第二十九話 再生の準決勝
秋の新人戦ーー若獅子旗争奪、福島県総合体育大会、県北予選二日目、Aブロック準決勝。
恭達金川が相手取るのは福島市の北に位置する伊達市の古豪、桃山スポ少。もちろんここまで勝ち残っているチームはどれも並以上の実力者達ばかりだ。
ーーー絢辻恭は妙な身体の軽さを感じていた。
その不思議な感覚は打席に入ってより研ぎ澄まされ、鋭敏な感覚がボールの縫い目や回転まで把握する。
(いつもは狙わないんだけどな……こんなの)
チームバッティングを基本信条とする恭はどんな時でもこの形を崩さない。だが今はどんなボールを待っていても弾き返す自信があった。
余計な力が抜け、まるで自分の中心に柱が立っていて地面に固定されている感覚。その軸をそのまま回転させれば良いのだと本能でわかる。
(あっ、これ……いけるわ)
第一打席、カウントはツーボールワンストライク。瑠衣をランナー一塁に置いた状況で、絢辻恭はインコース低めの難しい球をインサイドアウトで振り抜いた。
がきぃぃぃぃんっっっっっ!!!!
バットの真芯にボールが当たった時に出たとてつもない衝撃音があたり一帯に鳴り響く。振り抜くのではなく、ボールをバットに乗せる感覚。一瞬バットの重さが0になったかのような錯覚に陥った。
「「「いったぁぁぁぁぁ」」」
芯を食ったボールは左中間方向にぐんぐんと伸びて飛んでいく。着弾地点はレフトフェンスの遥か向こう側、打った瞬間確信のホームランだ。恭は人差し指を突き上げながらダイヤモンドを優雅に一周する。
「あ、あれが絢辻か………」
「あれで守備型の強肩キャッチャーってヤバいだろ」
「昨日の不調はなんだったんだよ!やっぱり第一シード、Aブロックの優勝候補大本命だ!」
この瞬間、その場にいるあらゆる人間が自分の姿に釘付けになる。人々が自分を称え、慄く。その時だけは自分が人生の主役になったような気分だ。おそらくどんな快楽でもこのホームランの快感には勝るまい。
ゆっくりと余韻を噛み締めるようにホームベースを踏んだ恭。バッターボックスで迎えた梅津一心とハイタッチをする。
「ナイスバッティング」
「キャプテン、取り敢えず俺にどんどん打席回せ。今ならなんか全打席ホームラン打てる気がする」
「頼もしいね。あの恭がそこまで言うか」
完全に、人生最高の絶好調状態に入った絢辻恭。あまりの突然の覚醒だが、その要因はほんの数時間前にあった。
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ーーー身体中が、熱い。
半分夢現つに居た恭は、いつもはない妙な感覚を全身に感じていた。
「なんだこれ………生暖かい……春みたいな」
まるで母親のお腹の中にいるみたいな、不思議な感覚。もうずっとこのままで人生を終わりたい。そんな気分にさえなるほどに、心地よかった。
そして夢から覚めた恭は、思わず大きな声をあげそうになった。
「な、なに………この状況?」
当然だろう。恭の身体を抱っこするように、義妹の未来が引っ付いていたのだから。
驚嘆のあまり気が動転しそうになったが、時計を見て冷静になる。まだ午前3時になる前だ。ここで未来を起こしてしまうと寝不足で試合の集中に影響が出てしまうかもしれない。
(とにかく離れないと……離れ……はな……)
脚は完全に絡まり、腕は背中まで回されて抱きつかれている。離そうとすると無意識に腕の締まりが強くなりさらに抜け出せない。
起こさずに脱出する方法は、なかった。完全に詰んでいる。
(そもそも………なんで俺のベッドで寝てんだ?)
