第9章 白球と血の匂い
夏の陽射しがグラウンドを焼きつけていた。
蝉の声が耳の奥にまで染み込み、汗は瞬く間にシャツを重くする。
それでも、練習は止まらなかった。
竜司はキャッチャーミットを構え、山下が投げ込む直球を受けるたび、手首が痺れた。
――速い。
山下は元暴走族の特攻隊長。喧嘩では鉄パイプを振り回すタイプの男だが、ボールを握ったときの集中力は別人のようだった。
しかし、それが部をまとめるかというと、話は別だ。
休憩時間になると、グラウンドの片隅で口論が始まる。
「てめぇ、また手を抜いただろ」
「抜いてねぇよ、見てわかんねぇのか?」
小競り合いは日常茶飯事だった。
そんな空気を一変させたのは、顧問の高瀬だった。
「今日は走り込みだ。30周。タイムが遅い奴は、追加だ」
炎天下での走り込み。もはや練習というより拷問に近い。
だが、高瀬は眼鏡の奥から一切の感情を消した視線を向け、ただストップウォッチを握っていた。
最初は反発していた不良たちも、次第に言い返すことをやめた。
その空気が少しずつ「仲間意識」に変わっていくのを、竜司は肌で感じていた。
だが、その矢先だった。
練習後、部室に戻ると、金属バットのケースが荒らされていた。
ロッカーには白い粉末が詰められた小袋――見覚えのある形。
竜司の背筋に冷たいものが走る。
「誰が……こんなモン、置いた?」
誰も答えない。沈黙の中、山下が吐き捨てた。
「警察沙汰にしたら終わりだぞ」
その夜、竜司は港の倉庫街へ向かった。
薄暗い路地を抜けた先、停まっている黒塗りのワンボックス。
窓から覗く顔は、竜司の過去をよく知る男――半グレ組織〈仁会〉の幹部、宮城だった。
「よう、竜司。野球なんざ似合わねぇな」
宮城は笑いながら、小袋と同じ粉を取り出す。
「部の評判、落とすのは簡単だ。お前らが甲子園行くのを邪魔するのもな」
竜司は拳を握り締めた。
「……俺たちを潰すつもりか」
宮城は答えず、代わりに言った。
「借りは返せよ。お前が昔、俺らに助けられたこと、忘れてねぇだろ?」
帰り道、海風が頬を冷やしても、竜司の心は灼けるように熱かった。
仲間の誰かが裏切ったのか、それとも外部からの仕掛けか――。
次の練習試合まで、あとわずか。
そしてその試合こそ、彼らが「伝説」になるための第一歩になるはずだった。
だが、白球を追うその影に、血と裏切りの匂いが混じり始めていた。