プロローグ:華麗なステップを踏んだ男
「……あ、これ、アカンやつだ」
それが、俺――ドッグトレーナー、犬飼 陣の三十数年の人生における、最後の記憶だった。
その日は、いつもと変わらない、少し肌寒い春の朝だった。お気に入りのチノパンに、動きやすいスニーカー。ルーズフィットな裏地付きジャケットを羽織り、俺はいつもの通勤ルートを歩いていた。手には大きめのマルチバッグ。中には犬用のリードやクリッカーが入っている。
信号が青になり、俺は何気なく横断歩道を渡り始めた。その時、鼓膜を突き刺すような猛烈な爆音が響いた。
キキィィィィィィッ!!!
見ると、交差点の向こうから、制御を失った黒い高級外車が猛スピードで突っ込んできていた。周囲の歩行者たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。俺も反射的にバックステップを踏もうとした――その瞬間、視界の端に、小さな白い影が映った。
「ワンッ!?」
それは、一匹のチワワだった。飼い主の手からリードが離れてしまったのか、恐怖で完全にすくみ上がり、アスファルトの上でガタガタと震えている。
考える時間はなかった。俺は自他共に認めるプロのドッグトレーナーだ。目の前で命の危機に瀕している犬がいる。その事実だけで、俺の身体は自分の意思を超えて弾け飛んでいた。
「危ないっ!!」
俺は地面を強く蹴り、チワワに向かってダイブした。両手で小さな震える身体を包み込み、そのまま自分の身体を回転させて歩道側へと突き飛ばした。
ゴオォォンッ!!!
直後、身体を襲ったのは言語を絶する衝撃と激痛。いや、痛みを認知した次の瞬間には、俺の意識は深い闇の底へと急速に沈み込んでいた。
(ああ、あのチワワ、無事だといいな……)
それが、俺の人間としての最後の思考だった。
◇◆◇
どれほどの時間が経ったのだろうか。ふと気づくと、俺は上下左右がすべて透き通った純白の空間にいた。
「おやおや、ようやく目が覚めたかね」
振り返ると、そこには立派な白髭を蓄えた、いかにも「神様」な身なりの最高権力者っぽいおじいさんが、豪華な椅子に腰掛けていた。
「ここは……? 俺、確か暴走車に……」
「うむ。結論から言うと、お主は死んだ。完全にこちらの管理ミスでの。お主の本来の寿命をかなり残した状態で巻き込んでしまった。神の不手際じゃ、平に容赦せよ」
神様は、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。不思議と怒りは湧いてこなかった。それよりも、俺には確認しなければならない最優先事項があった。
「神様、それはいいですから……あのチワワはどうなりました!?」
「おお、なんと自分の身より犬の心配か! 安心するがよい。お主の見事なダイブのおかげで、あの小さな命は無傷じゃ。今頃は飼い主の胸の中で元気にキャンキャン鳴いておるよ」
「……そうですか。よかった」
胸のつかえがストンと取れた。一匹の犬の未来を守れたのなら、ドッグトレーナーとしての最期としては悪くない。
「お主、本当に欲のない男じゃな。だが神のプライドにかけて、このままお主を無に帰すわけにはいかん。そこでじゃ、お主には記憶と魂を持ったまま、剣と魔法の存在する『異世界』へと転生してもらおうと思う。さらに、お詫びとして向こうの世界で生きていくために必要なものを【3つ】、何でもお望みのままに授けよう」
何でも3つ。最強の魔法才能だの、一撃必殺の聖剣だのを願う場面なのだろう。だが、俺の心に浮かんだ望みは、前世からずっと変わらないものだった。
前世での俺の夢。それは大々的なビジネスではなく、自分が愛する相棒と、趣味の家庭菜園でもやりながらのんびり静かに暮らすこと。たまに採れたての野菜をご近所さんに分けるくらいの、ユルいスローライフだ。
「神様、俺が欲しいものは決まりました」
「ほう、聞かせてみよ」
「1つ目。向こうの世界で生活するのに困らない、基本的な『生活スキル』をください。具体的には、相手の状態がわかる鑑定、言葉が通じる翻訳、それと最低限の衣食住や農業をまかなえるような能力です」
「うむ、お安い御用じゃ。衣服や家、植物をすくすく育てる水や土を魔力で生み出す『万能創造』、世界のあらゆる言語や魔獣の声を理解できる『万能翻訳』、さらに万物の情報を視覚化する『上位鑑定』。これらをまとめて授けよう」
「2つ目。誰も邪魔をしない、のんびり野菜を育てられる『静かな土地』をください。最初は小さくていいですが、自分の趣味に合わせて、いずれ少しずつ広げていけるような場所がいいです」
「土地とな! よかろう。人間の国からは遥か遠く離れた未開の地ではあるが、いくらでも領土を広げ放題なフロンティアの土地を授けよう。お主の意思一つで、境界線をいくらでも拡張できる特別な土地じゃ」
「最後の3つ目です。その土地で、俺と一緒に暮らしてくれる『最高のペット』をください。犬を、最高の犬を1匹、お願いします」
「犬、犬か……。お主のドッグトレーナーとしての腕と優しさに免じて、わしが持っているストックの中から、とっておきの『最高に可愛い子犬』をお主の領地に用意しておこう」
「ありがとうございます、神様」
「では、犬飼 陣よ。新たなる人生、大いに楽しむがよいぞ!」
神様が満足そうに深く頷き、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、純白の空間が眩い黄金の光に包まれ、俺の意識は再び浮遊感の中に溶けていった。