おおかた夜中にトイレに行った未来が寝ぼけて部屋を間違えてしまったといったところだろうか。願わくば抱き枕と義兄を間違えた段階で気がついてほしいものである。
(これ………どうすっかなぁ。どうもできないしなぁ。うん、諦めるか)
恭が取った選択肢は、このままこの状況を堪能して朝まで寝ようというものだった。寝不足が心配なのは何も未来だけの話ではない。
とここで、未来が何やら聞き取れない寝言を言いながら少しばかり動きを見せた。
「むにゃ………んんっ……あつい………」
そう言うと未来は自分でパジャマの1番上のボタンを開く。流石に未来も夢の中で寝苦しいのだろう。ただ、至近距離の目の前に突然真っ白な谷間が現れた恭はたまったものではない。
流石に視線を外せない。目の前に現れた柔らかな温もりに、理性が揺らぐ。
(ええい………不可抗力だ!)
恭は彼女が起きないことに賭けて、顔を未来の谷間にダイブさせた。顔中から受ける柔らかさと弾力。そして彼女の高い体温を全身で受け止めたことによる心いっぱいに広がった安らぎが、恭の体と精神に蓄積された疲労を全て癒す。
(もう、起きたくない。ここで死にたい。)
そのまま意識を落とし、義妹を枕にして眠る。もちろん言うまでもなく、人生最高の目覚めだった。
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真相は度を超えたシスコンが妹成分を許容値を超えた過剰摂取をしたことによる大爆発。というなんとも阿呆らしい結論だった。
だがそんなことは「ソレ」を食らっている相手チームには知る由もないし、また知ったところでどうすることもできない。準決勝は恭のキャッチャーとして限界突破したスペックの暴力が猛威を振るい、徐々に一方的な展開になりつつある。
(なんっちゅう強気なリードなんや。ほんまにコイツ恭か?別人と入れ替わっとるやろこれ)
ペンを片手に配球表をつける彩音の父、三橋バッテリーコーチはその分布を見て恐れ慄く。今日の絢辻恭のリードはいつもと一味違う。スライダーを有効に使うにはバッターの内角をついてホームベースを横に広く使うこと。それは胡桃と共に散々口酸っぱく彼に言ってきたことだった。
元々右バッターへのインコースや左バッターのアウトコース。つまりクロスの軌道を描くボールに関しては元々自信があった彩音だ。だがこの試合のバッテリーは左バッターのインコースも執拗についていく。デッドボールも2個ほどあったが関係ない。すぐに二塁も踏めずキャッチャーの恭が刺し殺してしまう。
(この大舞台で失敗することへの恐れが全く無い。絶対的な自信を持って相手を見下ろしてへんと絶対にできん配球やろこんなもん)
さらに身体がよほどキレているのか、課題だったストッピングもここまではミスなし。
内角を意識させられて身体が開いたバッター、そしてストッピングが安定したことで安心して低めに変化球が投げられるピッチャー。それが揃った時に打者に残される選択肢はほとんどない。
この試合、マウンド上でエース三橋彩音によるとてつもない奪三振ショーが上演されていた。
「すげえこの回もアウト全部三振だぞ!?」
「もう10個目だ!」
「スライダーキレキレすぎるだろ!ていうか小学生が本当に当てられるのか?」
昨日とは全く違う彩音の姿。それは観衆が本来求めていたエースの姿で、グラウンドのボルテージがどんどん加速度的に上がっていくのを感じる。やはり準決勝、しかもこの十六沼のメイングラウンドでホームからベンチ周辺まで上に観客席が設置されているAグラウンドなだけあって注目度も相当高い。
隣には体育館やテニスコートがあるこの球場。大会の合間に見にきているのだろうテニスウェアやバスケットボールのジャージを着ている高校生も多く居る。
