ照合する。
十九件が一致した。
うち七件の棚は空。
ハルが配信した七件だった。
残る十二件は封緘されたまま存在する。
「受け取ったのに使わなかった品です」
ねむが重量記録を比べた。
ハルから回収した十二件と、棚の十二件は同一ではない。
同じ商品番号が二組ある。
「複製?」
「中身ではなく、番号を使い回しています」
相崎が容器の製造番号を確認する。
ハルへ送られた方は民間製。
棚に残る方は管理局規格。
中身を民間容器へ移し、元の容器を空にして棚へ戻した可能性がある。
外から見れば、在庫は消えていない。
「反証できます」
ねむが管理局容器の重量を量った。
空の規格重量と一致した。
封緘されているのは、空容器だった。
ハルの納品画像では、民間容器の重量が内容物込みで記録されている。
配信者の撮影癖が、倉庫側の在庫偽装を証明した。
「丁寧に悪いことをすると、証拠が残る」
相崎が言う。
ハルが監査室で返した言葉を、今度は誰も聞いていなかった。
ねむは封緘済みの棚を端から数えた。
「これを全部、外へ移すには何時間ですか」
「証拠番号を振りながらなら、半日」
真鍋が答えた。
「半日あれば、上は令状を取って倉庫ごと閉じる」
「閉じるのは必要です」
「中身ごと埋める意味で使う連中もいる」
外部監査官が本庁回線を使わず、携帯衛星端末から証拠保全命令を送った。
送信先は局外の監察部、裁判所、警察の三系統。
庁内だけで撤回できない時刻証明が付く。
五分後、仮保全命令が返った。
十七号室は、存在する施設として初めて公文書へ登録された。
存在しないから封鎖できなかった倉庫に、黄色い封鎖テープが張られる。
課長はテープの内側に残った。
「俺の聴取はここでやれ」
「医療が先です」
ねむが言った。
課長のシャツの脇腹に、濃い染みが広がっている。
「痛みは預けたはずだ」
「身体まで預けていません」
真鍋が課長の腕を取り、通路の椅子へ座らせた。
外部監査官が救護要請を送る。
課長は拒まなかった。
代わりに、上着の内ポケットから硬い四角を取り出した。
青い三・五インチフロッピーディスク。
白いラベルに、手書きで《000001/原》。
「ネットへ置けば消される。紙へ出せば差し替えられる。だから、これだけ古い」
課長は相崎ではなく、外部監査官へ先に見せた。
単独で渡せば、また相崎だけの責任になる。
監査官が受領時刻と媒体番号を記録し、書込防止窓を封印した。
倉庫内に、旧設備保守用の端末が一台ある。
通信機能を物理的に外し、フロッピーを読取専用で開いた。
表示されたファイルは四つ。
《REC000001.LOG》。
《PARTY12_ORG.CSV》。
《SEAL_AUDIT.DAT》。
《MANIFEST.SHA》。
原受理ログ。
事故班の編成表原本。
印影複製の監査履歴。
改変検知用の照合値。
「品目ファイルがありません」
ねむが一覧を確認した。
「受理ログの品目欄は、別ファイル参照になっています。参照先は空」
「それでも原本か」
相崎が課長へ訊く。
「俺が受け付けた時点のバックアップだ。ただし、完全じゃない」
課長は答えた。
「これ一枚で真相が出るなら、五年もかからん」
受理ログには二〇二一年の受付時刻と、受付担当者の職員番号が残っていた。
課長の番号だった。
申請目的欄は暗号化され、現時点では読めない。
申請品目は空白ではなく、外部参照。
白紙に見えていたのは、データそのものが存在しないからではなかった。
編成表原本を開く。
第十二ダンジョン深層班は六人。
公開記録から消えていた六人目の行に、《相崎悠人》とあった。
日付、装備番号、潜行時刻は真鍋の日誌と一致する。
だが誰が公開記録を改変したかは、この表だけでは分からない。
印影監査ファイルには、《相崎》の印影画像が登録された時刻と、複製版の試験出力回数がある。
登録者は共通アカウント。
使用者の個人名は残っていない。
フロッピーは三つの改変があったことを示した。
申請品目の切離し。
編成行の削除。
印影の複製。
その三つを誰が命じ、000001番に何が収められたかまでは示さない。
「照合が要ります」
ねむが言った。
「真鍋さんの日誌、指輪、集合写真、婚約報告カード。紙の原本も」
「一つでも合わなければ」
「フロッピーの方を疑います」
相崎は画面の《REC000001.LOG》を閉じた。
媒体を証拠袋へ戻し、原本、読取像、複製二本を別々の保管者へ渡す。
一枚の古い記録へ、また一人の判断を集中させない。
救護員が課長を担架へ移す。
課長は酸素マスクを付けられる前に、相崎へ言った。
「それは答えじゃない。答えへ行くための、改ざん前の入口だ」
鉄扉の向こうでは、空になった七つの棚が封鎖番号を与えられていた。
000001番の受理ログに残る品目参照先も、同じように空だった。