(いい、めちゃくちゃ良い!今まで受けた中で1番最高のピッチングだ。やっぱ観客居て目立つとモチベーション上がるのか。)
確かな手応えを感じてうんうんと頷いてボールを彩音に返す恭。スリーアウトで戻ってくる足取りも心なしか軽く見える。完全に手がつけられないほどノッている。
スコアはもう既に8-0まで来ている。走者を二塁にすら到達させていない今の状況から考えればほぼセーフティリードと言えた。おそらく先攻めの自分達が打って、裏の回を守れば時間的に勝利だろう。
重い防具をつけたままベンチに腰掛けると、志姫がジャグから汲んだ水をコップに注いで持ってきてくれた。
「さんきゅー、助かるわ」
「うん。それと………次の相手、決まったみたい」
ーーー本来、対戦相手と戦っている最中に次の相手のことを話すのはタブーだ。最後のスリーアウトを取るまで負けが確定しないスポーツな以上、その油断に足元を掬われる可能性はずっと残り続ける。何より一生懸命に戦う相手チームに失礼だ。
だが今回は意識せざるを得ないだろう。何せ自分達のベンチの裏で、バッグを置いて既に陣取っている彼らが近くに居るのだから。
「郭内………か。見るからに強そうだな。」
「強いですよ。二本松市の第二シードです。順当に上がってきたという感じでしょうか。」
志姫に代わってその説明は一ノ瀬胡桃が割って入るように引き継いだ。もちろん相手が近くにいるので小声で、ではあるが。
胡桃は1人ランナーが出れば打順が回ってくるのでバッティンググローブを守備用手袋から付け直している最中だった。
「郭内は岩代に決勝で負けはしましたがスコアは1-0。最後はヒットが出ればサヨナラのところまで行きましたから。かなり実力があるのは間違いないです。」
「そういやそんなこと未来が前に言ってたっけ。」
「しかし詳しいわね胡桃ちゃん……他の地区の予選まで、すごい……」
「岩代さんに伝手がありますから。正確に言うなら数人の連絡先を持っています」
「うわぁ……コミュ強だぁ………」
クール系一匹狼に見えて情報収集のためには手段を選ばないのが一ノ瀬胡桃という女の子である。情報の価値は一時の恥に勝る。事実、対戦相手をイメージするのに非常に重要な要素になる。そのイメージを相手と一度ぶつかってから掴むのと試合前に持っているのとでは策の仕掛けやすさが天と地ほどの違う。
「郭内さんは毎年強打の打線を作ってきますが、今年はピッチャーを中心にした守りのチームです………というか。このチームはエースで4番の人の力があまりにも抜けすぎている。ワンマンチームと言って良い。他の方々も相当な実力の筈ですが」
「エースで4番?」
「赤桐英輔さんと言いまして、事実として春先まで落ち込んでいたチーム状況が赤桐さんの退院して復帰したと同時にみるみると………すいません、また後で。ネクスト行ってきますね」
初球、二球目と早いカウントから打って高速で凡退してきた井桁と大友に対して、これからが良いところだったのにと若干不機嫌さが見える胡桃だ。本人は隠しているつもりだろうが、そのちょっと鋭くなった目に感情が出ている。
(エースで4番………ってことは背番号は1だよな、多分。キャプテンとは言ってなかったし)
後ろで思い思いに観戦している郭内ナイン。ざっと目を通して………偶然後ろを向いた人間がいた。そいつが背番号1を背負っている。
(あれが……?思ったより
体格が……)
小さい――そう思った次の瞬間、恭は自分の認識を恥じた。しっかりと胸板は厚く、太腿もかなり太い。小学生ながら鍛え上げられた肉体は遠くからでも目を見張るものがある。
(胡桃ちゃんは退院って言ってた。怪我でもしてたのか?それとも……)
グラウンドを見ると7番の風太郎が情けない打球をサードに飛ばしてアウトになる。結局胡桃には打席は回ってこなかったようだ。
パチンっ!
恭は思考の海から脱出し、頭を切り替える。頬を叩いて闘魂注入。決勝を賭けた最後の守備に向かっていった。
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ーーー容姿端麗、スタイル良し。運動神経は抜群で頭脳明晰。何もしなくても女の子は寄ってくるし、尊敬され、全ての行動にプラスの補正がかかる。
そんな赤桐英輔の人生が、約束された薔薇色からドス黒いヘドロに染められたのは、今から半年以上前のことだ。
「子どもさんは、英輔くんは………残念ながら脳に悪性の腫瘍が見られました。すぐにもっと精密な検査と、適切な治療が必要になります。」
「脳に………腫瘍……?」
最初は、ただの風邪だと思った。確かにいつもより頭は痛かったし、吐き気もした。かかりつけのクリニックで診断を受けたと思ったら病院をたらい回しにされ、遂には大学病院にまで行かされた挙句、出た結論がこれである。
「英輔は………英輔は治るんですよね!?少し入院して………また元気に走り回れるようになるんですよね!?」
「…………落ち着いて。英輔くんの腫瘍は、かなり取り出すのに困難な位置にあります。手術をしたとして成功する確率は………そう高くはない。」
「そんな………」
ーーー言葉の意味は理解できた。
けれど、それが自分の未来だとは理解したくなかった。ドラマの中の外科医さんのセリフで、自分とはなんの関係もない台本の中の患者さんへのものであってほしかった。
「俺は………死ぬんですか?」
「…………正直言って、その確率は多分にある」
「そう……そうですか」
赤桐英輔はその時、『死』とはなんだろうと生まれて初めて深く考えた。それに直面するのはずっとずっと先のことで、考えもしなかったことと自分が結びつく。
死んだら天国に行くのか?いや、天国なんてあるはずがない。今までの何百億何千億の人間がみんな雲の上に行っていたら、重さで雲が空から落ちてきてしまう。
全ては燃えて灰になる。骨だけになって、真っ暗な地中に埋められる。でもその頃にはそれを感知する脳も目もない。この世に………自分の存在がない。
(この世に自分の存在がないって………一体なんなんだろうか。)
死んだら、全てが終わりだ。可愛い女の子と結婚して、お金をいっぱい稼いで、たらふく贅沢をして。そんな約束されたような明るい未来も、友達と遊んでライバルと競った過去も全てが消える。初めてそれを意識した途端、身体の震えが止まらなくなった。
「どうしようどうしようどうしよう!死にたくない死にたくない死にたくない!こんなところでっ………死にたくっ………ない……」
泣き顔をくしゃくしゃにして無様に泣き喚く、少年。そう、彼の生きた時間はたったの10年だ。将来を嘱望され、尊敬され………それなのに何も成せずにこの世を去るなら。
「俺は………何のために……生まれてきたんだ?」
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赤桐英輔は長い瞑想から目を開けた。夢の全国大会への第一歩。県大会までは残り一つまで来た。目標までの視界は良好、身体の調子も絶好調だ。
半年前まで、ずっと目の前に迫った死に怯えながら震えて生活していたことが、まるで嘘のよう。リハビリに費やした春。夏に実績を上げてエースとして信頼を得て、今やチームメイトやライバルから一目置かれているのが自分でもよくわかる。本当に………まるで奇跡のようだ。
「神の奇跡に感謝します。アーメン。」
目の前で十字を切る。病気を機に教えてもらったコレもなかなかに馴染んでサマになってきた。別に神を心から信じているわけでもないがこのルーティーン、マウンドでやると外国人投手みたいでなかなかにカッコいいのでよくやっている。
「英輔、金川勝ったぞ。8-0。荷物の準備しとけ」
「はい。今すぐ行きます。」
肉体も気力も充実し、ゆっくりと立ち上がる。首にかけたロケットをアンダーシャツから取り出して、中を開けた。その冷たい金属の感触が、確かに自分が生きている証のように思えた。
「じゃあ、勝ってくるよ。沙月。」
今はもうこの世にはいない、神の元に行ってしまった愛しい人の名を呟きながら。強豪チーム郭内の背番号1、赤桐英輔は決戦の地へと向かった。




